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ちゃんと知ろう自分のカラダ
つくばセントラル病院脳神経内科部長 高橋良一先生 「眠ろうとしてもなかなか寝付けない」という不眠の体験のある方がほとんどではないでしょうか。心配事や試験・発表会の前日、熱帯夜など眠れない原因はさまざまですが、通常は長期間、その状態が持続せずに睡眠がとれるようになります。 しかし、不眠が1か月以上にわたって続く場合があります。不眠が続くと、日常生活での不調が出現するようになります。日中のだるさや意欲・集中力低下、抑うつ、めまい、食欲不振などさまざまな症状があり、「長期間不眠が続き、日中に精神や身体の不調を自覚して生活の質が低下する」とき、不眠症と診断されます。 不眠症は次の4つのタイプがあります。なかなか寝付けない「入眠障害」、眠りが浅く何度も目が覚める「中途覚醒」、期待した時間より早く目が覚める「早朝覚醒」、睡眠の満足感が得られない「熟眠障害」です。脳神経内科外来で診療することが多い高齢の方は、とりわけ中途覚醒で悩むケースが多いです。 日本人を対象にした調査で、5人に1人が「何らかの不眠がある」と回答しており、60歳以上の方では約3人に1人で睡眠問題があるといわれています。頻度の高い症状で、診察室で不眠の悩みをお聞きすることは非常に多いです。 「出口の見える不眠治療」が重要視 不眠症については、睡眠時無呼吸症候群や、むずむず脚症候群とも呼ばれる主に下肢に不快な症状を感じるレストレスレッグス症候群、うつ病のような特別な原因がないか考えることからはじめています。 薬物治療に入る前に、「夕方以降カフェインやアルコール摂取を避ける」、「寝室は寝る目的のみに使用する」など生活習慣の見直しも重要です。睡眠について知識を得たいときには、厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」(※)も参考になります。同指針は、「睡眠12箇条」を掲げています。 【健康づくりのための睡眠指針2014 睡眠12箇条】 1.良い睡眠で、からだもこころも健康に。2.適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。3.良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。4.睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。5.年齢や季節に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。6.良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。7.若年世代は夜更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。8.勤...
三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか? 14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか? フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか? 乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。 私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか? 2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました...
浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。 発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか? 銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう? 血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。 検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。 でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。 すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか? 具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫...
石井匡さん プロフィール 看護師 病院勤務1978年生まれ 埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)出身 看護師歴16年。最初に勤務した病院では外科・内科混合病棟に勤務。その後総合病院に転職し現在は消化器外科病棟の看護師として勤務する。29歳の時、離婚問題が原因でうつ状態となる。職場の理解や友人のサポート、鍼灸治療により回復し健康を取り戻す。その後再婚し新しい家庭生活をスタート。病棟の看護師としてマネージメントや後輩の教育など、管理職としても活躍中。 🍀幸せだったはずの家庭が突然崩壊しはじめた衝撃 ———看護師さんのお仕事は夜勤もあり、かなり激務というイメージがありますが。 そうですね。もう慣れていますが、平均して1か月に5~6回の夜勤がありますし、定期的なシフトではないので体調管理のリズムは作りにくいかもしれません。たまに寝不足でイライラする事はありますが、この仕事を選んだ以上それは当然のことだと思っています。 ———まだ男性看護師さんは少数派ですか? はい。男性看護師は増えてきていますが圧倒的に女性の職場ですね。看護学校を卒業した時、同級生の中で男性は二人でした。でも職場では性別に関係なく誠実に接していれば患者さんは受け容れてくれますし「男の看護師さんってやさしいよね」とこっそり言われる事もあるんですよ。 ———不規則な勤務体制や職場のストレスから深刻な抑うつ状態になられたということですか? うつ状態になった直接の原因は、仕事ではなく家庭生活のほうでした。23歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ家庭を大切にしていたつもりですが、20代前半はどうしても仕事に集中しなければならない時期が続きました。29歳になってやっと仕事にも余裕が生まれ家庭も楽しむことができそうという感じになってきた時、妻による精神的な攻撃が始まったのです。 ———精神的な攻撃とはどんなことなのでしょう? 突然、妻が私の一挙一動や過去のことを徹底的に批判し始めたのです。私は仕事にもポジティブに取り組むほうですし、いろいろなことに正面から向きあい努力するタイプで、問題があっても話し合いで妥協点をみつけてきました。しかし、人からあれほどまでに攻撃的な言動をぶつけられた経験はありませんでしたし、ずっと一緒に暮らしてきた妻の態度だけに衝撃を受けました。 あらゆることに文句を言われ、否定され「離婚したい、出て行...
鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。 はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。 はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか? 1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか? 季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか? まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか? 最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態...
戸山純子さん プロフィール 1952年 東京都台東区出身 ウェブデザイナー30代まで小劇場の女優として活動。32歳の時、銀座でコーヒー専門店を開店し8年間オーナーとして運営を行う。その後、友人の依頼でカウンターバーの開店を手伝い13年間運営に従事。52歳のころリウマチと診断されるが治療により現在はほぼ寛解状態にある。フリーランスのウェブデザイナーとして企業のサイトの画像処理やシステムづくりを担当する。 🍀介護、仕事で忙しい毎日を突然襲った関節の腫れと痛み 着物を日常着として楽しみたい。季節のタケノコをあしらった帯は江戸っ子らしい粋な着こなし ———戸山さんはお元気そうですが関節リウマチ(以下リウマチ)という持病をお持ちなのですね。 はい。現在は痛みもなく安定した状態ですが、約10年前の52歳の時にリウマチを発症しました。それ以前から関節痛のため整形外科を受診していたのですが…ある朝目覚めたら、手首と足首が腫れて、膝もぷっくりとボールのようで…大変な痛みでした。かかっていた整形外科でリウマチと診断され、リウマトレックスという抗リウマチ薬の飲み薬を処方され約1年間治療しました。 ———リウマチは痛みの他に全身倦怠感がひどいそうですね はい。関節の痛みの他に熱が出る事もありました。リウマチの薬に加え炎症を抑えるためのステロイドの錠剤と点滴を1週間に一度打っていました。ステロイドを使うと顔がむくみ気分が悪くなるときもありますが、関節の痛みはすぐ引くんです。ただ、その効果は長続きしないので困りました。 ———大変でしたね。当時体調をくずす原因となるようなことはありましたか? 女優時代はかなり不規則な生活でしたね。32歳の時、銀行から3000万円を借金して銀座にコーヒー専門店を開店し8年続けました。業績は好調で借金も返済しましたが、事情がありお店は閉店しました。ほどなく友人が数寄屋橋でカウンターバーを開くというので、その企画から参加し運営を13年間手伝ってきました。仕事は多忙でしたね。その当時私は上野で一人暮らしをしていましたが父が亡くなって実家のある竹の塚(浅草から移り住んだ)に戻り、母と二人の暮らしが始まりました。母は抑うつ状態で、だんだん介護が必要な状態になっていきました。母は依頼心が強く1人では何も決断しないけれど、結構頑固で言い出したら聞かないタイプですから介護...
つくばセントラル病院脳神経内科部長 高橋良一先生 「眠ろうとしてもなかなか寝付けない」という不眠の体験のある方がほとんどではないでしょうか。心配事や試験・発表会の前日、熱帯夜など眠れない原因はさまざまですが、通常は長期間、その状態が持続せずに睡眠がとれるようになります。 しかし、不眠が1か月以上にわたって続く場合があります。不眠が続くと、日常生活での不調が出現するようになります。日中のだるさや意欲・集中力低下、抑うつ、めまい、食欲不振などさまざまな症状があり、「長期間不眠が続き、日中に精神や身体の不調を自覚して生活の質が低下する」とき、不眠症と診断されます。 不眠症は次の4つのタイプがあります。なかなか寝付けない「入眠障害」、眠りが浅く何度も目が覚める「中途覚醒」、期待した時間より早く目が覚める「早朝覚醒」、睡眠の満足感が得られない「熟眠障害」です。脳神経内科外来で診療することが多い高齢の方は、とりわけ中途覚醒で悩むケースが多いです。 日本人を対象にした調査で、5人に1人が「何らかの不眠がある」と回答しており、60歳以上の方では約3人に1人で睡眠問題があるといわれています。頻度の高い症状で、診察室で不眠の悩みをお聞きすることは非常に多いです。 「出口の見える不眠治療」が重要視 不眠症については、睡眠時無呼吸症候群や、むずむず脚症候群とも呼ばれる主に下肢に不快な症状を感じるレストレスレッグス症候群、うつ病のような特別な原因がないか考えることからはじめています。 薬物治療に入る前に、「夕方以降カフェインやアルコール摂取を避ける」、「寝室は寝る目的のみに使用する」など生活習慣の見直しも重要です。睡眠について知識を得たいときには、厚生労働省のホームページの「健康づくりのための睡眠指針2014」(※)も参考になります。同指針は、「睡眠12箇条」を掲げています。 【健康づくりのための睡眠指針2014 睡眠12箇条】 1.良い睡眠で、からだもこころも健康に。2.適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。3.良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。4.睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。5.年齢や季節に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。6.良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。7.若年世代は夜更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。8.勤...
三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか? 14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか? フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか? 乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。 私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか? 2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました...
浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。 発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか? 銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう? 血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。 検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。 でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。 すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか? 具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫...
石井匡さん プロフィール 看護師 病院勤務1978年生まれ 埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)出身 看護師歴16年。最初に勤務した病院では外科・内科混合病棟に勤務。その後総合病院に転職し現在は消化器外科病棟の看護師として勤務する。29歳の時、離婚問題が原因でうつ状態となる。職場の理解や友人のサポート、鍼灸治療により回復し健康を取り戻す。その後再婚し新しい家庭生活をスタート。病棟の看護師としてマネージメントや後輩の教育など、管理職としても活躍中。 🍀幸せだったはずの家庭が突然崩壊しはじめた衝撃 ———看護師さんのお仕事は夜勤もあり、かなり激務というイメージがありますが。 そうですね。もう慣れていますが、平均して1か月に5~6回の夜勤がありますし、定期的なシフトではないので体調管理のリズムは作りにくいかもしれません。たまに寝不足でイライラする事はありますが、この仕事を選んだ以上それは当然のことだと思っています。 ———まだ男性看護師さんは少数派ですか? はい。男性看護師は増えてきていますが圧倒的に女性の職場ですね。看護学校を卒業した時、同級生の中で男性は二人でした。でも職場では性別に関係なく誠実に接していれば患者さんは受け容れてくれますし「男の看護師さんってやさしいよね」とこっそり言われる事もあるんですよ。 ———不規則な勤務体制や職場のストレスから深刻な抑うつ状態になられたということですか? うつ状態になった直接の原因は、仕事ではなく家庭生活のほうでした。23歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ家庭を大切にしていたつもりですが、20代前半はどうしても仕事に集中しなければならない時期が続きました。29歳になってやっと仕事にも余裕が生まれ家庭も楽しむことができそうという感じになってきた時、妻による精神的な攻撃が始まったのです。 ———精神的な攻撃とはどんなことなのでしょう? 突然、妻が私の一挙一動や過去のことを徹底的に批判し始めたのです。私は仕事にもポジティブに取り組むほうですし、いろいろなことに正面から向きあい努力するタイプで、問題があっても話し合いで妥協点をみつけてきました。しかし、人からあれほどまでに攻撃的な言動をぶつけられた経験はありませんでしたし、ずっと一緒に暮らしてきた妻の態度だけに衝撃を受けました。 あらゆることに文句を言われ、否定され「離婚したい、出て行...
鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。 はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。 はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか? 1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか? 季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか? まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか? 最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態...
戸山純子さん プロフィール 1952年 東京都台東区出身 ウェブデザイナー30代まで小劇場の女優として活動。32歳の時、銀座でコーヒー専門店を開店し8年間オーナーとして運営を行う。その後、友人の依頼でカウンターバーの開店を手伝い13年間運営に従事。52歳のころリウマチと診断されるが治療により現在はほぼ寛解状態にある。フリーランスのウェブデザイナーとして企業のサイトの画像処理やシステムづくりを担当する。 🍀介護、仕事で忙しい毎日を突然襲った関節の腫れと痛み 着物を日常着として楽しみたい。季節のタケノコをあしらった帯は江戸っ子らしい粋な着こなし ———戸山さんはお元気そうですが関節リウマチ(以下リウマチ)という持病をお持ちなのですね。 はい。現在は痛みもなく安定した状態ですが、約10年前の52歳の時にリウマチを発症しました。それ以前から関節痛のため整形外科を受診していたのですが…ある朝目覚めたら、手首と足首が腫れて、膝もぷっくりとボールのようで…大変な痛みでした。かかっていた整形外科でリウマチと診断され、リウマトレックスという抗リウマチ薬の飲み薬を処方され約1年間治療しました。 ———リウマチは痛みの他に全身倦怠感がひどいそうですね はい。関節の痛みの他に熱が出る事もありました。リウマチの薬に加え炎症を抑えるためのステロイドの錠剤と点滴を1週間に一度打っていました。ステロイドを使うと顔がむくみ気分が悪くなるときもありますが、関節の痛みはすぐ引くんです。ただ、その効果は長続きしないので困りました。 ———大変でしたね。当時体調をくずす原因となるようなことはありましたか? 女優時代はかなり不規則な生活でしたね。32歳の時、銀行から3000万円を借金して銀座にコーヒー専門店を開店し8年続けました。業績は好調で借金も返済しましたが、事情がありお店は閉店しました。ほどなく友人が数寄屋橋でカウンターバーを開くというので、その企画から参加し運営を13年間手伝ってきました。仕事は多忙でしたね。その当時私は上野で一人暮らしをしていましたが父が亡くなって実家のある竹の塚(浅草から移り住んだ)に戻り、母と二人の暮らしが始まりました。母は抑うつ状態で、だんだん介護が必要な状態になっていきました。母は依頼心が強く1人では何も決断しないけれど、結構頑固で言い出したら聞かないタイプですから介護...