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ちゃんと知ろう自分のカラダ
つくばセントラル病院脳神経内科部長 高橋良一先生 「眠ろうとしてもなかなか寝付けない」という不眠の体験のある方がほとんどではないでしょうか。心配事や試験・発表会の前日、熱帯夜など眠れない原因はさまざまですが、通常は長期間、その状態が持続せずに睡眠がとれるようになります。 しかし、不眠が1か月以上にわたって続く場合があります。不眠が続くと、日常生活での不調が出現するようになります。日中のだるさや意欲・集中力低下、抑うつ、めまい、食欲不振などさまざまな症状があり、「長期間不眠が続き、日中に精神や身体の不調を自覚して生活の質が低下する」とき、不眠症と診断されます。 不眠症は次の4つのタイプがあります。なかなか寝付けない「入眠障害」、眠りが浅く何度も目が覚める「中途覚醒」、期待した時間より早く目が覚める「早朝覚醒」、睡眠の満足感が得られない「熟眠障害」です。脳神経内科外来で診療することが多い高齢の方は、とりわけ中途覚醒で悩むケースが多いです。 日本人を対象にした調査で、5人に1人が「何らかの不眠がある」と回答しており、60歳以上の方では約3人に1人で睡眠問題があるといわれています。頻度の高い症状で、診察室で不眠の悩みをお聞きすることは非常に多いです。 「出口の見える不眠治療」が重要視 不眠症については、睡眠時無呼吸症候群や、むずむず脚症候群とも呼ばれる主に下肢に不快な症状を感じるレストレスレッグス症候群、うつ病のような特別な原因がないか考えることからはじめています。 薬物治療に入る前に、「夕方以降カフェインやアルコール摂取を避ける」、「寝室は寝る目的のみに使用する」など生活習慣の見直しも重要です。睡眠について知識を得たいときには、厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」(※)も参考になります。同指針は、「睡眠12箇条」を掲げています。 【健康づくりのための睡眠指針2014 睡眠12箇条】 1.良い睡眠で、からだもこころも健康に。2.適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。3.良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。4.睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。5.年齢や季節に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。6.良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。7.若年世代は夜更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。8.勤労世代の疲労回復・能率アップに、毎日十分な睡眠を。9.熟年世代は朝晩メリハリ、ひるまに適度な運動で良い睡眠。10.眠くなってから寝床に入り、起きる時刻は遅らせない。11.いつもと違う睡眠には、要注意。12.眠れない、その苦しみをかかえずに、専門家に相談を。 不眠症の薬物治療については、「薬を使うとやめられなくなる」「目を覚ましづらくなる」など抵抗を感じる方も多いと思います。新しく開発された薬剤については、依存性や退薬症状(中止するときにおこる副作用)が少ないものがあります。オレキシン受容体拮抗薬は、新しい効き目の睡眠薬で、覚醒に関わるオレキシンの効果を減らすことで自然な睡眠の導入を目指す薬剤です。効果が比較的長時間持続するため、「中途覚醒」への有効性が期待でき、薬剤を中止するときに起こる「反跳性不眠(突然服用を中止すると服用前より強い不眠が現れるようになること)」のリスクも低いといわれています。 こうした新規薬剤の登場により、治療の導入時から、不眠が改善したら薬を減量・中止することを意識した「出口の見える不眠治療」が重要視されています。不眠症について、睡眠薬の長期間の投与や、多剤併用をなるべく避けて治療を目指したいと考えています。 ※厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000047221.pdf 【お知らせ】不眠症治療は脳神経内科では扱っておりませんので、セントラル総合クリニック 一般内科にご相談ください。
三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか? 14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか? フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか? 乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。 私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか? 2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。 最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか? 実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか? まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか? がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか? 手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね 抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか? 私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう? 手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね 告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう? 手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか? 『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。 はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか? 私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。 そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子
鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。 はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。 はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか? 1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか? 季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか? まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか? 最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。 他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか? 大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。 そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか? アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか? ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか? ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか? はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。 はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか? きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか? セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか? 内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか? 僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。 休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか? これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。 ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。 やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。 アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子
つくばセントラル病院脳神経内科部長 高橋良一先生 「眠ろうとしてもなかなか寝付けない」という不眠の体験のある方がほとんどではないでしょうか。心配事や試験・発表会の前日、熱帯夜など眠れない原因はさまざまですが、通常は長期間、その状態が持続せずに睡眠がとれるようになります。 しかし、不眠が1か月以上にわたって続く場合があります。不眠が続くと、日常生活での不調が出現するようになります。日中のだるさや意欲・集中力低下、抑うつ、めまい、食欲不振などさまざまな症状があり、「長期間不眠が続き、日中に精神や身体の不調を自覚して生活の質が低下する」とき、不眠症と診断されます。 不眠症は次の4つのタイプがあります。なかなか寝付けない「入眠障害」、眠りが浅く何度も目が覚める「中途覚醒」、期待した時間より早く目が覚める「早朝覚醒」、睡眠の満足感が得られない「熟眠障害」です。脳神経内科外来で診療することが多い高齢の方は、とりわけ中途覚醒で悩むケースが多いです。 日本人を対象にした調査で、5人に1人が「何らかの不眠がある」と回答しており、60歳以上の方では約3人に1人で睡眠問題があるといわれています。頻度の高い症状で、診察室で不眠の悩みをお聞きすることは非常に多いです。 「出口の見える不眠治療」が重要視 不眠症については、睡眠時無呼吸症候群や、むずむず脚症候群とも呼ばれる主に下肢に不快な症状を感じるレストレスレッグス症候群、うつ病のような特別な原因がないか考えることからはじめています。 薬物治療に入る前に、「夕方以降カフェインやアルコール摂取を避ける」、「寝室は寝る目的のみに使用する」など生活習慣の見直しも重要です。睡眠について知識を得たいときには、厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」(※)も参考になります。同指針は、「睡眠12箇条」を掲げています。 【健康づくりのための睡眠指針2014 睡眠12箇条】 1.良い睡眠で、からだもこころも健康に。2.適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。3.良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。4.睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。5.年齢や季節に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。6.良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。7.若年世代は夜更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。8.勤労世代の疲労回復・能率アップに、毎日十分な睡眠を。9.熟年世代は朝晩メリハリ、ひるまに適度な運動で良い睡眠。10.眠くなってから寝床に入り、起きる時刻は遅らせない。11.いつもと違う睡眠には、要注意。12.眠れない、その苦しみをかかえずに、専門家に相談を。 不眠症の薬物治療については、「薬を使うとやめられなくなる」「目を覚ましづらくなる」など抵抗を感じる方も多いと思います。新しく開発された薬剤については、依存性や退薬症状(中止するときにおこる副作用)が少ないものがあります。オレキシン受容体拮抗薬は、新しい効き目の睡眠薬で、覚醒に関わるオレキシンの効果を減らすことで自然な睡眠の導入を目指す薬剤です。効果が比較的長時間持続するため、「中途覚醒」への有効性が期待でき、薬剤を中止するときに起こる「反跳性不眠(突然服用を中止すると服用前より強い不眠が現れるようになること)」のリスクも低いといわれています。 こうした新規薬剤の登場により、治療の導入時から、不眠が改善したら薬を減量・中止することを意識した「出口の見える不眠治療」が重要視されています。不眠症について、睡眠薬の長期間の投与や、多剤併用をなるべく避けて治療を目指したいと考えています。 ※厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000047221.pdf 【お知らせ】不眠症治療は脳神経内科では扱っておりませんので、セントラル総合クリニック 一般内科にご相談ください。
三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか? 14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか? フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか? 乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。 私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか? 2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。 最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか? 実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか? まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか? がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか? 手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね 抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか? 私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう? 手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね 告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう? 手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか? 『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。 はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか? 私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。 そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子
鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。 はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。 はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか? 1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか? 季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか? まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか? 最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。 他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか? 大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。 そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか? アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか? ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか? ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか? はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。 はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか? きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか? セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか? 内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか? 僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。 休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか? これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。 ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。 やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。 アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子