ticker
ちゃんと知ろう自分のカラダ
宮田新一さん プロフィール 大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。 🍀精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病 白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。 ———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか? 左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。 ———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか? 51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。 絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」 ———重症だったのでしょうか? はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。体中管だらけで絶対安静の状態だった。 🍀奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」 ———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。 医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。 その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。 ———それで頑張ってその1年後に会社に復帰...
中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか? 発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。 はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。 はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか? 病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかっ...
宮田新一さん プロフィール 大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。 🍀精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病 白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。 ———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか? 左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。 ———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか? 51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。 絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」 ———重症だったのでしょうか? はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。体中管だらけで絶対安静の状態だった。 🍀奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」 ———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。 医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。 その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。 ———それで頑張ってその1年後に会社に復帰...
中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか? 発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。 はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。 はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか? 病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかっ...