【第14回】眼が見えなくなったからこそ見えてくるものもあります どんな時でも変わらずにいてくれる賑やかな家族に「ありがとう」

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武藤匠子さん
あなたがいたから頑張れた ありがとうの物語
武藤匠子さん

武藤匠子さん プロフィール

1958年生まれ 埼玉県草加市出身
32歳の時、糖尿病を発症する。48歳のある日突然、糖尿病網膜症となり一日にして視力を失う。
7年間のひきこもり生活を経て復帰。
現在は視覚障害者の患者会『虹の会』に所属。卓球、ヨガ、フォークダンス、オカリナなどを楽しむ活動的な毎日を送る。

今は安全を考えて必ずガイドヘルパーさんと外出。 見えない事を示すためにも白杖は大切な道具です。

今は安全を考えて必ずガイドヘルパーさんと外出。
見えない事を示すためにも白杖は大切な道具です。

———武藤さんは、糖尿病網膜症で眼が不自由だということですが全く見えないのでしょうか?

 はい。眼はあいているので見えていると勘違いされることもあるのですが、中心部が全く見えない中心暗点という状態です。周囲は暗いですがわずかに見えます。色は今着ているピンクのような明るい色が少し認識できる程度です。

———網膜症の原因である糖尿病を発症した経緯をお話しいただけますか?

 私が初めて糖尿病と診断されたのは32歳の時です。当時の私は14歳、13歳の娘と7歳の息子の3人の子どもを育てながら働く主婦でした。近所に両親もいて子育ては手伝ってもらい、スーパーで働いたり、車での配達など活動的に過ごしていました。実は父が糖尿病でした。疲れがひどいなと思った時、もしかしたら私も?という思いがあり受診したのです。その結果、やはり糖尿病だと診断されてしまいました。でもその時は「軽いので生活習慣に気をつけて薬を飲めば大丈夫ですよ」と言われました。実際生活習慣を変えたところすぐに体重も減り、血糖値も安定しました。このように最初に簡単にコントロールできたために、かえって糖尿病を軽く考えてしまった部分があります。その後も薬は適当に飲むという感じでした。子どもたちの受験もあり多忙な時期でしたから、自分の身体のことなんてかまいもせず、働き続けていたのです。

———糖尿病の合併症である眼の問題が起きたのはいつ頃のころですか?

 子どもたちも学校を卒業し、「これで一息かな」と思った48歳の時でした。もともと私は近眼でしたが視力が下がった感じがあり「新しい眼鏡を作らなければ」と主人と話していました。その頃夕方になると身体のむくみもありました。

🍀糖尿病網膜症の「まだ大丈夫」は「もう遅い」です。必ず眼の検診を!

———では糖尿病の影響で視力がゆっくりと低下していったわけですね?

 それが失明は突然のことなのです。その日いつものように仕事を終え車で帰宅し、夕食の支度をして主人とテレビを見ていたんです。ところがなぜかテレビがすごく見づらい、真ん中のところだけが暗いのです。有名な芸能人が出ているはずなのになぜか顔がわからない。それで「おとうさん悪いんだけど、ちょっと変な顔してみて?」と頼み、主人の顔を見たんですけど、見えないんです。「えっ!私ひょっとしたらおとうさんの顔が見えなくなっちゃったよ!」と…

武藤さんの見え方は右側の写真のように真ん中が見えない中心暗点と呼ばれる状態です。

武藤さんの見え方は右側の写真のように真ん中が見えない中心暗点と呼ばれる状態です。

———そんなに突然なんて…事故のようですね。どんなにショックだったことでしょう。

 何が起きたのかもよくわからず、翌日眼科に行きました。すると「ひどい眼底出血を起こしていますから元のように見えるようになるのはむずかしいかもしれません」とその場で宣告を受けました。レーザー治療を勧められたのでやってみましたが、私には効きませんでした。

———糖尿病の合併症を表す「しめじ」という言葉がありますね。し「神経」め「眼」じ「腎臓」に注意ということですが、眼について予防はしていなかったのですね。

 そうですね。眼にくるのなんて糖尿病の最終段階だと勝手に思っていました。もし初期から、先生が糖尿病網膜症について、定期的な眼の検査が必要だと教えてくれていたらだいぶ違ったと思うので、それは残念です。糖尿病の人にとって「まだ大丈夫」は「もう遅い」なのです。糖尿病の方は軽症でも早めに眼の定期検査を受けてください。

どんな料理がどこにあるのかを説明するのもガイドヘルパーさんの仕事。 何を食べるのかがあらかじめわかるからこそ食事の楽しさが感じられるのです。

どんな料理がどこにあるのかを説明するのもガイドヘルパーさんの仕事。
何を食べるのかがあらかじめわかるからこそ食事の楽しさが感じられるのです。

🍀見えないことを受け容れ心の回復までにかかった7年という時間

———突然失明に近い状態になられて精神的にも大変な衝撃だったと思います。

 そうですね。先生から「また眼底出血が起きるといけないのでなるべく安静な生活を」と言われたことをきっかけに、ここから約7年間のひきこもり生活が始まりました。仕事も出来ず、好きだった車の運転も、自転車も乗れない。切符も自分で買えないんです。考えることは「このままどうなるのだろう。死んじゃいたいなー」ってことばかりでした。当時初孫は5歳になっていましたが、その頃次に生まれた孫の顔が見られないこともショックでした。とにかくどうやっても見えない事にイライラするんです。唯一テレビは、中心部は見えないけど周囲が少し見えるので、毎日ぼーっとテレビばかり見ていました。

———出来る事をすべて奪われたような感じは、大変なストレスだったと思います。

 主人が休みの時に外へ連れだしてくれる事だけが楽しみでした。時々都合が悪く外出できないと「どこにも連れてってくれない!」と主人に八つ当たりしました。ところがそのうち「私が何かしたいというと、実はいろんな人に迷惑をかけるんだな。わがまま言っちゃいけないんだな」と気付いたんです。その頃から黙って留守番をするようになりました。でも時々「私なんて連れて行きたくないでしょう!そのほうがみんな楽じゃない」といじけたりしていましたね…。そんな時でも主人は一言も言い返したりしませんでした。

バスや電車に乗って、ガイドヘルパーさんと一緒にどこへでも出かけていきます。

バスや電車に乗って、ガイドヘルパーさんと一緒にどこへでも出かけていきます。

———白杖を持つようになったのはいつ頃ですか?

 見えなくなって1年後に障害者手帳を取りました。障害は2級です。初めて白杖を持った時は嬉しかったです。杖を持つ前は主人が危ないから私の腕をとって歩いてくれていたのです。でもそれを見るとからかわれるんです。「あら、いい年して仲いいね!」って。「これからは白杖があるから堂々と腕組んで歩けるね」と主人は笑っていました。

———優しいご主人ですね。でも白杖があってもご家族の介助なしでは今のように外出はできなかったのですね。

 そうなんです。でも、ひきこもって6年目あたりから、「私ってこのままじゃいけないんじゃないかな?見えなくても参加できるものがあったら行きたいなあ」と思い始めたんですね。その頃、留守番中の話し相手だった飼い犬が亡くなったことも影響していますね。今思うと当時から市の福祉課には障害者のための福祉サービスがあったわけですが、そんなことを役所に尋ねるなんて思いもよらなかったのです。

🍀同じ視覚障害者の一言から突然開いたリカバリーの扉

———今はガイドヘルパーさん(視覚障害者移動支援従業者)と一緒にどこへでも外出なさっていますが、このサービスを知るきっかけになったのは何だったのでしょう?

 ある日病院の眼科の待合室で私と看護師さんのやり取りを聞いていたらしいひとりの男性が話しかけて来たんです、それで「私は眼が見えないんです」と言ったら、「僕もですよ」というのです。それまで同じ見えない人と話した事もなかったので驚きました。その人に「私はタクシーで病院と家をやっと往復してるんです。あなたはどうやってここに来たのですか」と尋ねたら、その人は「私はいつもガイドヘルパーさんと来ますよ」というのです。そしてその場で、『虹の会』という視覚障害者患者会の会長さんに電話してくれたんですね。電話の途中で受話器を渡されました。するとその会長さんが電話の向こうで「ガイドヘルパーさんの頼み方は事業所に連絡をするんです。みんなでカラオケやお花見や旅行にもいきますよ。カラオケの歌詞はヘルパーさんに読んでもらえますよ。是非一度会にきてください」と明るく元気な声で話しかけて来たわけです。「え~っ何これ?」って本当にびっくりしました。

虹の会のメンバーとみんなで卓球後のランチを楽しみます。

虹の会のメンバーとみんなで卓球後のランチを楽しみます。

外に出る事って本当に自由で気持ちのよいこと。 ガイドヘルパーさんが歩行の誘導に加えて 景色や周囲の状況を説明してくれます。

外に出る事って本当に自由で気持ちのよいこと。
ガイドヘルパーさんが歩行の誘導に加えて
景色や周囲の状況を説明してくれます。

———すごいですね。眼科の待合室の見えない方との出会いで突然世界が開けたんですね。

 はい。当時の私はテレビで盲目の障害者が水泳で優勝したとか、登山に成功したという話を聞いて「フンっ!そんなの嘘だ、見えなきゃ何も面白いはずないじゃないの~」くらいに思っていたのです。だけど『虹の会』に入会しガイドヘルパーさんと一緒に外に出たときに、はっきりわかりました。自分が何かできる感動や喜びは眼が見えなくても皮膚とか耳とかでちゃんと感じられるということ。そして家族に負担をかけずに好きな事をする自由が戻って来た喜び。主人は何も言わないけど私が自由になったことで、彼がどんなに喜んでいるかがひしひしと伝わってきました。

———自分らしさを回復なさったのですね。今はどんな毎日なのでしょうか?

 糖尿病の体調管理のためにも運動が必要なので、フォークダンスやヨガやウォーキングもしています。『虹の会』の卓球も始めました。卓球はピンポン球の中に音の出る粒が入っているものを使います。ボールをバウンドさせて打つのではなく、ラケットに当てて台の上を転がす特別なルールの卓球です。私は少し玉が見える時がありますが、音と気配で打ち返します。結構ハードなスポーツなんですよ。

視覚障害者の卓球は専用の台で行う。ボールは打たずに転がす。音のでるボールなので見えなくても音を聞いて打つ。

視覚障害者の卓球は専用の台で行う。ボールは打たずに転がす。音のでるボールなので見えなくても音を聞いて打つ。

———運動以外にはどんなイベントがあるのですか?

 はい。季節ごとに花見やイチゴ狩りや、ぶどう狩りにも行くしコンサートや落語鑑賞などもあります。食事会や飲み会も…みんないつでも楽しい事ばっかり企画しています。中でも私が今一番頑張っているのはオカリナです。今度コンサートもあるんです。楽譜が読めないので娘が大きな字でカタカナの楽譜を書いてくれます。これを使って暗譜していきます。今オカリナを吹いていている時が1番楽しいですね。

オカリナとコカリナ。娘さんが書いてくれた楽譜でロシア民謡を練習中

オカリナとコカリナ。娘さんが書いてくれた楽譜でロシア民謡を練習中

🍀透析になる日を少しでも遅らせ活動的な時間を精一杯楽しみたい

———糖尿病のほうはいかがですか?

 1年前に腎臓の数値が悪いために透析設備のある病院に転院したほうがいいと言われて腎臓内科のある病院に通うようになりました。毎日インスリンの自己注射に加えて腎臓の薬を飲んでいます。昨年、もしも数値が急に悪くなった時にすぐ透析ができるようにと透析に必要な血管をつなぐためにシャントの手術をしました。その時に活性炭の薬を処方されたのですが、その薬が私に合ったようで、飲み始めるとすぐに数値が良くなり、透析が回避できたんです。活性炭は食後2時間後に飲むと余分な毒素を排出して腎臓の負担を減らしてくれるのです。1年間飲み続けています。とはいえ私の腎臓はもう元へは戻らないです。だから今を楽しみたいのです。日中は卓球やヨガやオカリナやいろいろな行事に参加します。娘家族と暮らしているので家事はかなり娘がしてくれますが、孫に頼まれた料理を作る事もあります。料理も昔作った物は覚えているからその通りにやれば変わらず出来ます。息子は「料理の味は見えなくてもちっとも変わらない!美味しい」って言ってくれるんですよ。

🍀いろいろなことをワイワイ話しながらみんなで囲む楽しい食卓

———とても幸せそうですね。ご家族と優しいご主人のおかげですね

 そうですね。子ども達は結婚後もみんな近所に住んでいます。そして1番感謝してるのは、やっぱり私をいつも黙って見守ってくれている主人ですね。昔から主人は物静かで何でもやってくれる人です。私のそばにいつでも「添うて」くれています。 同居している娘の家族もいろいろ厳しい文句を言いながらも助けてくれています。ウチの家族ってやっぱり普通なんですよ。私が眼が見えなくなる前と後とさほど変わっていない。いろんなことをずけずけ言い合いますよ。

———ずけずけですか?

 主人は食事中にオカズをお皿にとってくれたり細やかに私を助けてくれます。例えば焼き魚を食べていると骨をとって私のご飯の上に魚の身をのせてくれたりするんです。だけど「私はご飯に魚をのせるのは嫌い!味が混ざるからいや~」とか言いたい事を言うんです。そんなやり取りを見て娘は「どうせお母さん文句言うんだから自分でやれば~」とワイワイ。時には見えない私がちょっと失敗すると「見えないの~?」って怒るしね!面白いでしょう。誰も優しくしてくれないんですよ(笑)
 このごろ私、「見えなくてもいいのかも」って思うようになりました。見えなくなったおかげで今のガイドヘルパーさんをお願いしている事務所『フィールド』の社長とも知り合えたし、友達もたくさんできたしね。でもね私、もし透析になったら今みたいな自由はなくなるとわかっているのです。だからこそ今ね、本当に今出来る事を楽しみたいなって思うんです。

「プーさんはおとうさんに似ているでしょ」と匠子さん。 娘さん夫婦とお孫さん、ご主人に囲まれ幸せいっぱいです

「プーさんはおとうさんに似ているでしょ」と匠子さん。
娘さん夫婦とお孫さん、ご主人に囲まれ幸せいっぱいです。


インフォメーション:糖尿病網膜症

糖尿病が原因となって網膜に起こる障害をいいます。糖尿病の眼の合併症としては角膜障害、白内障などもありますが特に日本では成人の失明原因の2位となっています。糖尿病網膜症は単純網膜症、前増殖網膜症、増殖網膜症の3段階を経て進行します。さらに進行すると眼の中に新生血管が発生し、網膜剥離や硝子体出血をおこし、失明にもつながります。糖尿病網膜症はかなり病状が進行しないと自覚症状が現われて来ない事が特徴です。このため気付いた時には重症化している事が多いのです。糖尿病と診断されたら、定期的に内科を受診するだけでなく必ず眼科も定期受診する事が大切です。

ガイドヘルパー(視覚障害者移動支援従業者)
眼の不自由な方の外出や活動をお手伝いする資格をもった支援者です。

埼玉県 草加 視覚障がい者 虹の会
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/
matinonakade.html

(撮影)多田裕美子

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