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しこり

  • 【獣医師監修】今すぐ愛犬をチェック!~しこりから考えられる病気と対処方法~

    愛犬の体を触っていたら、「あれ?こんなところにしこりなんてあったっけ?」と気づくことがあります。もし、愛犬の体にしこり(イボ、腫瘍、できもの)がある場合、それはどんな病気の可能性があり、どんな治療が必要なのでしょうか。今回のコラムでは、しこりから考えられる病気と早期発見のために飼い主に知っておいて欲しい知識をご紹介します。 https://www.sbiprism.co.jp/column/column_56.html?MDV_clm ※外部サイトに遷移します ペットの健康状態をチェック!!「カルテコ」7日間無料お試し 【App Store】 【Google Play】

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 山下公園は海の広がる景色を楽しむお気に入りの場所

    【第10回】過去のがんによる痛み、苦しみさえも癒してくれた。素直な自分のままでいさせてくれる夫に「ありがとう」

    多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。  はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか?  再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか?  16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。  手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいOL生活を襲った「悪性リンパ腫」 ———25歳の時に、甲状腺のがんが再発してしまったのですか?  いいえ。甲状腺のがんとはまったく別の悪性リンパ腫という血液のがんです。21歳の時に甲状腺機能を整えるためにアイソトープ治療を行いました。体調がとてもよくなり、仕事の後のスポーツジム、スキーや海外旅行と充実した楽しい日々を送っていた頃でした。 ———病気になる前には何か前兆のようなものはありましたか?  25歳の秋に、風邪がずっと治らない感じになりました。朝は微熱があり出勤すると一日中くしゃみと空咳、鼻水が止まらず、午後2時頃になると背中に漬物石が乗ったようにだるくてたまりません。見かねた上司の勧めで耳鼻科を受診しました。初診で鼻の中に腫瘍があると診断され、すぐ大学病院での検査となりました。検査の結果、悪性リンパ腫と診断されたのです。 中華街のブティックROUROUで。明るくてきれいな色の服を着ると元気が出ます。 🍀放射線治療に続いて過酷な抗がん剤治療に耐える日々 ———いきなり悪性リンパ腫との診断、ショックだったことでしょう。治療は、手術ではなく放射線治療と化学療法(抗がん剤治療)の両方を行ったのですね。  はい。鼻の腫瘍の部分に毎日1分間程度の放射線照射を20回しました。放射線治療は午前中に放射線を照射すると、昼は食欲が減退し、午後2時くらいになるとさらに気持ちが悪くなり、ベッドで雑誌を読む事すら出来ない感じです。放射線でがんを小さくした後は、転院し自家末梢血肝細胞移植という治療法を選択しました。これは致死量に近い大量の抗がん剤を点滴で入れて癌を徹底的に叩く治療法です。抗がん剤の大量投与による吐き気は本当に激しいものでした。白血球の減少のため後半は無菌室での治療となりました。闘病中は会社時代の友人や小学校時代の友人が次々にお見舞いにきてくれました。中でも心の支えとなったのは小学校時代からの親友の存在です。いつもずっと変わらない態度で接してくれる大好きな友人です。 ———治療はどのくらい続きましたか?  1997年の10月に告知を受けてから放射線治療を受け、それが終了したのが12月末、その後抗がん剤の治療が年明けから5月末まで続きました。 ———約7ヶ月におよぶ、壮絶な治療をやっと終えられたのですね。  はい。でも実は、がんの治療を終了した時が私にとっては精神的に一番つらい時期でした。「医療的にはできることはやり尽くした。でもいつ再発するかもわからない」という不安な状態での自宅療養で、早く元気にならなければと焦っていました。そんな時、家族が言ってくれた「あなたの好きなように生きなさい」の一言。急に気持ちがラクになったことを覚えています。 🍀心の中の言葉を紡いで書いた友に捧げる闘病記 著書の「へこんでも」新潮社刊コンニャロー☆の帯が印象的。 ———闘病記はどんな風に書いていったのでしょうか?  最初は知人の勧めで書き始めました。お見舞いに来てくださった方のことを書いた私の日記、気持ちを綴っていた母の日記、治療経過を記録していた父の日記、そして医師の言葉や治療のこと。私の心の中に記録していたものを再現しながら自分の体験を物語にすることで、私は自分を取り戻していきました。もう一つ描きたかったのが、同じ病院で闘病生活を送った同年代の友人のこと。彼女は残念ながら亡くなりました。ユーモアがありいつも明るく笑い支え合っていたかけがえのない友人です。彼女がこの本の中、そして読んでくださった方の心の中でずっと生き続けてくれることを願いながら書きました。 ———つらい体験を語る闘病記でもいつも明るく元気なのはどうしてですか?  実家、多和田家での育て方がどうやら「よりよく生きる」のようなんです(笑)母や妹から「なってしまったものはしょうがない。どうせ同じ時間を過ごすなら泣いてすごすより笑って楽しく過ごそうよ」と言われます。父は言葉では何も言いませんが、その意見に賛成のようです。 🍀闘病記出版は「終わり」ではなく「始まり」 患者会の活動で友人とよく立ち寄る中華街の関帝廟で。 食べることが大好き。ここ中華街には夫婦でよく来ます。 ———闘病記からさらに患者会活動へと発展していったのはなぜでしょう。  当初は闘病記を書いて「これで終わり」と思っていたのです。でもいろいろな反響があり、「もしかしてこれが始まり?」って。いわゆる普通の女の子だった私ですが「がんになるってどんなことなのか」を皆さんにお伝えしたいと思うようになりました。闘病記を出版社の元上司に送ったことがきっかけで、現在の悪性リンパ腫の患者会グループ・ネクサスを紹介されました。 ———患者会で、多和田さんはどのような活動をしていますか?  現在、私は講演でお話をしたり、お茶会の司会のほか、本を通じて知り合ったマスコミの方などに対して患者会の広報的な仕事をしています。抗がん剤治療による美容上のお悩みのある方を対象にしたビューティ−セミナー、治療法の選択などで悩んでいる患者さんと一緒に問題を整理するお手伝いをするというスタンスで相談業務にも関わっています。 ———がんの患者会の活動をともにしているネクサスの代表 天野慎介さんと昨年ご結婚なさったのですね。おめでとうございます。  ここ横浜のホテルニューグランドは結婚式を挙げた思い出の場所です。彼は同じ悪性リンパ腫の闘病経験を持つ患者です。以前からともに活動してきました。彼が会員さんのために、事務所に仮眠用ベッドを持ち込んでまで仕事をしている姿を見て、その活動をずっとそばで支えていきたいと思いました。 横浜ホテルニューグランドは結婚式をあげた思い出の場所 🍀生きながら死に近づいていることを素直に受け入れられた ———幸せいっぱいの多和田さんですが、昨年突然小脳梗塞になられたんですね。  そうなんです。患者交流会の司会中にめまいとひどい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれました。幸い血栓を溶かす点滴治療で助かりました。歩行訓練などのリハビリを行った結果回復し、ほぼ日常生活に支障はなくなりました。 ———一番幸せな時期に、突然の病気はかなりショックだったことと思います。  そうですね。でも脳梗塞で入院した時に過去の闘病生活にはなかった安心感を抱きました。これまでももちろん家族や友達などに支えられてきました。でも本当の私はどこか孤独で「不安な気持ちは自分の中にとどめておかなければいけない」と頑張っていた。でも今回、私は何も心配せず素直な自分のままでいられたのです。それは夫がいてすごく支えてくれているから。ありがとうってあらためて口に出してはいませんが…。体調のことで落ち込む事はあったけれど、死への恐怖が今までとは違ったのです。もちろん死ぬのは怖いですよ。でも人って生きながら死へも近づいているのだなという事実を素直に受け容れられたんですね。脳梗塞になったことさえも、それだけ長く生きられた結果なんだなって…いつのまにか私の中で過去のがんの痛みや苦しみさえも癒されているということに気づいたのです。 そばにいてくれる夫に「いつもありがとう」の言葉を伝えたいです。 ———今一番したいことは何でしょうか?  彼と旅行に行ってみたいですね。25歳の時に海外旅行に行って以来、海外旅行はしていないのです。新婚旅行も行きたいな。これから彼と一緒に違った世界を見てみたいなって思います。 インフォメーション:c 悪性リンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れて、腫瘤ができる病気です。リンパ腫はリンパ節以外の部位も含めてからだのさまざまな部位に発生する場合があります。有効な治療法には、放射線療法、抗がん剤による化学療法などがあり、血液内科など血液疾患に詳しい医師による治療が勧められます。 一般社団法人 グループ・ネクサス・ジャパン悪性リンパ腫の患者会。会員約1300名。2001年設立。悪性リンパ腫の患者さんやその家族への情報と交流の場の提供と共に、疾患に関する普及啓発に努めています。調査研究や政策提言など悪性リンパ腫を取り巻く環境の改善に尽力する団体です。http://group-nexus.jp/nexus/ (撮影)多田裕美子

  • 【獣医師監修】今すぐ愛犬をチェック!~しこりから考えられる病気と対処方法~

    愛犬の体を触っていたら、「あれ?こんなところにしこりなんてあったっけ?」と気づくことがあります。もし、愛犬の体にしこり(イボ、腫瘍、できもの)がある場合、それはどんな病気の可能性があり、どんな治療が必要なのでしょうか。今回のコラムでは、しこりから考えられる病気と早期発見のために飼い主に知っておいて欲しい知識をご紹介します。 https://www.sbiprism.co.jp/column/column_56.html?MDV_clm ※外部サイトに遷移します ペットの健康状態をチェック!!「カルテコ」7日間無料お試し 【App Store】 【Google Play】

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

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    【第10回】過去のがんによる痛み、苦しみさえも癒してくれた。素直な自分のままでいさせてくれる夫に「ありがとう」

    多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。  はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか?  再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか?  16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。  手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいOL生活を襲った「悪性リンパ腫」 ———25歳の時に、甲状腺のがんが再発してしまったのですか?  いいえ。甲状腺のがんとはまったく別の悪性リンパ腫という血液のがんです。21歳の時に甲状腺機能を整えるためにアイソトープ治療を行いました。体調がとてもよくなり、仕事の後のスポーツジム、スキーや海外旅行と充実した楽しい日々を送っていた頃でした。 ———病気になる前には何か前兆のようなものはありましたか?  25歳の秋に、風邪がずっと治らない感じになりました。朝は微熱があり出勤すると一日中くしゃみと空咳、鼻水が止まらず、午後2時頃になると背中に漬物石が乗ったようにだるくてたまりません。見かねた上司の勧めで耳鼻科を受診しました。初診で鼻の中に腫瘍があると診断され、すぐ大学病院での検査となりました。検査の結果、悪性リンパ腫と診断されたのです。 中華街のブティックROUROUで。明るくてきれいな色の服を着ると元気が出ます。 🍀放射線治療に続いて過酷な抗がん剤治療に耐える日々 ———いきなり悪性リンパ腫との診断、ショックだったことでしょう。治療は、手術ではなく放射線治療と化学療法(抗がん剤治療)の両方を行ったのですね。  はい。鼻の腫瘍の部分に毎日1分間程度の放射線照射を20回しました。放射線治療は午前中に放射線を照射すると、昼は食欲が減退し、午後2時くらいになるとさらに気持ちが悪くなり、ベッドで雑誌を読む事すら出来ない感じです。放射線でがんを小さくした後は、転院し自家末梢血肝細胞移植という治療法を選択しました。これは致死量に近い大量の抗がん剤を点滴で入れて癌を徹底的に叩く治療法です。抗がん剤の大量投与による吐き気は本当に激しいものでした。白血球の減少のため後半は無菌室での治療となりました。闘病中は会社時代の友人や小学校時代の友人が次々にお見舞いにきてくれました。中でも心の支えとなったのは小学校時代からの親友の存在です。いつもずっと変わらない態度で接してくれる大好きな友人です。 ———治療はどのくらい続きましたか?  1997年の10月に告知を受けてから放射線治療を受け、それが終了したのが12月末、その後抗がん剤の治療が年明けから5月末まで続きました。 ———約7ヶ月におよぶ、壮絶な治療をやっと終えられたのですね。  はい。でも実は、がんの治療を終了した時が私にとっては精神的に一番つらい時期でした。「医療的にはできることはやり尽くした。でもいつ再発するかもわからない」という不安な状態での自宅療養で、早く元気にならなければと焦っていました。そんな時、家族が言ってくれた「あなたの好きなように生きなさい」の一言。急に気持ちがラクになったことを覚えています。 🍀心の中の言葉を紡いで書いた友に捧げる闘病記 著書の「へこんでも」新潮社刊コンニャロー☆の帯が印象的。 ———闘病記はどんな風に書いていったのでしょうか?  最初は知人の勧めで書き始めました。お見舞いに来てくださった方のことを書いた私の日記、気持ちを綴っていた母の日記、治療経過を記録していた父の日記、そして医師の言葉や治療のこと。私の心の中に記録していたものを再現しながら自分の体験を物語にすることで、私は自分を取り戻していきました。もう一つ描きたかったのが、同じ病院で闘病生活を送った同年代の友人のこと。彼女は残念ながら亡くなりました。ユーモアがありいつも明るく笑い支え合っていたかけがえのない友人です。彼女がこの本の中、そして読んでくださった方の心の中でずっと生き続けてくれることを願いながら書きました。 ———つらい体験を語る闘病記でもいつも明るく元気なのはどうしてですか?  実家、多和田家での育て方がどうやら「よりよく生きる」のようなんです(笑)母や妹から「なってしまったものはしょうがない。どうせ同じ時間を過ごすなら泣いてすごすより笑って楽しく過ごそうよ」と言われます。父は言葉では何も言いませんが、その意見に賛成のようです。 🍀闘病記出版は「終わり」ではなく「始まり」 患者会の活動で友人とよく立ち寄る中華街の関帝廟で。 食べることが大好き。ここ中華街には夫婦でよく来ます。 ———闘病記からさらに患者会活動へと発展していったのはなぜでしょう。  当初は闘病記を書いて「これで終わり」と思っていたのです。でもいろいろな反響があり、「もしかしてこれが始まり?」って。いわゆる普通の女の子だった私ですが「がんになるってどんなことなのか」を皆さんにお伝えしたいと思うようになりました。闘病記を出版社の元上司に送ったことがきっかけで、現在の悪性リンパ腫の患者会グループ・ネクサスを紹介されました。 ———患者会で、多和田さんはどのような活動をしていますか?  現在、私は講演でお話をしたり、お茶会の司会のほか、本を通じて知り合ったマスコミの方などに対して患者会の広報的な仕事をしています。抗がん剤治療による美容上のお悩みのある方を対象にしたビューティ−セミナー、治療法の選択などで悩んでいる患者さんと一緒に問題を整理するお手伝いをするというスタンスで相談業務にも関わっています。 ———がんの患者会の活動をともにしているネクサスの代表 天野慎介さんと昨年ご結婚なさったのですね。おめでとうございます。  ここ横浜のホテルニューグランドは結婚式を挙げた思い出の場所です。彼は同じ悪性リンパ腫の闘病経験を持つ患者です。以前からともに活動してきました。彼が会員さんのために、事務所に仮眠用ベッドを持ち込んでまで仕事をしている姿を見て、その活動をずっとそばで支えていきたいと思いました。 横浜ホテルニューグランドは結婚式をあげた思い出の場所 🍀生きながら死に近づいていることを素直に受け入れられた ———幸せいっぱいの多和田さんですが、昨年突然小脳梗塞になられたんですね。  そうなんです。患者交流会の司会中にめまいとひどい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれました。幸い血栓を溶かす点滴治療で助かりました。歩行訓練などのリハビリを行った結果回復し、ほぼ日常生活に支障はなくなりました。 ———一番幸せな時期に、突然の病気はかなりショックだったことと思います。  そうですね。でも脳梗塞で入院した時に過去の闘病生活にはなかった安心感を抱きました。これまでももちろん家族や友達などに支えられてきました。でも本当の私はどこか孤独で「不安な気持ちは自分の中にとどめておかなければいけない」と頑張っていた。でも今回、私は何も心配せず素直な自分のままでいられたのです。それは夫がいてすごく支えてくれているから。ありがとうってあらためて口に出してはいませんが…。体調のことで落ち込む事はあったけれど、死への恐怖が今までとは違ったのです。もちろん死ぬのは怖いですよ。でも人って生きながら死へも近づいているのだなという事実を素直に受け容れられたんですね。脳梗塞になったことさえも、それだけ長く生きられた結果なんだなって…いつのまにか私の中で過去のがんの痛みや苦しみさえも癒されているということに気づいたのです。 そばにいてくれる夫に「いつもありがとう」の言葉を伝えたいです。 ———今一番したいことは何でしょうか?  彼と旅行に行ってみたいですね。25歳の時に海外旅行に行って以来、海外旅行はしていないのです。新婚旅行も行きたいな。これから彼と一緒に違った世界を見てみたいなって思います。 インフォメーション:c 悪性リンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れて、腫瘤ができる病気です。リンパ腫はリンパ節以外の部位も含めてからだのさまざまな部位に発生する場合があります。有効な治療法には、放射線療法、抗がん剤による化学療法などがあり、血液内科など血液疾患に詳しい医師による治療が勧められます。 一般社団法人 グループ・ネクサス・ジャパン悪性リンパ腫の患者会。会員約1300名。2001年設立。悪性リンパ腫の患者さんやその家族への情報と交流の場の提供と共に、疾患に関する普及啓発に努めています。調査研究や政策提言など悪性リンパ腫を取り巻く環境の改善に尽力する団体です。http://group-nexus.jp/nexus/ (撮影)多田裕美子