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リハビリ

  • 元の職場に復帰して経理を担当。会社で仲間と一緒にいることを改めて楽しいと感じる毎日

    【第13回】つらい時も元気な時もいつも笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか?  発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。  はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。  はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか?  病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかったと思いますが、特に健康診断で引っかかったり何かの病名がついていると言うことはなかったです。 🍀予兆だったかもしれない前日の熱中症のような症状 ———発症する前後に何か予兆のようなものはありましたか?  特に身体に感じる異変というのはなかったと思います。ただ2年前の夏もとても暑い日が続いていて、当時会社では機材倉庫の物件を探していました。経理部としても下見が必要ということで、倒れる前日に炎天下の猛暑の中、江東区辰巳の倉庫街に行き、そこで道に迷ってしまい長時間外を歩き周りました。その時すでに、熱中症っぽい感じがあったのかもしれません。倒れた当日の朝は、妻の話によると、出掛けにいつになく機嫌が悪かったそうです。 ———熱中症にも気をつけないといけないですね。倒れてから救急車に乗っている時は、意識はあったのですか?  よく覚えていませんが、誰かにずっと名前を呼ばれていた気がします。次に気がついた時には病院のベッドの上でした。すぐMRIを撮ってもらい集中治療室みたいな部屋に入りました。駆けつけた妻の顔を見て「俺倒れたの?」と不思議そうに何回も聞いたそうです。 ———直接の原因は咳こんだことだったのでしょうか?  はい。特に血圧やコレステロールの治療をしていたわけではないですが、やはりタバコも吸っていましたし、実は父や妹も心臓の不整脈があるんですね。だから遺伝的には不整脈になる傾向があったのではと思っています。不整脈があると心臓の中に血の固まりが出来やすいらしいです。それが血管の中ではがれて脳の動脈の方に流れていって、そのせいで、脳の血管がつまってしまうことがあるそうです。私の場合、咳が出た瞬間にその衝撃で血管の中の固まりがはがれ、右側の脳に詰まった様子です。 🍀早期治療のあとに早めに開始したリハビリ訓練 ———かなり治療が早かったので後遺症も少なくてよかったですね。  はい。その血栓を溶かす薬を点滴で入れて翌日には集中治療室みたいな部屋から出て一般病棟へ移ることができました。結局意識が回復してからリハビリをしながら7月29日まで、約2週間ちょっと虎ノ門病院に入院していました。 ———最初はどんなリハビリをしたのでしょうか?  最初は車椅子に乗りかなりぼーっとした感じでした。看護師さんが私にしょっちゅう「お名前を言って下さい」「今どこにいますか」と聞くのです。それから紐を両手でピンっと張って目の前に見せられ、真ん中をつまんでくださいと言われるんですね。簡単なことのはずなのにそれがあんまりできていなかったです。血栓が詰まった場所が右側で、反対の左側に影響がありました。左目が見えていない感じがあり、看護師さんに左の足をつねられてもあまり痛くなかった。妻に後から聞いたのですが両腕を前に上げるように言われ支えてもらっても、左手だけはすぐふにゃーっと下に降りてしまっていた。歩いている時でも、左側の距離感などが掴めないので、すぐ人とぶつかってしまいそうな感じでかなり危なそうに見えていたようです。 🍀深刻に考え過ぎずにありのままを受け容れる 「つい心配になって身の回りのことを手伝ってしまうんです」と妻の悦子さん ———最初は左半身が麻痺するのではないかと不安な状況だったと思いますが。  そうですね。僕は短気なところがあるので少しイライラはしていました。でもその一方で置かれた状況はそのまま受け容れるほうなんですね。いつ退院できるのかは気になったし、「これからどうなるんだろう?」という不安はありました。闘病中にうつっぽくなってしまう人も少なくないそうです。でも僕は、「あーっできないことが多すぎるな、これはあまり真剣に考えてもしょうがない」って感じでした。 ———その後2週間あまりで別のリハビリ病院に転院したわけですね。  20日後の7月29日に墨田区の東京都リハビリテーション病院に転院となりました。ここで最初の3週間ぐらいは車椅子だったんですが、じょじょに車いすから歩行器みたいなものになり、杖になり、なんとか歩けるようになってきました。歩行訓練のほか理学療法などをやりました。周囲の患者さんの中には自主的にリハビリにすごく時間をかけ頑張る人もいましたが、僕は回復が比較的順調だという思いもあり、決められたプログラムに従い後はのんびりテレビを見たりして過ごしていました。その頃から左側の感覚もかなり戻ってきました。早めに処置をしたことがよかったと思いますし、早くから言葉の練習などをしたことも、今思うとよかったのだろうなと思います。 🍀酒席の回数が減って増えた妻と過ごす時間 地元両国国技館前で妻との散歩を楽しみます 両国の安田庭園は日本庭園が美しい静かな散策コース ———結局、後遺症のようなものは残らずにすんだのでしょうか?  大きな後遺症はないですが左足の違和感は今も続いています。このため歩くのは結構疲れます。またそのために自転車のペダルが左足でこげなくなり、自転車はもう乗れない感じですね。自転車であちこちに行くのが好きだったので、これは残念です。また左足は靴が上手く履けないので妻に手伝ってもらっていますし、ズボンのベルト通しなども左側がやりにくいので手伝ってもらうことが多いです。細かく見るといろいろ出来なくなったことがあるのですが、まあそこはあまり深刻に考えないようにしています ———病院を退院なさって何か生活に変化はありましたか?  リハビリテーション病院には約5ヶ月間いました。この間、病院ではタバコが吸えないので必然的に禁煙しました。それまで何回か禁煙パッチを貼ったりしてトライしても出来なかったのですが、あれを機会にタバコは自然にやめる事になりました。以前はお酒も誘われれば朝まで飲むようなことがあったのですが、飲みに行く頻度も減りました。会社の帰りには、仕事をしている妻と駅で待ち合わせをして、食事したり一緒に家に帰ることが増えました。 ———再発予防のためにいろいろ努力していらっしゃるのですね。  うーん。といっても努力のしようもないというか…病院で知り合った方の中には脳梗塞を二度三度と再発している方もおられるんですね。院内の食堂などでご一緒した時に、いろいろなお話を伺ったのですが、具体的に何をしたら再発しないのかはよくわからないんです。私自身はお酒も減らしていますが、運動などももっとしたほうがいいのでしょうが…。左足の調子が悪いので疲れやすく運動もそんなにできないですね。「再発が怖い」という漠然としたイメージだけは持っていますが、運動や減量を継続することはなかなか難しいですね。 🍀仕事も趣味も当たり前に続けられる幸せ ———勤務のほうはどのようにしていますか?  退院後に会社からは「週3日間勤務で復帰」という条件で声をかけてもらいました。このため契約上の勤務は週3日間ですが、あと2日間は自分の希望で出ていますので会社には週5日9時~5時に出社しています。退院した時点で、左足が少し不自由な意外は前と変わっていないんです。病院でも最初は自宅療養をと言われたのですが、実は家にいてもすることがないんですね。僕、家事は苦手でまったくできないし…。妻もフルタイムで働いていますから、家に僕を1人残しているほうが「かえって心配!」というのが妻の本音のようでした。僕も自宅に1人でいるよりは会社にいてみんなと話すのが好きですしね。ただ年齢的にはもう、財務の交渉ごとの現場にいる歳ではないので、仕事はできるだけ若い人に引き継いでいくようにと意識しています。 ———以前と同じようにゴルフや釣りなどの趣味も再開されているそうですね。  はい。地元墨田区両国の町内会の人たちとは親しくしています。それで一緒に楽しく気兼ねなくいろいろな遊びを続けています。ゴルフは病気になる前も上手だったわけではないのですが、病気の後は身体の感覚が変わってボールがクラブによくあたりません。でもいいんです。スコアより皆とわいわい行くのが楽しいんです。 町内会のみんなとワイワイ笑顔でゴルフをするのが楽しい ———病気の体験を振り返ってどんな事を思いますか?  あの経験以来、妻と話し合って、もしどこかでお互いに何かあった時には、すぐ連絡がつくように工夫しています。携帯電話の連絡先には名前の後に(妻)(夫)などを書き入れましたし、自分や家族の連絡先がわかる名刺やメモを財布の中にいつも入れるようにしています。こんな風に備えるのは大切だと思うのです。ただ「この先どうなるのか?」とか、わからないことをあまり考え込んだりはしないようにしているんです。2年前の出来事は幸い倒れた場所が会社で、後遺症も少なかったことは本当によかったと思うのです。そして今、仕事も趣味もほとんど元通りの生活ができているのは、やはり支えてくれた妻のおかげです。退院後は妻との時間を以前より大切にするようになりましたね。会社も復帰の時に快く受け容れてくれたし、大変な経験でしたがいろいろなことが本当にラッキーだったなと思っています。妻には家事や身の回りのことだけでなく気持ちの面でもいつも支えてもらっています。実は「ありがとう」なんて言ったことはないですけど、心の中でいつも感謝しています。 インフォメーション:脳梗塞 脳卒中は脳に血液が流れなくなることにより脳の神経細胞が壊死し、障害が起きる病気全般を示します。「脳梗塞」は「脳出血」、「くも膜下出血」、「一過性脳虚血発作」などとともにこの脳卒中の原因とされる病気の1つで、脳の血管に血栓という固まりが詰まっておこる状態です。脳梗塞が起きた場には、右半身か左半身のいずれかに運動麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりします。治療後も後遺症が残ることも多く、日常生活に手助けが必要になることも少なくありません。もし、脳梗塞が疑われる症状が起きたら、直ちに救急車で脳卒中専門の病院を受診しましょう。病院では、脳梗塞が起こってから4~5時間以内に血栓(血のかたまり)を溶かす血栓溶解療法により血管の詰まりの改善を目指します。また早期のリハビリも有効です。再発防止のためには血液をサラサラにするお薬で血栓をできにくくする治療法もあります。 脳梗塞を避けるには、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの危険因子をしっかり管理し、禁煙や体重管理、運動など生活習慣の改善が大切です。また日常から充分な水分補給をすることが重要です。水分補給により脱水症状が緩和され、血流もよくなります。 (撮影)多田裕美子

  • 仲間たちと観光農園でイチゴ狩り。イチゴの赤が見えるのが嬉しい。

    【第5回】視力を失ったから気づけた、誰かの役に立てる喜び。“生かされた人生”、そして妻に心の底から「ありがとう」

    宮田新一さん プロフィール 大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。 🍀精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病 白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。 ———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか?  左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。 ———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか?  51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。 絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」 ———重症だったのでしょうか?  はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。体中管だらけで絶対安静の状態だった。 🍀奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」 ———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。  医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。 その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。 ———それで頑張ってその1年後に会社に復帰できたのですね。  はい。ところが1年後に目の炎症がおきました。角膜穿孔寸前まで炎症がひどくなり、さらに真菌におかされたのです。その結果一時期は全盲状態となり、目の病院に入院しました。ほんの少し改善しましたが、加齢による重度の乱視の進行は防げず 最初は一つの物が3~4つぐらいに見えていたものが、今はシャンデリア状態で数が数えられないほどです。だんだん高級なシャンデリアになりました。(笑) 仕事のほうは乱視が次第にひどくなり、とうとう電気回路図が読めなくなった。「薄皮をはぐように良くなる」という言葉があるけれど、私の目はその逆で、「薄皮が増すように」見えなくなる。「昨日まで見えていたあれが見えないこれも見えなくなった…」と。さすがに落ち込みました。結局、会社は退職することになりました。 ———そうでしたか。  そんな時、獨協大学の眼科ロービジョン外来の主治医に『ロービジョン友の会アリス』を勧められたのです。気の進まないまま参加してみて…衝撃でした。全く見えない参加者が明るく笑っている。「えっ何で?」って。そして「会に電気関係の事の分かる人がいないの。電気メーカに勤務していたのなら担当になってくれない?」と頼まれたのです。「まだ人の役に立つ?えっもしかして俺って…生かされているんだ!」と気づいた瞬間でした。これを機に「ロービジョン者として生きて行こう」と決めたのです。「俺、これから別の人生を歩める。他の人の経験できないような人生、これもまた楽しいじゃん」と。 異国の人になったみたいな気分になりました。 「誰かの役に立てる」ことを気づかせてくれた、視覚障害を持った仲間たち。 🍀私たちが笑顔で出歩けるのが、誰にとっても暮らしやすい社会 ———実際に患者会に入ってみてどうでしたか?  仕事では主にビデオ機器の修理をしていたので、パソコンや音声機器関係のことではもちろんお手伝いできました。しかしそれ以上に約30年間、サービスマンとしていろいろなお宅を訪問し、お客様とコミュニケーションしてきた営業マン的な経験が役立ちました。 ———患者会活動ではどんなことをするのですか?  たくさんの遊びを企画しています。楽しいことなら何でもです。私のように人生後半に目が不自由になるいわゆる中途失明は衝撃が大きく、多くの人たちが絶望したまま引きこもりがちなのです。視覚障害者とはつまり移動障害者のことなんです。見えづらさを抱えた人々がもう一回外に出られるようにしたい。白杖の人たちが大勢で人ごみに繰り出して楽しそうに街を闊歩する。電車やバスに乗る、レストランやカフェに入る。映画や演劇を見に劇場に行く、トイレを使う…。そして周囲の人に少し手助けをお願いする。 ———視覚障害者の存在を世間の人に知ってもらうということですね  そうです。白杖を持った私たちが笑顔でいるのを見れば、健常者の人も「もし自分が見えづらくなっても大丈夫なんだ」と感じるでしょう。障害や弱さをもった人が楽しく過ごせるところは、誰にとっても暮らしやすい社会なんです。 花見、イチゴ狩り、料理教室、ビール工場見学、飲み会…楽しいことは何でも一緒に。 🍀「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった 福祉イベントで小学生にパソコンの音声読み上げについて教えることもある ———生活上では何か変化がありましたか?  一番の変化は感謝の気持の深さですね。以前はなんとなく社交辞令とか挨拶みたいに言っていた「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった。それを自覚したのは、当時外来に行くために病院の前の横断歩道で信号待ちをしていた時です。福祉の授業を受けたばかりらしい小学校4年生くらいの男の子が近づいてきて「おじさん信号青だよ、渡れるよ」と声をかけてくれたのです。私はこの子のひと言が嬉しくて、感情がこみ上げて病院の入り口でぼろぼろ泣き出しちゃった。感謝の気持が体の深いところからわき上がってくる体験でした。 ———いろいろな方と支え合っていると思いますが身近で一番感謝したい人は?  アリスの会や虹の会の仲間達、お医者さん、街ですれ違う人、そう。みんなだよね。でもやっぱり一番は女房だね。女房は私が倒れた時にもすごい頑張った。私が入院していた時は、親父も入院中、妹も看病疲れて具合が悪くて入院しちゃった。3人の病人を同時に見ていてくれた。本当に強いのにいつも淡々としている。感謝の言葉ってなかなか言えるような場面がないけど、本当は心の底からありがとうって思っているんだよね。ちょっと照れくさいけどね。手紙を書いてみました。 お酒が好きなのでボトルのデザインに感謝を込めて。 「こちらこそこれからもよろしくお願いします」と奥様の和子さん。 インフォメーション:ロービジョン ロービジョンとは視機能が弱く、矯正もできない状態をいいます。それにより日常生活や就労などの場で不自由を強いられます。従来は弱視、または低視力と呼ばれた状態です。調査によると日本はロービジョンの人は約144万いて、視力が0.01以下の「失明者」は18万8000人います。視覚障害の主な原因となるのは緑内障、糖尿病性網膜症、網膜色素変性症、黄斑変性症などです。病名に関わらず、見えづらくなると移動の不安や情報伝達の困難などから精神的にも不安を感じることが多くなります。 患者会情報●ロービジョン友の会アリス http://lowvision-aris.jimdo.com/●草加 視覚障がい者 虹の会 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/index.html (撮影)多田裕美子

  • 元の職場に復帰して経理を担当。会社で仲間と一緒にいることを改めて楽しいと感じる毎日

    【第13回】つらい時も元気な時もいつも笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか?  発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。  はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。  はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか?  病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかったと思いますが、特に健康診断で引っかかったり何かの病名がついていると言うことはなかったです。 🍀予兆だったかもしれない前日の熱中症のような症状 ———発症する前後に何か予兆のようなものはありましたか?  特に身体に感じる異変というのはなかったと思います。ただ2年前の夏もとても暑い日が続いていて、当時会社では機材倉庫の物件を探していました。経理部としても下見が必要ということで、倒れる前日に炎天下の猛暑の中、江東区辰巳の倉庫街に行き、そこで道に迷ってしまい長時間外を歩き周りました。その時すでに、熱中症っぽい感じがあったのかもしれません。倒れた当日の朝は、妻の話によると、出掛けにいつになく機嫌が悪かったそうです。 ———熱中症にも気をつけないといけないですね。倒れてから救急車に乗っている時は、意識はあったのですか?  よく覚えていませんが、誰かにずっと名前を呼ばれていた気がします。次に気がついた時には病院のベッドの上でした。すぐMRIを撮ってもらい集中治療室みたいな部屋に入りました。駆けつけた妻の顔を見て「俺倒れたの?」と不思議そうに何回も聞いたそうです。 ———直接の原因は咳こんだことだったのでしょうか?  はい。特に血圧やコレステロールの治療をしていたわけではないですが、やはりタバコも吸っていましたし、実は父や妹も心臓の不整脈があるんですね。だから遺伝的には不整脈になる傾向があったのではと思っています。不整脈があると心臓の中に血の固まりが出来やすいらしいです。それが血管の中ではがれて脳の動脈の方に流れていって、そのせいで、脳の血管がつまってしまうことがあるそうです。私の場合、咳が出た瞬間にその衝撃で血管の中の固まりがはがれ、右側の脳に詰まった様子です。 🍀早期治療のあとに早めに開始したリハビリ訓練 ———かなり治療が早かったので後遺症も少なくてよかったですね。  はい。その血栓を溶かす薬を点滴で入れて翌日には集中治療室みたいな部屋から出て一般病棟へ移ることができました。結局意識が回復してからリハビリをしながら7月29日まで、約2週間ちょっと虎ノ門病院に入院していました。 ———最初はどんなリハビリをしたのでしょうか?  最初は車椅子に乗りかなりぼーっとした感じでした。看護師さんが私にしょっちゅう「お名前を言って下さい」「今どこにいますか」と聞くのです。それから紐を両手でピンっと張って目の前に見せられ、真ん中をつまんでくださいと言われるんですね。簡単なことのはずなのにそれがあんまりできていなかったです。血栓が詰まった場所が右側で、反対の左側に影響がありました。左目が見えていない感じがあり、看護師さんに左の足をつねられてもあまり痛くなかった。妻に後から聞いたのですが両腕を前に上げるように言われ支えてもらっても、左手だけはすぐふにゃーっと下に降りてしまっていた。歩いている時でも、左側の距離感などが掴めないので、すぐ人とぶつかってしまいそうな感じでかなり危なそうに見えていたようです。 🍀深刻に考え過ぎずにありのままを受け容れる 「つい心配になって身の回りのことを手伝ってしまうんです」と妻の悦子さん ———最初は左半身が麻痺するのではないかと不安な状況だったと思いますが。  そうですね。僕は短気なところがあるので少しイライラはしていました。でもその一方で置かれた状況はそのまま受け容れるほうなんですね。いつ退院できるのかは気になったし、「これからどうなるんだろう?」という不安はありました。闘病中にうつっぽくなってしまう人も少なくないそうです。でも僕は、「あーっできないことが多すぎるな、これはあまり真剣に考えてもしょうがない」って感じでした。 ———その後2週間あまりで別のリハビリ病院に転院したわけですね。  20日後の7月29日に墨田区の東京都リハビリテーション病院に転院となりました。ここで最初の3週間ぐらいは車椅子だったんですが、じょじょに車いすから歩行器みたいなものになり、杖になり、なんとか歩けるようになってきました。歩行訓練のほか理学療法などをやりました。周囲の患者さんの中には自主的にリハビリにすごく時間をかけ頑張る人もいましたが、僕は回復が比較的順調だという思いもあり、決められたプログラムに従い後はのんびりテレビを見たりして過ごしていました。その頃から左側の感覚もかなり戻ってきました。早めに処置をしたことがよかったと思いますし、早くから言葉の練習などをしたことも、今思うとよかったのだろうなと思います。 🍀酒席の回数が減って増えた妻と過ごす時間 地元両国国技館前で妻との散歩を楽しみます 両国の安田庭園は日本庭園が美しい静かな散策コース ———結局、後遺症のようなものは残らずにすんだのでしょうか?  大きな後遺症はないですが左足の違和感は今も続いています。このため歩くのは結構疲れます。またそのために自転車のペダルが左足でこげなくなり、自転車はもう乗れない感じですね。自転車であちこちに行くのが好きだったので、これは残念です。また左足は靴が上手く履けないので妻に手伝ってもらっていますし、ズボンのベルト通しなども左側がやりにくいので手伝ってもらうことが多いです。細かく見るといろいろ出来なくなったことがあるのですが、まあそこはあまり深刻に考えないようにしています ———病院を退院なさって何か生活に変化はありましたか?  リハビリテーション病院には約5ヶ月間いました。この間、病院ではタバコが吸えないので必然的に禁煙しました。それまで何回か禁煙パッチを貼ったりしてトライしても出来なかったのですが、あれを機会にタバコは自然にやめる事になりました。以前はお酒も誘われれば朝まで飲むようなことがあったのですが、飲みに行く頻度も減りました。会社の帰りには、仕事をしている妻と駅で待ち合わせをして、食事したり一緒に家に帰ることが増えました。 ———再発予防のためにいろいろ努力していらっしゃるのですね。  うーん。といっても努力のしようもないというか…病院で知り合った方の中には脳梗塞を二度三度と再発している方もおられるんですね。院内の食堂などでご一緒した時に、いろいろなお話を伺ったのですが、具体的に何をしたら再発しないのかはよくわからないんです。私自身はお酒も減らしていますが、運動などももっとしたほうがいいのでしょうが…。左足の調子が悪いので疲れやすく運動もそんなにできないですね。「再発が怖い」という漠然としたイメージだけは持っていますが、運動や減量を継続することはなかなか難しいですね。 🍀仕事も趣味も当たり前に続けられる幸せ ———勤務のほうはどのようにしていますか?  退院後に会社からは「週3日間勤務で復帰」という条件で声をかけてもらいました。このため契約上の勤務は週3日間ですが、あと2日間は自分の希望で出ていますので会社には週5日9時~5時に出社しています。退院した時点で、左足が少し不自由な意外は前と変わっていないんです。病院でも最初は自宅療養をと言われたのですが、実は家にいてもすることがないんですね。僕、家事は苦手でまったくできないし…。妻もフルタイムで働いていますから、家に僕を1人残しているほうが「かえって心配!」というのが妻の本音のようでした。僕も自宅に1人でいるよりは会社にいてみんなと話すのが好きですしね。ただ年齢的にはもう、財務の交渉ごとの現場にいる歳ではないので、仕事はできるだけ若い人に引き継いでいくようにと意識しています。 ———以前と同じようにゴルフや釣りなどの趣味も再開されているそうですね。  はい。地元墨田区両国の町内会の人たちとは親しくしています。それで一緒に楽しく気兼ねなくいろいろな遊びを続けています。ゴルフは病気になる前も上手だったわけではないのですが、病気の後は身体の感覚が変わってボールがクラブによくあたりません。でもいいんです。スコアより皆とわいわい行くのが楽しいんです。 町内会のみんなとワイワイ笑顔でゴルフをするのが楽しい ———病気の体験を振り返ってどんな事を思いますか?  あの経験以来、妻と話し合って、もしどこかでお互いに何かあった時には、すぐ連絡がつくように工夫しています。携帯電話の連絡先には名前の後に(妻)(夫)などを書き入れましたし、自分や家族の連絡先がわかる名刺やメモを財布の中にいつも入れるようにしています。こんな風に備えるのは大切だと思うのです。ただ「この先どうなるのか?」とか、わからないことをあまり考え込んだりはしないようにしているんです。2年前の出来事は幸い倒れた場所が会社で、後遺症も少なかったことは本当によかったと思うのです。そして今、仕事も趣味もほとんど元通りの生活ができているのは、やはり支えてくれた妻のおかげです。退院後は妻との時間を以前より大切にするようになりましたね。会社も復帰の時に快く受け容れてくれたし、大変な経験でしたがいろいろなことが本当にラッキーだったなと思っています。妻には家事や身の回りのことだけでなく気持ちの面でもいつも支えてもらっています。実は「ありがとう」なんて言ったことはないですけど、心の中でいつも感謝しています。 インフォメーション:脳梗塞 脳卒中は脳に血液が流れなくなることにより脳の神経細胞が壊死し、障害が起きる病気全般を示します。「脳梗塞」は「脳出血」、「くも膜下出血」、「一過性脳虚血発作」などとともにこの脳卒中の原因とされる病気の1つで、脳の血管に血栓という固まりが詰まっておこる状態です。脳梗塞が起きた場には、右半身か左半身のいずれかに運動麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりします。治療後も後遺症が残ることも多く、日常生活に手助けが必要になることも少なくありません。もし、脳梗塞が疑われる症状が起きたら、直ちに救急車で脳卒中専門の病院を受診しましょう。病院では、脳梗塞が起こってから4~5時間以内に血栓(血のかたまり)を溶かす血栓溶解療法により血管の詰まりの改善を目指します。また早期のリハビリも有効です。再発防止のためには血液をサラサラにするお薬で血栓をできにくくする治療法もあります。 脳梗塞を避けるには、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの危険因子をしっかり管理し、禁煙や体重管理、運動など生活習慣の改善が大切です。また日常から充分な水分補給をすることが重要です。水分補給により脱水症状が緩和され、血流もよくなります。 (撮影)多田裕美子

  • 仲間たちと観光農園でイチゴ狩り。イチゴの赤が見えるのが嬉しい。

    【第5回】視力を失ったから気づけた、誰かの役に立てる喜び。“生かされた人生”、そして妻に心の底から「ありがとう」

    宮田新一さん プロフィール 大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。 🍀精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病 白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。 ———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか?  左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。 ———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか?  51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。 絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」 ———重症だったのでしょうか?  はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。体中管だらけで絶対安静の状態だった。 🍀奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」 ———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。  医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。 その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。 ———それで頑張ってその1年後に会社に復帰できたのですね。  はい。ところが1年後に目の炎症がおきました。角膜穿孔寸前まで炎症がひどくなり、さらに真菌におかされたのです。その結果一時期は全盲状態となり、目の病院に入院しました。ほんの少し改善しましたが、加齢による重度の乱視の進行は防げず 最初は一つの物が3~4つぐらいに見えていたものが、今はシャンデリア状態で数が数えられないほどです。だんだん高級なシャンデリアになりました。(笑) 仕事のほうは乱視が次第にひどくなり、とうとう電気回路図が読めなくなった。「薄皮をはぐように良くなる」という言葉があるけれど、私の目はその逆で、「薄皮が増すように」見えなくなる。「昨日まで見えていたあれが見えないこれも見えなくなった…」と。さすがに落ち込みました。結局、会社は退職することになりました。 ———そうでしたか。  そんな時、獨協大学の眼科ロービジョン外来の主治医に『ロービジョン友の会アリス』を勧められたのです。気の進まないまま参加してみて…衝撃でした。全く見えない参加者が明るく笑っている。「えっ何で?」って。そして「会に電気関係の事の分かる人がいないの。電気メーカに勤務していたのなら担当になってくれない?」と頼まれたのです。「まだ人の役に立つ?えっもしかして俺って…生かされているんだ!」と気づいた瞬間でした。これを機に「ロービジョン者として生きて行こう」と決めたのです。「俺、これから別の人生を歩める。他の人の経験できないような人生、これもまた楽しいじゃん」と。 異国の人になったみたいな気分になりました。 「誰かの役に立てる」ことを気づかせてくれた、視覚障害を持った仲間たち。 🍀私たちが笑顔で出歩けるのが、誰にとっても暮らしやすい社会 ———実際に患者会に入ってみてどうでしたか?  仕事では主にビデオ機器の修理をしていたので、パソコンや音声機器関係のことではもちろんお手伝いできました。しかしそれ以上に約30年間、サービスマンとしていろいろなお宅を訪問し、お客様とコミュニケーションしてきた営業マン的な経験が役立ちました。 ———患者会活動ではどんなことをするのですか?  たくさんの遊びを企画しています。楽しいことなら何でもです。私のように人生後半に目が不自由になるいわゆる中途失明は衝撃が大きく、多くの人たちが絶望したまま引きこもりがちなのです。視覚障害者とはつまり移動障害者のことなんです。見えづらさを抱えた人々がもう一回外に出られるようにしたい。白杖の人たちが大勢で人ごみに繰り出して楽しそうに街を闊歩する。電車やバスに乗る、レストランやカフェに入る。映画や演劇を見に劇場に行く、トイレを使う…。そして周囲の人に少し手助けをお願いする。 ———視覚障害者の存在を世間の人に知ってもらうということですね  そうです。白杖を持った私たちが笑顔でいるのを見れば、健常者の人も「もし自分が見えづらくなっても大丈夫なんだ」と感じるでしょう。障害や弱さをもった人が楽しく過ごせるところは、誰にとっても暮らしやすい社会なんです。 花見、イチゴ狩り、料理教室、ビール工場見学、飲み会…楽しいことは何でも一緒に。 🍀「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった 福祉イベントで小学生にパソコンの音声読み上げについて教えることもある ———生活上では何か変化がありましたか?  一番の変化は感謝の気持の深さですね。以前はなんとなく社交辞令とか挨拶みたいに言っていた「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった。それを自覚したのは、当時外来に行くために病院の前の横断歩道で信号待ちをしていた時です。福祉の授業を受けたばかりらしい小学校4年生くらいの男の子が近づいてきて「おじさん信号青だよ、渡れるよ」と声をかけてくれたのです。私はこの子のひと言が嬉しくて、感情がこみ上げて病院の入り口でぼろぼろ泣き出しちゃった。感謝の気持が体の深いところからわき上がってくる体験でした。 ———いろいろな方と支え合っていると思いますが身近で一番感謝したい人は?  アリスの会や虹の会の仲間達、お医者さん、街ですれ違う人、そう。みんなだよね。でもやっぱり一番は女房だね。女房は私が倒れた時にもすごい頑張った。私が入院していた時は、親父も入院中、妹も看病疲れて具合が悪くて入院しちゃった。3人の病人を同時に見ていてくれた。本当に強いのにいつも淡々としている。感謝の言葉ってなかなか言えるような場面がないけど、本当は心の底からありがとうって思っているんだよね。ちょっと照れくさいけどね。手紙を書いてみました。 お酒が好きなのでボトルのデザインに感謝を込めて。 「こちらこそこれからもよろしくお願いします」と奥様の和子さん。 インフォメーション:ロービジョン ロービジョンとは視機能が弱く、矯正もできない状態をいいます。それにより日常生活や就労などの場で不自由を強いられます。従来は弱視、または低視力と呼ばれた状態です。調査によると日本はロービジョンの人は約144万いて、視力が0.01以下の「失明者」は18万8000人います。視覚障害の主な原因となるのは緑内障、糖尿病性網膜症、網膜色素変性症、黄斑変性症などです。病名に関わらず、見えづらくなると移動の不安や情報伝達の困難などから精神的にも不安を感じることが多くなります。 患者会情報●ロービジョン友の会アリス http://lowvision-aris.jimdo.com/●草加 視覚障がい者 虹の会 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/index.html (撮影)多田裕美子