ありがとうの物語

宮田新一さん

宮田新一さん(69歳)プロフィール  

1946年生まれ 埼玉県草加市出身

大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。
51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。
後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について
啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。


仲間たちと観光農園でイチゴ狩り。イチゴの赤が見えるのが嬉しい。

仲間たちと観光農園でイチゴ狩り。イチゴの赤が見えるのが嬉しい。

精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病

白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。

白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。

———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか?

左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。

———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか?

51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。

絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」

絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」

———重症だったのでしょうか?

はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。
体中管だらけで絶対安静の状態だった。

奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」

———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。

医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。
その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。

———それで頑張ってその1年後に会社に復帰できたのですね。

はい。ところが1年後に目の炎症がおきました。角膜穿孔寸前まで炎症がひどくなり、さらに真菌におかされたのです。その結果一時期は全盲状態となり、目の病院に入院しました。ほんの少し改善しましたが、加齢による重度の乱視の進行は防げず 最初は一つの物が3~4つぐらいに見えていたものが、今はシャンデリア状態で数が数えられないほどです。だんだん高級なシャンデリアになりました。(笑)
仕事のほうは乱視が次第にひどくなり、とうとう電気回路図が読めなくなった。「薄皮をはぐように良くなる」という言葉があるけれど、私の目はその逆で、「薄皮が増すように」見えなくなる。「昨日まで見えていたあれが見えないこれも見えなくなった…」と。さすがに落ち込みました。結局、会社は退職することになりました。

———そうでしたか。

そんな時、獨協大学の眼科ロービジョン外来の主治医に『ロービジョン友の会アリス』を勧められたのです。気の進まないまま参加してみて…衝撃でした。全く見えない参加者が明るく笑っている。「えっ何で?」って。そして「会に電気関係の事の分かる人がいないの。電気メーカに勤務していたのなら担当になってくれない?」と頼まれたのです。「まだ人の役に立つ?えっもしかして俺って…生かされているんだ!」と気づいた瞬間でした。これを機に「ロービジョン者として生きて行こう」と決めたのです。「俺、これから別の人生を歩める。他の人の経験できないような人生、これもまた楽しいじゃん」と。
異国の人になったみたいな気分になりました。

「誰かの役に立てる」ことを気づかせてくれた、視覚障害を持った仲間たち。

「誰かの役に立てる」ことを気づかせてくれた、視覚障害を持った仲間たち。

私たちが笑顔で出歩けるのが、誰にとっても暮らしやすい社会

———実際に患者会に入ってみてどうでしたか?

仕事では主にビデオ機器の修理をしていたので、パソコンや音声機器関係のことではもちろんお手伝いできました。しかしそれ以上に約30年間、サービスマンとしていろいろなお宅を訪問し、お客様とコミュニケーションしてきた営業マン的な経験が役立ちました。

———患者会活動ではどんなことをするのですか?

たくさんの遊びを企画しています。楽しいことなら何でもです。私のように人生後半に目が不自由になるいわゆる中途失明は衝撃が大きく、多くの人たちが絶望したまま引きこもりがちなのです。視覚障害者とはつまり移動障害者のことなんです。見えづらさを抱えた人々がもう一回外に出られるようにしたい。白杖の人たちが大勢で人ごみに繰り出して楽しそうに街を闊歩する。電車やバスに乗る、レストランやカフェに入る。映画や演劇を見に劇場に行く、トイレを使う…。そして周囲の人に少し手助けをお願いする。

———視覚障害者の存在を世間の人に知ってもらうということですね

そうです。白杖を持った私たちが笑顔でいるのを見れば、健常者の人も「もし自分が見えづらくなっても大丈夫なんだ」と感じるでしょう。障害や弱さをもった人が楽しく過ごせるところは、誰にとっても暮らしやすい社会なんです。

花見、イチゴ狩り、料理教室、ビール工場見学、飲み会…楽しいことは何でも一緒に。

花見、イチゴ狩り、料理教室、ビール工場見学、飲み会…楽しいことは何でも一緒に。

「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった

福祉イベントで小学生にパソコンの音声読み上げについて教えることもある

福祉イベントで小学生にパソコンの
音声読み上げについて教えることもある

———生活上では何か変化がありましたか?

一番の変化は感謝の気持の深さですね。以前はなんとなく社交辞令とか挨拶みたいに言っていた「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった。それを自覚したのは、当時外来に行くために病院の前の横断歩道で信号待ちをしていた時です。福祉の授業を受けたばかりらしい小学校4年生くらいの男の子が近づいてきて「おじさん信号青だよ、渡れるよ」と声をかけてくれたのです。私はこの子のひと言が嬉しくて、感情がこみ上げて病院の入り口でぼろぼろ泣き出しちゃった。感謝の気持が体の深いところからわき上がってくる体験でした。

———いろいろな方と支え合っていると思いますが身近で一番感謝したい人は?

アリスの会や虹の会の仲間達、お医者さん、街ですれ違う人、そう。みんなだよね。でもやっぱり一番は女房だね。女房は私が倒れた時にもすごい頑張った。私が入院していた時は、親父も入院中、妹も看病疲れて具合が悪くて入院しちゃった。3人の病人を同時に見ていてくれた。本当に強いのにいつも淡々としている。感謝の言葉ってなかなか言えるような場面がないけど、本当は心の底からありがとうって思っているんだよね。ちょっと照れくさいけどね。手紙を書いてみました。

宮田新一さん から ありがとう の手紙

お酒が好きなのでボトルのデザインに感謝を込めて。

お酒が好きなのでボトルのデザインに感謝を込めて。

「こちらこそこれからもよろしくお願いします」と奥様の和子さん。

「こちらこそこれからもよろしくお願いします」と奥様の和子さん。


インフォメーション

ロービジョン

ロービジョンとは視機能が弱く、矯正もできない状態をいいます。それにより日常生活や就労などの場で不自由を強いられます。従来は弱視、または低視力と呼ばれた状態です。
調査によると日本はロービジョンの人は約144万いて、視力が0.01以下の「失明者」は18万8000人います。視覚障害の主な原因となるのは緑内障、糖尿病性網膜症、網膜色素変性症、黄斑変性症などです。病名に関わらず、見えづらくなると移動の不安や情報伝達の困難などから精神的にも不安を感じることが多くなります。

患者会情報
●ロービジョン友の会アリス http://lowvision-aris.jimdo.com/
●草加 視覚障がい者 虹の会 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/index.html


(撮影)多田裕美子

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