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  • 出口見える不眠治療、「睡眠12箇条」参考に

    出口見える不眠治療、「睡眠12箇条」参考に

    つくばセントラル病院脳神経内科部長 高橋良一先生 「眠ろうとしてもなかなか寝付けない」という不眠の体験のある方がほとんどではないでしょうか。心配事や試験・発表会の前日、熱帯夜など眠れない原因はさまざまですが、通常は長期間、その状態が持続せずに睡眠がとれるようになります。  しかし、不眠が1か月以上にわたって続く場合があります。不眠が続くと、日常生活での不調が出現するようになります。日中のだるさや意欲・集中力低下、抑うつ、めまい、食欲不振などさまざまな症状があり、「長期間不眠が続き、日中に精神や身体の不調を自覚して生活の質が低下する」とき、不眠症と診断されます。  不眠症は次の4つのタイプがあります。なかなか寝付けない「入眠障害」、眠りが浅く何度も目が覚める「中途覚醒」、期待した時間より早く目が覚める「早朝覚醒」、睡眠の満足感が得られない「熟眠障害」です。脳神経内科外来で診療することが多い高齢の方は、とりわけ中途覚醒で悩むケースが多いです。  日本人を対象にした調査で、5人に1人が「何らかの不眠がある」と回答しており、60歳以上の方では約3人に1人で睡眠問題があるといわれています。頻度の高い症状で、診察室で不眠の悩みをお聞きすることは非常に多いです。 「出口の見える不眠治療」が重要視  不眠症については、睡眠時無呼吸症候群や、むずむず脚症候群とも呼ばれる主に下肢に不快な症状を感じるレストレスレッグス症候群、うつ病のような特別な原因がないか考えることからはじめています。  薬物治療に入る前に、「夕方以降カフェインやアルコール摂取を避ける」、「寝室は寝る目的のみに使用する」など生活習慣の見直しも重要です。睡眠について知識を得たいときには、厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」(※)も参考になります。同指針は、「睡眠12箇条」を掲げています。 【健康づくりのための睡眠指針2014 睡眠12箇条】 1.良い睡眠で、からだもこころも健康に。2.適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。3.良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。4.睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。5.年齢や季節に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。6.良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。7.若年世代は夜更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。8.勤労世代の疲労回復・能率アップに、毎日十分な睡眠を。9.熟年世代は朝晩メリハリ、ひるまに適度な運動で良い睡眠。10.眠くなってから寝床に入り、起きる時刻は遅らせない。11.いつもと違う睡眠には、要注意。12.眠れない、その苦しみをかかえずに、専門家に相談を。  不眠症の薬物治療については、「薬を使うとやめられなくなる」「目を覚ましづらくなる」など抵抗を感じる方も多いと思います。新しく開発された薬剤については、依存性や退薬症状(中止するときにおこる副作用)が少ないものがあります。オレキシン受容体拮抗薬は、新しい効き目の睡眠薬で、覚醒に関わるオレキシンの効果を減らすことで自然な睡眠の導入を目指す薬剤です。効果が比較的長時間持続するため、「中途覚醒」への有効性が期待でき、薬剤を中止するときに起こる「反跳性不眠(突然服用を中止すると服用前より強い不眠が現れるようになること)」のリスクも低いといわれています。 こうした新規薬剤の登場により、治療の導入時から、不眠が改善したら薬を減量・中止することを意識した「出口の見える不眠治療」が重要視されています。不眠症について、睡眠薬の長期間の投与や、多剤併用をなるべく避けて治療を目指したいと考えています。 ※厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000047221.pdf 【お知らせ】不眠症治療は脳神経内科では扱っておりませんので、セントラル総合クリニック 一般内科にご相談ください。

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 皮膚の状態は気候や疲れ方などその日のコンディションにより変化します

    【第15回】痒みで辛い時、落ち込んだ時、どんな時も変わらず笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。  はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。  はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか?  1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか?  季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか?  まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか?  最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。  他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか?  大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。  そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか?  アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか?  ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか?  ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか?  はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。  はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか?  きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか?  セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ  ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか?  内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか?  僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。  休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか?  これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。  ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。  やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。  アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子

  • 浅草雷門から近い『鈴楼』は真っ赤な内装が印象的なバー。愛犬トモと一緒に立ち寄る馴染みのお店

    【第12回】大好きな町で愛犬と共に暮らす。幼なじみの友達と浅草の人情にありがとう

    戸山純子さん プロフィール 1952年 東京都台東区出身 ウェブデザイナー30代まで小劇場の女優として活動。32歳の時、銀座でコーヒー専門店を開店し8年間オーナーとして運営を行う。その後、友人の依頼でカウンターバーの開店を手伝い13年間運営に従事。52歳のころリウマチと診断されるが治療により現在はほぼ寛解状態にある。フリーランスのウェブデザイナーとして企業のサイトの画像処理やシステムづくりを担当する。 🍀介護、仕事で忙しい毎日を突然襲った関節の腫れと痛み 着物を日常着として楽しみたい。季節のタケノコをあしらった帯は江戸っ子らしい粋な着こなし ———戸山さんはお元気そうですが関節リウマチ(以下リウマチ)という持病をお持ちなのですね。  はい。現在は痛みもなく安定した状態ですが、約10年前の52歳の時にリウマチを発症しました。それ以前から関節痛のため整形外科を受診していたのですが…ある朝目覚めたら、手首と足首が腫れて、膝もぷっくりとボールのようで…大変な痛みでした。かかっていた整形外科でリウマチと診断され、リウマトレックスという抗リウマチ薬の飲み薬を処方され約1年間治療しました。 ———リウマチは痛みの他に全身倦怠感がひどいそうですね  はい。関節の痛みの他に熱が出る事もありました。リウマチの薬に加え炎症を抑えるためのステロイドの錠剤と点滴を1週間に一度打っていました。ステロイドを使うと顔がむくみ気分が悪くなるときもありますが、関節の痛みはすぐ引くんです。ただ、その効果は長続きしないので困りました。 ———大変でしたね。当時体調をくずす原因となるようなことはありましたか?  女優時代はかなり不規則な生活でしたね。32歳の時、銀行から3000万円を借金して銀座にコーヒー専門店を開店し8年続けました。業績は好調で借金も返済しましたが、事情がありお店は閉店しました。ほどなく友人が数寄屋橋でカウンターバーを開くというので、その企画から参加し運営を13年間手伝ってきました。仕事は多忙でしたね。その当時私は上野で一人暮らしをしていましたが父が亡くなって実家のある竹の塚(浅草から移り住んだ)に戻り、母と二人の暮らしが始まりました。母は抑うつ状態で、だんだん介護が必要な状態になっていきました。母は依頼心が強く1人では何も決断しないけれど、結構頑固で言い出したら聞かないタイプですから介護は大変でした。 ———リウマチのような免疫系の病気になる方は、それ以前にご本人が意識しなくても何らかのストレスがかかっている場合も少なくないと聞きます。  そうですか。当時、家族関係も大変でしたし、更年期で急に身体が熱くなり汗が噴き出すような症状も体験していました。特に原因は思い当たりませんが 仕事と介護が重なり気付かないうちに身体に負担をかけていたかもしれませんね。手足の関節にいくつもサポーターを付けて仕事に行っていました。 ———その後の経過はいかがでしたか?  私の場合は最初に通院した整形外科でもリウマチと診断され治療していましたが、約1年通っても症状が治まらなかったので、先生が荒川区の東京女子医大東医療センターのリウマチ科を紹介して下さいました。発症から1年後に生物学的製剤を使った本格的なリウマチの治療を始めました。私のように整形外科にかかっていても症状が長引く場合は、リウマチ専門医を早めに受診し、治療法について相談したほうがいいと思います。 🍀登場した新しいリウマチの治療薬に救われて ———そこではどんな治療をしたのでしょうか?  私が今使っているリウマチの薬、生物学的製剤は、当時まだ出たばかりでした。「生物学的製剤というのは遺伝子組み換え技術によってできたもので、リウマチの原因となる炎症蛋白を直接的に抑え込むお薬のことです」と先生に説明されました。1ヶ月4万円以上の治療費がかかると知り大変驚きましたが、治りたい一心で使う決心をしました。最初はレミケードという生物学的製剤を試しました。半日かけて病院で点滴を受けるのですが、これが私の身体に合わなくて、発熱したり口の中に湿疹がでたりして大変でした。熱が上がると点滴できずに「熱が下がるまで待ちましょう」と言われ、朝10時に病院に行って終わるのが夜8時になんてこともありました。体質に合わなかったけれどリウマチ自体はこのお薬で良くなったんです。2ヶ月に1度、6、7回は点滴を続けたと思います。 ———今もそのお薬を続けているのですか?  いいえ。 「 つらくて我慢できない 」 と先生に訴えたところ別の生物学的製剤のヒュミラという薬に変更しますと言われました。こちらは点滴ではなく注射をするタイプです。最初は病院に注射のために通っていたのですが、自分でできるようになったので今では自己注射をしています。 よく立ち寄るホットケーキで有名な喫茶『天国』のオーナーと ———自分で注射するなんて怖くないですか?  お腹に注射するので、もちろん痛いけど、病院で看護師さんが打つのとは違い自分のペースでできるので痛みは少ないですよ。自分なら液をゆっくり入れられますから。2週間に一度木曜日にお風呂上がりに打つと決めているので、入浴前に冷蔵庫からお薬を出し常温にしてから打つとあまり痛くないんです。私はこの自己注射のおかげで楽しく生活できています。ただリウマチの治療はどの薬が効くかも効果もかなり個人差があるようです。 ———その自己注射だけで体調を管理できているのですか?  自己注射に加えて、最初の整形外科で処方されたのと同じ飲み薬のリウマトレックスとステロイド剤のプレドニンも一緒に使っています。一時期、肝機能がだいぶ悪くなったことがあり6錠飲んでいたリウマトレックスを4錠に減らしたら、約3ヶ月くらいで肝臓の値は平常値に戻りました。毎月のお薬代が高いのが悩みですが、それでも早期治療により関節の変形が防げるそうなので、あの時迷わず決断してよかったと思います。おかげで関節の変形はありません。 🍀リウマチの痛みを忘れさせてくれた愛犬トモは人生のパートナー ———当時、リウマチの症状を抱えながらお母様の介護もなさっていたのですね。  はい。母にはヘルパーさんが来てくれていましたが、私も関節が痛くて動けなくなり寝込むこともありました。私は不満や愚痴を言い続ける母と2人でいることに疲れ、パグの赤ちゃん「トモ」を飼うことにしました。当時の私には生活のスパイスみたいなものが必要だったのですね。その母が9年前に亡くなり独り身になった時、トモと一緒に竹の塚から生まれ故郷の浅草に再び戻ってこようと決めたのです。トモは私の大切なパートナーです。当時は体調が悪くトモを散歩に連れ出せない私を心配して姪の娘たちも自宅によく来てくれました。今は中1と高1になりましたが孫のように可愛いです。 チンドン屋さんと遭遇。この町ならではの突然出現する異空間に紛れ込む楽しさ ———今マンションでの一人暮らし、毎日どんな風に過ごしていますか?  朝7時頃に起きて朝ご飯を食べ、まず犬の散歩をします。今は主にウェブデザインの仕事をしています。パソコンは得意で銀座のお店をやっている時に独学で覚えたんですよ。だいたい午前中から4時ころまでパソコンで作業します。フリーランスですから時間の使い方は自由ですが規則正しく生活しています。ほかに依頼があるとレンタル衣装屋さんで着付けのお仕事もしています。一番頑張っているのが週2回ストレッチ体操に通うことです。お料理は得意ですね。なるべく野菜を多めに、タンパク質もとるよう栄養には気を使っています。でも夕方街を散歩していて誰かに誘われれば飲みにいったりすることもありますね。 観光客の方の着付けも楽しい仕事です 観光スポットの中心にある行きつけの銭湯 蛇骨湯 ———今気をつけているのはどんなことでしょうか?  そうですね。冷えると関節が痛みますので身体を冷やさない事ですね。リウマチの症状というよりも、年齢的な問題で身体の衰えが心配です。身体が痛いのかもしれないのですがリウマチの痛みとして強く感じないのは、もしかしたら慣れてしまって元の状態を覚えていないせいかもしれません。トモの朝晩の散歩もトモのためだけでなく自分のために身体を動かしたいという気持ちで続けています。 ———他に健康法で実践している事はありますか?  お風呂に入る事ですね。一番症状がひどかった時は身体が痛くて自宅の湯船に入る事すら大変だったのですが、そんな時でもひたすらお湯につかって身体を温めるとずいぶん楽になりました。今は時々銭湯 『蛇骨湯』にも行きます。 🍀病気になって気づいた弱さや生きづらさを抱えた人の気持ち ———病気をしてから変わった事はありますか?  はい。なんだか人に寛容になりましたね。母も看取りましたしね。私自身は元気で活動的なタイプでしたので、昔は具合が悪いという人がいても、実は内心「大したことないのでは?さぼってるのでは?」という見方をしがちだったのです。このため「心が衰える」ということが実感としてよくわからなかったんです。でも自分がリウマチになって、毎日あちこちが痛く、なかなか治療法も定まらず、いろいろな事が自分の思い通りにならないというのを始めて体験して、弱さを持った人に優しくしようと思うようになりました。 ———感じ方が変化したのですね  そうですね。とはいっても、私は以前も今も1人でいることが苦痛ではないんです。べったり甘えあうような距離が近すぎる関係って苦手です。シンプルで普通の暮らしを淡々と送るのが自分らしいと思っています。今は規則正しい生活で薬もきちんと注射していますし体調に不安はないのですが、やはり地元に浅草の友達や幼なじみのみんながいることは心強く感じますね。 レンタル着物屋さんの社長とカフェバー『鈴楼』のスタッフ。浅草の若いお友達です ———地元の方っていいですね。  ええ、私より若い世代の浅草の友達といっしょに過ごすのも刺激があり楽しいです。それから同級生も多いです。雷門通りの鞄屋さんとか、橋場で大工やっている子、お豆腐屋さんとかね。商売していた人もみんな子どもが独り立ちしてもうのんびりしています。みんなどこか具合悪いとこがあるから病気の話もしますよ。血圧自慢になったりね。銀座のバー時代のお客さんも浅草にくれば声をかけてくれます。私にいろんな事を相談してくる人も多いんですよ。昔の友達に会えば一緒に過ごしてきた昔の時間に戻り、温かい気持ちになれます。「アタシ誰の世話にもならないわって!」なんてこっそり言うんですけど、やっぱり浅草は私の故郷。友達が近くにいることに「ありがとう」と言いたいです。 インフォメーション:関節リウマチ 関節リウマチは自己免疫疾患の一つで、全国に70万〜80万人の患者がいると考えられています。病気の男女比は1対4と女性に多く、高齢者の病気のような印象ですが実は働き盛りの30~50歳代がかかりやすい病気です。免疫の異常により関節の滑膜という組織に炎症が生じます。関節痛に加え、全身倦怠感や疲れやすさが特徴的です。手の指や足の指などの小さい関節の痛みで発症に気付く場合が多いですが膝などの大きな関節が侵されることもあります。全身の関節に進行していく病型の患者さんの場合、指や手首の関節が破壊され、指が短くなったり、関節が脱臼して強く変形することがあります。また背骨の変形などにより脊髄が圧迫され、手足が麻痺したり、呼吸がしにくくなる場合もあります。リウマチの経過にはいくつかのパターンがあると考えられており、病気の発症後短期間で多くの関節の破壊が進む患者さんもいれば、初期だけ症状があり1−2年で自然と寛解にいたる患者さんもいます。最近は生物学的製剤などの治療薬の進歩により、早期に診断して治療を開始できれば、病気の進行を最小限に食い止められるようになってきています。 (撮影)多田裕美子 取材協力:カフェバー『鈴楼』  珈琲ホットケーキ『天国』  レンタル着物『浅草衣匠 弥姫乎』

  • 石井匡さん

    【第9回】見守る、許す、助けてもらうことを恐れなくていい。分かち合える幸せをくれた妻に「ありがとう」

    石井匡さん プロフィール 看護師 病院勤務1978年生まれ 埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)出身 看護師歴16年。最初に勤務した病院では外科・内科混合病棟に勤務。その後総合病院に転職し現在は消化器外科病棟の看護師として勤務する。29歳の時、離婚問題が原因でうつ状態となる。職場の理解や友人のサポート、鍼灸治療により回復し健康を取り戻す。その後再婚し新しい家庭生活をスタート。病棟の看護師としてマネージメントや後輩の教育など、管理職としても活躍中。 🍀幸せだったはずの家庭が突然崩壊しはじめた衝撃 ———看護師さんのお仕事は夜勤もあり、かなり激務というイメージがありますが。  そうですね。もう慣れていますが、平均して1か月に5~6回の夜勤がありますし、定期的なシフトではないので体調管理のリズムは作りにくいかもしれません。たまに寝不足でイライラする事はありますが、この仕事を選んだ以上それは当然のことだと思っています。 ———まだ男性看護師さんは少数派ですか?  はい。男性看護師は増えてきていますが圧倒的に女性の職場ですね。看護学校を卒業した時、同級生の中で男性は二人でした。でも職場では性別に関係なく誠実に接していれば患者さんは受け容れてくれますし「男の看護師さんってやさしいよね」とこっそり言われる事もあるんですよ。 ———不規則な勤務体制や職場のストレスから深刻な抑うつ状態になられたということですか?  うつ状態になった直接の原因は、仕事ではなく家庭生活のほうでした。23歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ家庭を大切にしていたつもりですが、20代前半はどうしても仕事に集中しなければならない時期が続きました。29歳になってやっと仕事にも余裕が生まれ家庭も楽しむことができそうという感じになってきた時、妻による精神的な攻撃が始まったのです。 ———精神的な攻撃とはどんなことなのでしょう?  突然、妻が私の一挙一動や過去のことを徹底的に批判し始めたのです。私は仕事にもポジティブに取り組むほうですし、いろいろなことに正面から向きあい努力するタイプで、問題があっても話し合いで妥協点をみつけてきました。しかし、人からあれほどまでに攻撃的な言動をぶつけられた経験はありませんでしたし、ずっと一緒に暮らしてきた妻の態度だけに衝撃を受けました。 あらゆることに文句を言われ、否定され「離婚したい、出て行ってほしい」といった言葉の暴力が約3ヶ月続いたことで私は次第に自信を失い、何事にもビクビクするようになっていきました。 🍀友人からの指摘に「そうか、これがうつなのか」 専門知識はあっても殻に閉じこもってしまうと自分の状態に気づけなくなる ———どんな症状になったのでしょうか?  本当に、全然眠れないのです。「よく寝たな」と思って目が覚めて時計を見ても長くて2時間しか眠れていません。心配した友人が飲みに行こうと誘ってくれるのですが「こんな状況で飲み会にお金を使っていいのか?」と、それも不安になる感じで、1人で家でぼーっとしている事が増えました。食べ物が何も喉を通らなくなって、もともと60kgだった体重は52kgになっていました。約4ヶ月くらいはまともな食事を取れなかったですね。 ———そのような精神状態で看護師のお仕事は大丈夫だったのでしょうか?  幸い職場が病院で、メンタルヘルスに理解のある仕事場だったので、上司に事情を話し1週間休ませてもらいました。その後出勤してもいつも通りの仕事はできない状態でしたが「仕事には来なさい」と言っていただけたことが幸いでした。 ———医療者としてうつに関する知識は持っていたのですか?  仕事がら知識はあります。しかしこれが自分に起きた時には、いま抱えている問題のほうに意識が向いているので、自己修復はなかなか難しい。自分でもおかしいなと何となく気づいてはいるのですが人にはなかなか相談しづらく、次第に殻に閉じこもっていきました。 ある日誘われたお酒の席で友人の1人が「こりゃあ、うつだろう」と言ったんですね。その時初めて「そうか、これがうつなのか」と。 ———精神科などは受診はしたのですか?  完全な抑うつ状態だったと思いますが、うつに対する薬が自分の今の状態に効くのかどうか疑問があり、職場の医師に睡眠薬だけを処方してもらっていました。看護師をしていますが、私自身は薬はいろいろある選択肢の1つと考えています。薬で症状を抑え、その薬で出てしまった副作用をまた別の薬で抑えるというような、過剰に薬に頼るやり方には疑問を感じていました。ただ、食べられないし眠れない状態だけは何とかしなくてはと思い、男性看護師の先輩で、現在は鍼灸師をしている草間健二さんに、鍼でなんとかならないか相談しました。 🍀「言い出す勇気」から動き始めた回復への道 ———鍼灸師の草間さんはどんな治療をしたのでしょうか?  草間さんは照明を落とした静かな施術室で、私の話に相づちを打ちながらお腹や足に鍼をさしていきました。遠赤外線でお腹もぽかぽかとあたたまってきて、自分が久しぶりにリラックスしていることを感じました。10本目くらいだったと思いますが、お腹に打った鍼を草間さんが手で軽く回した瞬間に、ズッコーンと体の中に響く感じがしました。胃が刺激されたのかキューンと動き、ググーッとお腹がなったのです。4ヶ月ぶりに空腹を感じた自分に驚きました。施術のあと本当に強い空腹を感じたので、そのまま草間さんと鍼灸院の向かいにあるステーキハウスに行ってステーキを食べました。 鍼治療にくわえて先輩のカウンセリングの効果も大きかった。現在も疲れると鍼治療をしてもらう。 ———鍼ってそんなに即効性があるものなのでしょうか?  鍼だけの効果ではなかったと思いますが、この事が僕の転機になったことは確かです。まず状況を分かってくれていて信頼できる友人(草間さん)に助けてほしいと「言い出す勇気」を出せたこと。それから、問題が発覚してからずっと緊張状態でいたことを受け止めてもらえた感じがして、ふっと緊張がほどけた。「手当て」と言う言葉がありますが、鍼を打つ際に手で体に触れてもらったことの安心感も大きいと思いますね。 ———そこからどうやって本格的な回復に向かったのでしょうか?  まず日常に戻るために、食事を定期的に食べるように意識しました。食べられればお腹がいっぱいになり眠気もきます。睡眠薬を使って強制的に眠るのではなく、自然に近い流れの中で眠れるように変えていきました。眠る事、食べる事ができるようになり、少しずつ本来の自分を取り戻して行きました。 しかし、そんな時、妻の私に対する攻撃的な言葉や態度、離婚を望む理由が、私の問題ではなく、実は妻の不倫であることが分かったのです。はっきりとそれを知った時には、裏切られた思いからそのままふうっと電車に飛び込むことも考えました。そんな様子を見た友人が腕をつかんで「今死ぬ気でしょ」と言ってくれたのです。その言葉で我に返った瞬間「ああ、彼女との修復のためにできることはすべてやり切った。離婚しよう」と決心がついたのです。その後約3年がかりで裁判をし、離婚が成立しました。 🍀人を信頼し、頼る事で生まれた新しい関係性と働き方 車での移動時間は仕事・家庭の切り替えを行う大切な時間 ———うつ状態から脱出する為にはどんな事が必要なのでしょう。  僕の場合は家族関係で起きたことですが、他人から繰り返し執拗な攻撃を受けた場合、日頃ポジティブで真面目に物事に取り組む人ほどダメージが大きいような気がします。自分の殻に閉じこもってしまわないように、日頃から相談できる相手を持っておく事が大切だと思いますね。飲み友達、仕事のことを議論できる人、その人といるだけで笑いたくなる人など、いろいろなタイプの人がいるといいです。それから、いろいろなことをリセットしなければならない場面でも、何か1つは前の生活と変わらないことを維持するのも大切だと思います。 僕の場合は仕事や住むところ、車での通勤を維持し続けることでした。 行きつけの飲み屋もある住み慣れた自宅近くの商店街。 ———それまではあまり人に頼らず頑張るタイプだったのですね。  はい、それまでは仕事の場面でもどこかで「自分がやらなきゃ」と思っていました。しかし、思い通りに働けなくなる状態を経験してみて、自分がそこまでがつがつしなくても仕事が回ることを発見しましたし、リーダーとして後輩を育てる場合も、見守る・許す・助けてもらう事を恐れなくていいと思うようになりました。自分自身の考えがガラッと変わりましたね。出来ない後輩がいても、そのうち出来るようになるから安全だけは気をつけて見守るということができるようになった。 ———その後今の奥様と出会ってご結婚なさったのですね。  はい。妻は同業者で看護師ですが、とてもゆったりとした穏やかな人柄です。優しく私に歩調をあわせてくれる。仕事の忙しさも理解してくれるので自分の納得できる仕事を彼女に気を使わずにやらせてもらうことができています。 ———奥様初め、ずいぶんいろいろな方に助けていただいたのですね  そうですね。僕の状態に理解を示してくれた上司、職場の同僚たち、自殺しそうな時に腕をつかんで止めてくれた友人、鍼灸師の草間さん。みんなに感謝しています。でも誰か一人をと言われたら、再婚した今の妻に感謝したいです。 妻の前では職場で感じたことなどを安心して話す事ができます。彼女は私の話をまず受け止めてくれます。そして感じた事を全部話したあと、妻の考えを聞くと、私と驚くほど価値観が似ていることが少なくありません。だから彼女に一回話してみることで、自分を一度リセットして、そのことをもう一度客観的に積極的に考える事ができるのです。家庭でも妻と仕事の話を分かち合えることが本当に幸せだと思っています。 インフォメーション:気を整える事でメンタルを改善する 石井さんは、もともとは元気で発散系のタイプの人ですが、当時はその発散するエネルギーがなくなるほど体が衰弱しきっており、これ以上悪くなると入院が必要という状態でした。そこで、まず食べられる状態にすることで、睡眠がとれるようになることを目指し治療しました。あの時は治療した私自身が驚くほどの効果が出ました。腹と足の指に鍼を刺して胃を刺激することが改善のきっかけとなったと思います。鍼をつぼに打つ事で気のバランスを整える効果もありますが、安心できる場所で施術しながら同時にカウンセリング的な対話をしたことで、数ヶ月続いた緊張から解き放たれた部分も大きいと思います。鍼灸は体全体のバランスを整えるもので、体の気の下がっているところを持ち上げていくという感覚で施術を行います。 草間健二さん 鍼灸 健美・大山 院長鍼灸師・看護師 (撮影)多田裕美子

  • 浅井美衣さん

    【第4回】病気になる前よりも今が幸せ。「いるだけでいい」ことを教えてくれた“ミー君”に「ありがとう」

    浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。  発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか?  銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう?  血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。  検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。  でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。  すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか?  具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫力が落ちるので無菌室に1か月半入院するのですが、1年治療を続けても結果が現れず、私も落ち込み始めました。医師からもギリギリの選択として、移植の提案が出るところまで悪化していました。お先真っ暗で光も何もない、完全な鬱状態。精神科の薬も飲んでいましたね。 ———骨髄移植という選択は無かったのですか?  一般にあまり知られていないと思いますが、骨髄移植は生存率が5年と言われています。治療中に凄まじい痛みや吐き気といった辛さがありますし、移植が無事済んだ場合でも後遺症が出る事が少なくありません。移植後の拒否反応の激しさも見聞きしたので、移植は選択しないつもりでした。 カフェでゆったり過ごすのも大切な時間 ———ご家族にはどのように伝えましたか?  実は、家族には心配をかけたくないのであまり詳しい話をしていません。通院も一人でしています。医師にも「私の事なのですべて私に話してください」と言ってあります。 ———ご自身の状態はどう捉えていましたか?  当時は、私が生きているだけで家族にも社会にも迷惑がかかってしまうと感じていました。稼ぐこともできない。独身ゆえに面倒をみるべき守るべき家族もいない。しかも、輸血で人の血をいただきながらしか生きることができない…。役割を失いお荷物になってしまったと感じ、「朝目覚めたら、天国でありますように」と願いながら眠りにつくような毎日でした。 🍀ただ「ここにいる」ことを必要としてくれる誰かがいる 地元商店街に夕食の買い物に行きます ———どのように再起を果たしたのでしょうか?  病院の中に難病の方がいて、NPOで働くという選択肢があること、「障害者雇用」というものがあることを教えてくれました。障害者雇用を推進している現在の会社の社長と面接する機会を得た際、私が自分の病気について話し終わると、社長が「ぜひうちで働いていただけませんか?」とおっしゃったのです。  その時はビックリし過ぎて、まともに返事ができませんでした。病気になってから誰かに「ぜひ」と言われたのは、初めてのことです。明日の命さえわからない自分を雇ってくださるとは…。不思議なことにその言葉をきっかけに、私の症状はゆっくりとですが安定してきました。 ———今はとてもお元気そうに見えます。奇跡の回復を果たしたのですね?  みんなによくそう言われますが、実は検査数値を見ると状態は決して良くないんです。今も免疫抑制剤を一日10錠程度服用しています。疲れやすいし、体力も落ちました。息切れがひどいですね。  それに男性ホルモンの入った薬の副作用で声がハスキーになったんです。すでに薬はやめていますが結局声は戻らなかった。声帯が変化しちゃったんですね。だから自分の声には今も違和感があるかな。このように回復したわけではなく病気とともに生きています。  でも、私病気になる前より自分は幸せって思えるんですよ。 ———病気を抱えていても今のほうがいいのですか?本当に?  そうです。私の周囲の環境も変わりました。以前仕事をしていた時には成果主義、減点主義の世界で生きてきたんですね。今周りにいる人たちは価値観が違う。そこが居心地がよいと思っています。  そのことを教えてくれたのはペットの猫かもしれない。それまでの私は誰かの役に立たないと自分の価値を確認できなかった。そんな私が一時期は寝たきりになっちゃった。そして人の血液を週に1回の頻度で輸血していただかないと生きていられないということを受け入れなくてはならなかった。そんな時私は病気になる前から飼っていたミー君(猫)を見て思ったんです。猫って、何にも役に立たないでしょ。でも本当にそこにいて、「ニャーご飯ちょうだい」っていうだけで私を幸せな気持ちにしてくれるなと。猫に触れていたら「あっ私、いるだけでいいんだ」って思った。今まで気づかなかったことを病気が教えてくれた。そういうことがなければ今ここにいないかもしれないと思うんです。 商店街の魚屋さん。猫のミー君の御馳走あるかな? 🍀病を得て見えてきた新しい価値観 ———食べることがお好きなんですね。  はい。おいしいものを食べた時の喜びがとても大きいですね。私が「おいしい!」と感じる基準は、それを料理する人が心を込めて作っていて、食べる人に「喜んでもらいたい」って思っているかどうかですね。 ———旅行や山登りも趣味とお聞きしましたが。  病気になる前の私は、自然になんて全然興味がなく仕事に熱中していました。今は自然の中に行くことがとても大切な時間に思えるようになりました。主治医の先生は私のことをちゃんとわかってくれているみたいで、内緒で旅行の計画を立てていたりすると診察の時に「いつ山に行くの?」なんて尋ねられたりして驚きます。先生は私がどんなことをしても絶対に全否定はしないですね。「治癒しますよ」とも言わないし、「骨髄移植しなさい」とも言わない。ただそっと寄り添っていつも支えてくれているんです。私ってとても幸せ者です。 お気に入りの地元のカレー屋さんベジフルスパイス。真心込めて作られたおいしい料理。盛りつけも美しい 上高地の幻想的な草原を訪れ、美しさに息をのみました 戸隠神社奥社で。自然はでっか〜い ———今の状態について誰かに「ありがとう」を言うとしたら?  うーん。1人は選べないです。私を雇ってくれた会社の社長、献血をしてくれた会ったこともない人々、主治医の先生、母や弟やお嫁さんや姪っ子、家族のみんな…周りの人本当にみんな!「もう感謝しかないよ」なんて言ったら昔の友達はひくかもしれないなあ。でもそれでもいいと思っているんです。だからみんなへの感謝の代表として、ふふふっ 字は読めないけど私に「生きてそこにいるだけでいいんだよ」って教えてくれた猫のミー君に手紙書きますね。これは出さない手紙だけど。みんな、そしてミー君 いつもありがとう! インフォメーション:再生不良性貧血 再生不良性貧血は血液中の白血球、赤血球、血小板のすべてが減少する疾患です。これらの血球は骨髄で作られますが、この病気にかかった人の骨髄を調べると、骨髄組織が多くの場合脂肪に置き換わっており、血球が作られていません。そのために貧血症状、感染による発熱、出血などが起こります。この病気は難病に指定されており、患者さんの70%は原因不明といわれています。2006年の調査では、全国の患者数は約11,159人で、新たに発生する患者さんの数は100万人あたり6人前後とされています。赤血球、好中球、血小板の減少によって、めまい、頭痛、身体がだるくなる、疲れやすい、狭心症のような胸痛、息切れ、動悸などさまざまな症状が起こります。 (撮影)多田裕美子

  • 出口見える不眠治療、「睡眠12箇条」参考に

    出口見える不眠治療、「睡眠12箇条」参考に

    つくばセントラル病院脳神経内科部長 高橋良一先生 「眠ろうとしてもなかなか寝付けない」という不眠の体験のある方がほとんどではないでしょうか。心配事や試験・発表会の前日、熱帯夜など眠れない原因はさまざまですが、通常は長期間、その状態が持続せずに睡眠がとれるようになります。  しかし、不眠が1か月以上にわたって続く場合があります。不眠が続くと、日常生活での不調が出現するようになります。日中のだるさや意欲・集中力低下、抑うつ、めまい、食欲不振などさまざまな症状があり、「長期間不眠が続き、日中に精神や身体の不調を自覚して生活の質が低下する」とき、不眠症と診断されます。  不眠症は次の4つのタイプがあります。なかなか寝付けない「入眠障害」、眠りが浅く何度も目が覚める「中途覚醒」、期待した時間より早く目が覚める「早朝覚醒」、睡眠の満足感が得られない「熟眠障害」です。脳神経内科外来で診療することが多い高齢の方は、とりわけ中途覚醒で悩むケースが多いです。  日本人を対象にした調査で、5人に1人が「何らかの不眠がある」と回答しており、60歳以上の方では約3人に1人で睡眠問題があるといわれています。頻度の高い症状で、診察室で不眠の悩みをお聞きすることは非常に多いです。 「出口の見える不眠治療」が重要視  不眠症については、睡眠時無呼吸症候群や、むずむず脚症候群とも呼ばれる主に下肢に不快な症状を感じるレストレスレッグス症候群、うつ病のような特別な原因がないか考えることからはじめています。  薬物治療に入る前に、「夕方以降カフェインやアルコール摂取を避ける」、「寝室は寝る目的のみに使用する」など生活習慣の見直しも重要です。睡眠について知識を得たいときには、厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」(※)も参考になります。同指針は、「睡眠12箇条」を掲げています。 【健康づくりのための睡眠指針2014 睡眠12箇条】 1.良い睡眠で、からだもこころも健康に。2.適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。3.良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。4.睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。5.年齢や季節に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。6.良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。7.若年世代は夜更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。8.勤労世代の疲労回復・能率アップに、毎日十分な睡眠を。9.熟年世代は朝晩メリハリ、ひるまに適度な運動で良い睡眠。10.眠くなってから寝床に入り、起きる時刻は遅らせない。11.いつもと違う睡眠には、要注意。12.眠れない、その苦しみをかかえずに、専門家に相談を。  不眠症の薬物治療については、「薬を使うとやめられなくなる」「目を覚ましづらくなる」など抵抗を感じる方も多いと思います。新しく開発された薬剤については、依存性や退薬症状(中止するときにおこる副作用)が少ないものがあります。オレキシン受容体拮抗薬は、新しい効き目の睡眠薬で、覚醒に関わるオレキシンの効果を減らすことで自然な睡眠の導入を目指す薬剤です。効果が比較的長時間持続するため、「中途覚醒」への有効性が期待でき、薬剤を中止するときに起こる「反跳性不眠(突然服用を中止すると服用前より強い不眠が現れるようになること)」のリスクも低いといわれています。 こうした新規薬剤の登場により、治療の導入時から、不眠が改善したら薬を減量・中止することを意識した「出口の見える不眠治療」が重要視されています。不眠症について、睡眠薬の長期間の投与や、多剤併用をなるべく避けて治療を目指したいと考えています。 ※厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000047221.pdf 【お知らせ】不眠症治療は脳神経内科では扱っておりませんので、セントラル総合クリニック 一般内科にご相談ください。

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 皮膚の状態は気候や疲れ方などその日のコンディションにより変化します

    【第15回】痒みで辛い時、落ち込んだ時、どんな時も変わらず笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。  はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。  はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか?  1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか?  季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか?  まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか?  最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。  他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか?  大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。  そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか?  アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか?  ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか?  ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか?  はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。  はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか?  きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか?  セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ  ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか?  内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか?  僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。  休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか?  これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。  ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。  やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。  アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子

  • 浅草雷門から近い『鈴楼』は真っ赤な内装が印象的なバー。愛犬トモと一緒に立ち寄る馴染みのお店

    【第12回】大好きな町で愛犬と共に暮らす。幼なじみの友達と浅草の人情にありがとう

    戸山純子さん プロフィール 1952年 東京都台東区出身 ウェブデザイナー30代まで小劇場の女優として活動。32歳の時、銀座でコーヒー専門店を開店し8年間オーナーとして運営を行う。その後、友人の依頼でカウンターバーの開店を手伝い13年間運営に従事。52歳のころリウマチと診断されるが治療により現在はほぼ寛解状態にある。フリーランスのウェブデザイナーとして企業のサイトの画像処理やシステムづくりを担当する。 🍀介護、仕事で忙しい毎日を突然襲った関節の腫れと痛み 着物を日常着として楽しみたい。季節のタケノコをあしらった帯は江戸っ子らしい粋な着こなし ———戸山さんはお元気そうですが関節リウマチ(以下リウマチ)という持病をお持ちなのですね。  はい。現在は痛みもなく安定した状態ですが、約10年前の52歳の時にリウマチを発症しました。それ以前から関節痛のため整形外科を受診していたのですが…ある朝目覚めたら、手首と足首が腫れて、膝もぷっくりとボールのようで…大変な痛みでした。かかっていた整形外科でリウマチと診断され、リウマトレックスという抗リウマチ薬の飲み薬を処方され約1年間治療しました。 ———リウマチは痛みの他に全身倦怠感がひどいそうですね  はい。関節の痛みの他に熱が出る事もありました。リウマチの薬に加え炎症を抑えるためのステロイドの錠剤と点滴を1週間に一度打っていました。ステロイドを使うと顔がむくみ気分が悪くなるときもありますが、関節の痛みはすぐ引くんです。ただ、その効果は長続きしないので困りました。 ———大変でしたね。当時体調をくずす原因となるようなことはありましたか?  女優時代はかなり不規則な生活でしたね。32歳の時、銀行から3000万円を借金して銀座にコーヒー専門店を開店し8年続けました。業績は好調で借金も返済しましたが、事情がありお店は閉店しました。ほどなく友人が数寄屋橋でカウンターバーを開くというので、その企画から参加し運営を13年間手伝ってきました。仕事は多忙でしたね。その当時私は上野で一人暮らしをしていましたが父が亡くなって実家のある竹の塚(浅草から移り住んだ)に戻り、母と二人の暮らしが始まりました。母は抑うつ状態で、だんだん介護が必要な状態になっていきました。母は依頼心が強く1人では何も決断しないけれど、結構頑固で言い出したら聞かないタイプですから介護は大変でした。 ———リウマチのような免疫系の病気になる方は、それ以前にご本人が意識しなくても何らかのストレスがかかっている場合も少なくないと聞きます。  そうですか。当時、家族関係も大変でしたし、更年期で急に身体が熱くなり汗が噴き出すような症状も体験していました。特に原因は思い当たりませんが 仕事と介護が重なり気付かないうちに身体に負担をかけていたかもしれませんね。手足の関節にいくつもサポーターを付けて仕事に行っていました。 ———その後の経過はいかがでしたか?  私の場合は最初に通院した整形外科でもリウマチと診断され治療していましたが、約1年通っても症状が治まらなかったので、先生が荒川区の東京女子医大東医療センターのリウマチ科を紹介して下さいました。発症から1年後に生物学的製剤を使った本格的なリウマチの治療を始めました。私のように整形外科にかかっていても症状が長引く場合は、リウマチ専門医を早めに受診し、治療法について相談したほうがいいと思います。 🍀登場した新しいリウマチの治療薬に救われて ———そこではどんな治療をしたのでしょうか?  私が今使っているリウマチの薬、生物学的製剤は、当時まだ出たばかりでした。「生物学的製剤というのは遺伝子組み換え技術によってできたもので、リウマチの原因となる炎症蛋白を直接的に抑え込むお薬のことです」と先生に説明されました。1ヶ月4万円以上の治療費がかかると知り大変驚きましたが、治りたい一心で使う決心をしました。最初はレミケードという生物学的製剤を試しました。半日かけて病院で点滴を受けるのですが、これが私の身体に合わなくて、発熱したり口の中に湿疹がでたりして大変でした。熱が上がると点滴できずに「熱が下がるまで待ちましょう」と言われ、朝10時に病院に行って終わるのが夜8時になんてこともありました。体質に合わなかったけれどリウマチ自体はこのお薬で良くなったんです。2ヶ月に1度、6、7回は点滴を続けたと思います。 ———今もそのお薬を続けているのですか?  いいえ。 「 つらくて我慢できない 」 と先生に訴えたところ別の生物学的製剤のヒュミラという薬に変更しますと言われました。こちらは点滴ではなく注射をするタイプです。最初は病院に注射のために通っていたのですが、自分でできるようになったので今では自己注射をしています。 よく立ち寄るホットケーキで有名な喫茶『天国』のオーナーと ———自分で注射するなんて怖くないですか?  お腹に注射するので、もちろん痛いけど、病院で看護師さんが打つのとは違い自分のペースでできるので痛みは少ないですよ。自分なら液をゆっくり入れられますから。2週間に一度木曜日にお風呂上がりに打つと決めているので、入浴前に冷蔵庫からお薬を出し常温にしてから打つとあまり痛くないんです。私はこの自己注射のおかげで楽しく生活できています。ただリウマチの治療はどの薬が効くかも効果もかなり個人差があるようです。 ———その自己注射だけで体調を管理できているのですか?  自己注射に加えて、最初の整形外科で処方されたのと同じ飲み薬のリウマトレックスとステロイド剤のプレドニンも一緒に使っています。一時期、肝機能がだいぶ悪くなったことがあり6錠飲んでいたリウマトレックスを4錠に減らしたら、約3ヶ月くらいで肝臓の値は平常値に戻りました。毎月のお薬代が高いのが悩みですが、それでも早期治療により関節の変形が防げるそうなので、あの時迷わず決断してよかったと思います。おかげで関節の変形はありません。 🍀リウマチの痛みを忘れさせてくれた愛犬トモは人生のパートナー ———当時、リウマチの症状を抱えながらお母様の介護もなさっていたのですね。  はい。母にはヘルパーさんが来てくれていましたが、私も関節が痛くて動けなくなり寝込むこともありました。私は不満や愚痴を言い続ける母と2人でいることに疲れ、パグの赤ちゃん「トモ」を飼うことにしました。当時の私には生活のスパイスみたいなものが必要だったのですね。その母が9年前に亡くなり独り身になった時、トモと一緒に竹の塚から生まれ故郷の浅草に再び戻ってこようと決めたのです。トモは私の大切なパートナーです。当時は体調が悪くトモを散歩に連れ出せない私を心配して姪の娘たちも自宅によく来てくれました。今は中1と高1になりましたが孫のように可愛いです。 チンドン屋さんと遭遇。この町ならではの突然出現する異空間に紛れ込む楽しさ ———今マンションでの一人暮らし、毎日どんな風に過ごしていますか?  朝7時頃に起きて朝ご飯を食べ、まず犬の散歩をします。今は主にウェブデザインの仕事をしています。パソコンは得意で銀座のお店をやっている時に独学で覚えたんですよ。だいたい午前中から4時ころまでパソコンで作業します。フリーランスですから時間の使い方は自由ですが規則正しく生活しています。ほかに依頼があるとレンタル衣装屋さんで着付けのお仕事もしています。一番頑張っているのが週2回ストレッチ体操に通うことです。お料理は得意ですね。なるべく野菜を多めに、タンパク質もとるよう栄養には気を使っています。でも夕方街を散歩していて誰かに誘われれば飲みにいったりすることもありますね。 観光客の方の着付けも楽しい仕事です 観光スポットの中心にある行きつけの銭湯 蛇骨湯 ———今気をつけているのはどんなことでしょうか?  そうですね。冷えると関節が痛みますので身体を冷やさない事ですね。リウマチの症状というよりも、年齢的な問題で身体の衰えが心配です。身体が痛いのかもしれないのですがリウマチの痛みとして強く感じないのは、もしかしたら慣れてしまって元の状態を覚えていないせいかもしれません。トモの朝晩の散歩もトモのためだけでなく自分のために身体を動かしたいという気持ちで続けています。 ———他に健康法で実践している事はありますか?  お風呂に入る事ですね。一番症状がひどかった時は身体が痛くて自宅の湯船に入る事すら大変だったのですが、そんな時でもひたすらお湯につかって身体を温めるとずいぶん楽になりました。今は時々銭湯 『蛇骨湯』にも行きます。 🍀病気になって気づいた弱さや生きづらさを抱えた人の気持ち ———病気をしてから変わった事はありますか?  はい。なんだか人に寛容になりましたね。母も看取りましたしね。私自身は元気で活動的なタイプでしたので、昔は具合が悪いという人がいても、実は内心「大したことないのでは?さぼってるのでは?」という見方をしがちだったのです。このため「心が衰える」ということが実感としてよくわからなかったんです。でも自分がリウマチになって、毎日あちこちが痛く、なかなか治療法も定まらず、いろいろな事が自分の思い通りにならないというのを始めて体験して、弱さを持った人に優しくしようと思うようになりました。 ———感じ方が変化したのですね  そうですね。とはいっても、私は以前も今も1人でいることが苦痛ではないんです。べったり甘えあうような距離が近すぎる関係って苦手です。シンプルで普通の暮らしを淡々と送るのが自分らしいと思っています。今は規則正しい生活で薬もきちんと注射していますし体調に不安はないのですが、やはり地元に浅草の友達や幼なじみのみんながいることは心強く感じますね。 レンタル着物屋さんの社長とカフェバー『鈴楼』のスタッフ。浅草の若いお友達です ———地元の方っていいですね。  ええ、私より若い世代の浅草の友達といっしょに過ごすのも刺激があり楽しいです。それから同級生も多いです。雷門通りの鞄屋さんとか、橋場で大工やっている子、お豆腐屋さんとかね。商売していた人もみんな子どもが独り立ちしてもうのんびりしています。みんなどこか具合悪いとこがあるから病気の話もしますよ。血圧自慢になったりね。銀座のバー時代のお客さんも浅草にくれば声をかけてくれます。私にいろんな事を相談してくる人も多いんですよ。昔の友達に会えば一緒に過ごしてきた昔の時間に戻り、温かい気持ちになれます。「アタシ誰の世話にもならないわって!」なんてこっそり言うんですけど、やっぱり浅草は私の故郷。友達が近くにいることに「ありがとう」と言いたいです。 インフォメーション:関節リウマチ 関節リウマチは自己免疫疾患の一つで、全国に70万〜80万人の患者がいると考えられています。病気の男女比は1対4と女性に多く、高齢者の病気のような印象ですが実は働き盛りの30~50歳代がかかりやすい病気です。免疫の異常により関節の滑膜という組織に炎症が生じます。関節痛に加え、全身倦怠感や疲れやすさが特徴的です。手の指や足の指などの小さい関節の痛みで発症に気付く場合が多いですが膝などの大きな関節が侵されることもあります。全身の関節に進行していく病型の患者さんの場合、指や手首の関節が破壊され、指が短くなったり、関節が脱臼して強く変形することがあります。また背骨の変形などにより脊髄が圧迫され、手足が麻痺したり、呼吸がしにくくなる場合もあります。リウマチの経過にはいくつかのパターンがあると考えられており、病気の発症後短期間で多くの関節の破壊が進む患者さんもいれば、初期だけ症状があり1−2年で自然と寛解にいたる患者さんもいます。最近は生物学的製剤などの治療薬の進歩により、早期に診断して治療を開始できれば、病気の進行を最小限に食い止められるようになってきています。 (撮影)多田裕美子 取材協力:カフェバー『鈴楼』  珈琲ホットケーキ『天国』  レンタル着物『浅草衣匠 弥姫乎』

  • 石井匡さん

    【第9回】見守る、許す、助けてもらうことを恐れなくていい。分かち合える幸せをくれた妻に「ありがとう」

    石井匡さん プロフィール 看護師 病院勤務1978年生まれ 埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)出身 看護師歴16年。最初に勤務した病院では外科・内科混合病棟に勤務。その後総合病院に転職し現在は消化器外科病棟の看護師として勤務する。29歳の時、離婚問題が原因でうつ状態となる。職場の理解や友人のサポート、鍼灸治療により回復し健康を取り戻す。その後再婚し新しい家庭生活をスタート。病棟の看護師としてマネージメントや後輩の教育など、管理職としても活躍中。 🍀幸せだったはずの家庭が突然崩壊しはじめた衝撃 ———看護師さんのお仕事は夜勤もあり、かなり激務というイメージがありますが。  そうですね。もう慣れていますが、平均して1か月に5~6回の夜勤がありますし、定期的なシフトではないので体調管理のリズムは作りにくいかもしれません。たまに寝不足でイライラする事はありますが、この仕事を選んだ以上それは当然のことだと思っています。 ———まだ男性看護師さんは少数派ですか?  はい。男性看護師は増えてきていますが圧倒的に女性の職場ですね。看護学校を卒業した時、同級生の中で男性は二人でした。でも職場では性別に関係なく誠実に接していれば患者さんは受け容れてくれますし「男の看護師さんってやさしいよね」とこっそり言われる事もあるんですよ。 ———不規則な勤務体制や職場のストレスから深刻な抑うつ状態になられたということですか?  うつ状態になった直接の原因は、仕事ではなく家庭生活のほうでした。23歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ家庭を大切にしていたつもりですが、20代前半はどうしても仕事に集中しなければならない時期が続きました。29歳になってやっと仕事にも余裕が生まれ家庭も楽しむことができそうという感じになってきた時、妻による精神的な攻撃が始まったのです。 ———精神的な攻撃とはどんなことなのでしょう?  突然、妻が私の一挙一動や過去のことを徹底的に批判し始めたのです。私は仕事にもポジティブに取り組むほうですし、いろいろなことに正面から向きあい努力するタイプで、問題があっても話し合いで妥協点をみつけてきました。しかし、人からあれほどまでに攻撃的な言動をぶつけられた経験はありませんでしたし、ずっと一緒に暮らしてきた妻の態度だけに衝撃を受けました。 あらゆることに文句を言われ、否定され「離婚したい、出て行ってほしい」といった言葉の暴力が約3ヶ月続いたことで私は次第に自信を失い、何事にもビクビクするようになっていきました。 🍀友人からの指摘に「そうか、これがうつなのか」 専門知識はあっても殻に閉じこもってしまうと自分の状態に気づけなくなる ———どんな症状になったのでしょうか?  本当に、全然眠れないのです。「よく寝たな」と思って目が覚めて時計を見ても長くて2時間しか眠れていません。心配した友人が飲みに行こうと誘ってくれるのですが「こんな状況で飲み会にお金を使っていいのか?」と、それも不安になる感じで、1人で家でぼーっとしている事が増えました。食べ物が何も喉を通らなくなって、もともと60kgだった体重は52kgになっていました。約4ヶ月くらいはまともな食事を取れなかったですね。 ———そのような精神状態で看護師のお仕事は大丈夫だったのでしょうか?  幸い職場が病院で、メンタルヘルスに理解のある仕事場だったので、上司に事情を話し1週間休ませてもらいました。その後出勤してもいつも通りの仕事はできない状態でしたが「仕事には来なさい」と言っていただけたことが幸いでした。 ———医療者としてうつに関する知識は持っていたのですか?  仕事がら知識はあります。しかしこれが自分に起きた時には、いま抱えている問題のほうに意識が向いているので、自己修復はなかなか難しい。自分でもおかしいなと何となく気づいてはいるのですが人にはなかなか相談しづらく、次第に殻に閉じこもっていきました。 ある日誘われたお酒の席で友人の1人が「こりゃあ、うつだろう」と言ったんですね。その時初めて「そうか、これがうつなのか」と。 ———精神科などは受診はしたのですか?  完全な抑うつ状態だったと思いますが、うつに対する薬が自分の今の状態に効くのかどうか疑問があり、職場の医師に睡眠薬だけを処方してもらっていました。看護師をしていますが、私自身は薬はいろいろある選択肢の1つと考えています。薬で症状を抑え、その薬で出てしまった副作用をまた別の薬で抑えるというような、過剰に薬に頼るやり方には疑問を感じていました。ただ、食べられないし眠れない状態だけは何とかしなくてはと思い、男性看護師の先輩で、現在は鍼灸師をしている草間健二さんに、鍼でなんとかならないか相談しました。 🍀「言い出す勇気」から動き始めた回復への道 ———鍼灸師の草間さんはどんな治療をしたのでしょうか?  草間さんは照明を落とした静かな施術室で、私の話に相づちを打ちながらお腹や足に鍼をさしていきました。遠赤外線でお腹もぽかぽかとあたたまってきて、自分が久しぶりにリラックスしていることを感じました。10本目くらいだったと思いますが、お腹に打った鍼を草間さんが手で軽く回した瞬間に、ズッコーンと体の中に響く感じがしました。胃が刺激されたのかキューンと動き、ググーッとお腹がなったのです。4ヶ月ぶりに空腹を感じた自分に驚きました。施術のあと本当に強い空腹を感じたので、そのまま草間さんと鍼灸院の向かいにあるステーキハウスに行ってステーキを食べました。 鍼治療にくわえて先輩のカウンセリングの効果も大きかった。現在も疲れると鍼治療をしてもらう。 ———鍼ってそんなに即効性があるものなのでしょうか?  鍼だけの効果ではなかったと思いますが、この事が僕の転機になったことは確かです。まず状況を分かってくれていて信頼できる友人(草間さん)に助けてほしいと「言い出す勇気」を出せたこと。それから、問題が発覚してからずっと緊張状態でいたことを受け止めてもらえた感じがして、ふっと緊張がほどけた。「手当て」と言う言葉がありますが、鍼を打つ際に手で体に触れてもらったことの安心感も大きいと思いますね。 ———そこからどうやって本格的な回復に向かったのでしょうか?  まず日常に戻るために、食事を定期的に食べるように意識しました。食べられればお腹がいっぱいになり眠気もきます。睡眠薬を使って強制的に眠るのではなく、自然に近い流れの中で眠れるように変えていきました。眠る事、食べる事ができるようになり、少しずつ本来の自分を取り戻して行きました。 しかし、そんな時、妻の私に対する攻撃的な言葉や態度、離婚を望む理由が、私の問題ではなく、実は妻の不倫であることが分かったのです。はっきりとそれを知った時には、裏切られた思いからそのままふうっと電車に飛び込むことも考えました。そんな様子を見た友人が腕をつかんで「今死ぬ気でしょ」と言ってくれたのです。その言葉で我に返った瞬間「ああ、彼女との修復のためにできることはすべてやり切った。離婚しよう」と決心がついたのです。その後約3年がかりで裁判をし、離婚が成立しました。 🍀人を信頼し、頼る事で生まれた新しい関係性と働き方 車での移動時間は仕事・家庭の切り替えを行う大切な時間 ———うつ状態から脱出する為にはどんな事が必要なのでしょう。  僕の場合は家族関係で起きたことですが、他人から繰り返し執拗な攻撃を受けた場合、日頃ポジティブで真面目に物事に取り組む人ほどダメージが大きいような気がします。自分の殻に閉じこもってしまわないように、日頃から相談できる相手を持っておく事が大切だと思いますね。飲み友達、仕事のことを議論できる人、その人といるだけで笑いたくなる人など、いろいろなタイプの人がいるといいです。それから、いろいろなことをリセットしなければならない場面でも、何か1つは前の生活と変わらないことを維持するのも大切だと思います。 僕の場合は仕事や住むところ、車での通勤を維持し続けることでした。 行きつけの飲み屋もある住み慣れた自宅近くの商店街。 ———それまではあまり人に頼らず頑張るタイプだったのですね。  はい、それまでは仕事の場面でもどこかで「自分がやらなきゃ」と思っていました。しかし、思い通りに働けなくなる状態を経験してみて、自分がそこまでがつがつしなくても仕事が回ることを発見しましたし、リーダーとして後輩を育てる場合も、見守る・許す・助けてもらう事を恐れなくていいと思うようになりました。自分自身の考えがガラッと変わりましたね。出来ない後輩がいても、そのうち出来るようになるから安全だけは気をつけて見守るということができるようになった。 ———その後今の奥様と出会ってご結婚なさったのですね。  はい。妻は同業者で看護師ですが、とてもゆったりとした穏やかな人柄です。優しく私に歩調をあわせてくれる。仕事の忙しさも理解してくれるので自分の納得できる仕事を彼女に気を使わずにやらせてもらうことができています。 ———奥様初め、ずいぶんいろいろな方に助けていただいたのですね  そうですね。僕の状態に理解を示してくれた上司、職場の同僚たち、自殺しそうな時に腕をつかんで止めてくれた友人、鍼灸師の草間さん。みんなに感謝しています。でも誰か一人をと言われたら、再婚した今の妻に感謝したいです。 妻の前では職場で感じたことなどを安心して話す事ができます。彼女は私の話をまず受け止めてくれます。そして感じた事を全部話したあと、妻の考えを聞くと、私と驚くほど価値観が似ていることが少なくありません。だから彼女に一回話してみることで、自分を一度リセットして、そのことをもう一度客観的に積極的に考える事ができるのです。家庭でも妻と仕事の話を分かち合えることが本当に幸せだと思っています。 インフォメーション:気を整える事でメンタルを改善する 石井さんは、もともとは元気で発散系のタイプの人ですが、当時はその発散するエネルギーがなくなるほど体が衰弱しきっており、これ以上悪くなると入院が必要という状態でした。そこで、まず食べられる状態にすることで、睡眠がとれるようになることを目指し治療しました。あの時は治療した私自身が驚くほどの効果が出ました。腹と足の指に鍼を刺して胃を刺激することが改善のきっかけとなったと思います。鍼をつぼに打つ事で気のバランスを整える効果もありますが、安心できる場所で施術しながら同時にカウンセリング的な対話をしたことで、数ヶ月続いた緊張から解き放たれた部分も大きいと思います。鍼灸は体全体のバランスを整えるもので、体の気の下がっているところを持ち上げていくという感覚で施術を行います。 草間健二さん 鍼灸 健美・大山 院長鍼灸師・看護師 (撮影)多田裕美子

  • 浅井美衣さん

    【第4回】病気になる前よりも今が幸せ。「いるだけでいい」ことを教えてくれた“ミー君”に「ありがとう」

    浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。  発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか?  銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう?  血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。  検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。  でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。  すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか?  具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫力が落ちるので無菌室に1か月半入院するのですが、1年治療を続けても結果が現れず、私も落ち込み始めました。医師からもギリギリの選択として、移植の提案が出るところまで悪化していました。お先真っ暗で光も何もない、完全な鬱状態。精神科の薬も飲んでいましたね。 ———骨髄移植という選択は無かったのですか?  一般にあまり知られていないと思いますが、骨髄移植は生存率が5年と言われています。治療中に凄まじい痛みや吐き気といった辛さがありますし、移植が無事済んだ場合でも後遺症が出る事が少なくありません。移植後の拒否反応の激しさも見聞きしたので、移植は選択しないつもりでした。 カフェでゆったり過ごすのも大切な時間 ———ご家族にはどのように伝えましたか?  実は、家族には心配をかけたくないのであまり詳しい話をしていません。通院も一人でしています。医師にも「私の事なのですべて私に話してください」と言ってあります。 ———ご自身の状態はどう捉えていましたか?  当時は、私が生きているだけで家族にも社会にも迷惑がかかってしまうと感じていました。稼ぐこともできない。独身ゆえに面倒をみるべき守るべき家族もいない。しかも、輸血で人の血をいただきながらしか生きることができない…。役割を失いお荷物になってしまったと感じ、「朝目覚めたら、天国でありますように」と願いながら眠りにつくような毎日でした。 🍀ただ「ここにいる」ことを必要としてくれる誰かがいる 地元商店街に夕食の買い物に行きます ———どのように再起を果たしたのでしょうか?  病院の中に難病の方がいて、NPOで働くという選択肢があること、「障害者雇用」というものがあることを教えてくれました。障害者雇用を推進している現在の会社の社長と面接する機会を得た際、私が自分の病気について話し終わると、社長が「ぜひうちで働いていただけませんか?」とおっしゃったのです。  その時はビックリし過ぎて、まともに返事ができませんでした。病気になってから誰かに「ぜひ」と言われたのは、初めてのことです。明日の命さえわからない自分を雇ってくださるとは…。不思議なことにその言葉をきっかけに、私の症状はゆっくりとですが安定してきました。 ———今はとてもお元気そうに見えます。奇跡の回復を果たしたのですね?  みんなによくそう言われますが、実は検査数値を見ると状態は決して良くないんです。今も免疫抑制剤を一日10錠程度服用しています。疲れやすいし、体力も落ちました。息切れがひどいですね。  それに男性ホルモンの入った薬の副作用で声がハスキーになったんです。すでに薬はやめていますが結局声は戻らなかった。声帯が変化しちゃったんですね。だから自分の声には今も違和感があるかな。このように回復したわけではなく病気とともに生きています。  でも、私病気になる前より自分は幸せって思えるんですよ。 ———病気を抱えていても今のほうがいいのですか?本当に?  そうです。私の周囲の環境も変わりました。以前仕事をしていた時には成果主義、減点主義の世界で生きてきたんですね。今周りにいる人たちは価値観が違う。そこが居心地がよいと思っています。  そのことを教えてくれたのはペットの猫かもしれない。それまでの私は誰かの役に立たないと自分の価値を確認できなかった。そんな私が一時期は寝たきりになっちゃった。そして人の血液を週に1回の頻度で輸血していただかないと生きていられないということを受け入れなくてはならなかった。そんな時私は病気になる前から飼っていたミー君(猫)を見て思ったんです。猫って、何にも役に立たないでしょ。でも本当にそこにいて、「ニャーご飯ちょうだい」っていうだけで私を幸せな気持ちにしてくれるなと。猫に触れていたら「あっ私、いるだけでいいんだ」って思った。今まで気づかなかったことを病気が教えてくれた。そういうことがなければ今ここにいないかもしれないと思うんです。 商店街の魚屋さん。猫のミー君の御馳走あるかな? 🍀病を得て見えてきた新しい価値観 ———食べることがお好きなんですね。  はい。おいしいものを食べた時の喜びがとても大きいですね。私が「おいしい!」と感じる基準は、それを料理する人が心を込めて作っていて、食べる人に「喜んでもらいたい」って思っているかどうかですね。 ———旅行や山登りも趣味とお聞きしましたが。  病気になる前の私は、自然になんて全然興味がなく仕事に熱中していました。今は自然の中に行くことがとても大切な時間に思えるようになりました。主治医の先生は私のことをちゃんとわかってくれているみたいで、内緒で旅行の計画を立てていたりすると診察の時に「いつ山に行くの?」なんて尋ねられたりして驚きます。先生は私がどんなことをしても絶対に全否定はしないですね。「治癒しますよ」とも言わないし、「骨髄移植しなさい」とも言わない。ただそっと寄り添っていつも支えてくれているんです。私ってとても幸せ者です。 お気に入りの地元のカレー屋さんベジフルスパイス。真心込めて作られたおいしい料理。盛りつけも美しい 上高地の幻想的な草原を訪れ、美しさに息をのみました 戸隠神社奥社で。自然はでっか〜い ———今の状態について誰かに「ありがとう」を言うとしたら?  うーん。1人は選べないです。私を雇ってくれた会社の社長、献血をしてくれた会ったこともない人々、主治医の先生、母や弟やお嫁さんや姪っ子、家族のみんな…周りの人本当にみんな!「もう感謝しかないよ」なんて言ったら昔の友達はひくかもしれないなあ。でもそれでもいいと思っているんです。だからみんなへの感謝の代表として、ふふふっ 字は読めないけど私に「生きてそこにいるだけでいいんだよ」って教えてくれた猫のミー君に手紙書きますね。これは出さない手紙だけど。みんな、そしてミー君 いつもありがとう! インフォメーション:再生不良性貧血 再生不良性貧血は血液中の白血球、赤血球、血小板のすべてが減少する疾患です。これらの血球は骨髄で作られますが、この病気にかかった人の骨髄を調べると、骨髄組織が多くの場合脂肪に置き換わっており、血球が作られていません。そのために貧血症状、感染による発熱、出血などが起こります。この病気は難病に指定されており、患者さんの70%は原因不明といわれています。2006年の調査では、全国の患者数は約11,159人で、新たに発生する患者さんの数は100万人あたり6人前後とされています。赤血球、好中球、血小板の減少によって、めまい、頭痛、身体がだるくなる、疲れやすい、狭心症のような胸痛、息切れ、動悸などさまざまな症状が起こります。 (撮影)多田裕美子