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甲状腺がん

  • 山下公園は海の広がる景色を楽しむお気に入りの場所

    【第10回】過去のがんによる痛み、苦しみさえも癒してくれた。素直な自分のままでいさせてくれる夫に「ありがとう」

    多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。  はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか?  再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか?  16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。  手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいOL生活を襲った「悪性リンパ腫」 ———25歳の時に、甲状腺のがんが再発してしまったのですか?  いいえ。甲状腺のがんとはまったく別の悪性リンパ腫という血液のがんです。21歳の時に甲状腺機能を整えるためにアイソトープ治療を行いました。体調がとてもよくなり、仕事の後のスポーツジム、スキーや海外旅行と充実した楽しい日々を送っていた頃でした。 ———病気になる前には何か前兆のようなものはありましたか?  25歳の秋に、風邪がずっと治らない感じになりました。朝は微熱があり出勤すると一日中くしゃみと空咳、鼻水が止まらず、午後2時頃になると背中に漬物石が乗ったようにだるくてたまりません。見かねた上司の勧めで耳鼻科を受診しました。初診で鼻の中に腫瘍があると診断され、すぐ大学病院での検査となりました。検査の結果、悪性リンパ腫と診断されたのです。 中華街のブティックROUROUで。明るくてきれいな色の服を着ると元気が出ます。 🍀放射線治療に続いて過酷な抗がん剤治療に耐える日々 ———いきなり悪性リンパ腫との診断、ショックだったことでしょう。治療は、手術ではなく放射線治療と化学療法(抗がん剤治療)の両方を行ったのですね。  はい。鼻の腫瘍の部分に毎日1分間程度の放射線照射を20回しました。放射線治療は午前中に放射線を照射すると、昼は食欲が減退し、午後2時くらいになるとさらに気持ちが悪くなり、ベッドで雑誌を読む事すら出来ない感じです。放射線でがんを小さくした後は、転院し自家末梢血肝細胞移植という治療法を選択しました。これは致死量に近い大量の抗がん剤を点滴で入れて癌を徹底的に叩く治療法です。抗がん剤の大量投与による吐き気は本当に激しいものでした。白血球の減少のため後半は無菌室での治療となりました。闘病中は会社時代の友人や小学校時代の友人が次々にお見舞いにきてくれました。中でも心の支えとなったのは小学校時代からの親友の存在です。いつもずっと変わらない態度で接してくれる大好きな友人です。 ———治療はどのくらい続きましたか?  1997年の10月に告知を受けてから放射線治療を受け、それが終了したのが12月末、その後抗がん剤の治療が年明けから5月末まで続きました。 ———約7ヶ月におよぶ、壮絶な治療をやっと終えられたのですね。  はい。でも実は、がんの治療を終了した時が私にとっては精神的に一番つらい時期でした。「医療的にはできることはやり尽くした。でもいつ再発するかもわからない」という不安な状態での自宅療養で、早く元気にならなければと焦っていました。そんな時、家族が言ってくれた「あなたの好きなように生きなさい」の一言。急に気持ちがラクになったことを覚えています。 🍀心の中の言葉を紡いで書いた友に捧げる闘病記 著書の「へこんでも」新潮社刊コンニャロー☆の帯が印象的。 ———闘病記はどんな風に書いていったのでしょうか?  最初は知人の勧めで書き始めました。お見舞いに来てくださった方のことを書いた私の日記、気持ちを綴っていた母の日記、治療経過を記録していた父の日記、そして医師の言葉や治療のこと。私の心の中に記録していたものを再現しながら自分の体験を物語にすることで、私は自分を取り戻していきました。もう一つ描きたかったのが、同じ病院で闘病生活を送った同年代の友人のこと。彼女は残念ながら亡くなりました。ユーモアがありいつも明るく笑い支え合っていたかけがえのない友人です。彼女がこの本の中、そして読んでくださった方の心の中でずっと生き続けてくれることを願いながら書きました。 ———つらい体験を語る闘病記でもいつも明るく元気なのはどうしてですか?  実家、多和田家での育て方がどうやら「よりよく生きる」のようなんです(笑)母や妹から「なってしまったものはしょうがない。どうせ同じ時間を過ごすなら泣いてすごすより笑って楽しく過ごそうよ」と言われます。父は言葉では何も言いませんが、その意見に賛成のようです。 🍀闘病記出版は「終わり」ではなく「始まり」 患者会の活動で友人とよく立ち寄る中華街の関帝廟で。 食べることが大好き。ここ中華街には夫婦でよく来ます。 ———闘病記からさらに患者会活動へと発展していったのはなぜでしょう。  当初は闘病記を書いて「これで終わり」と思っていたのです。でもいろいろな反響があり、「もしかしてこれが始まり?」って。いわゆる普通の女の子だった私ですが「がんになるってどんなことなのか」を皆さんにお伝えしたいと思うようになりました。闘病記を出版社の元上司に送ったことがきっかけで、現在の悪性リンパ腫の患者会グループ・ネクサスを紹介されました。 ———患者会で、多和田さんはどのような活動をしていますか?  現在、私は講演でお話をしたり、お茶会の司会のほか、本を通じて知り合ったマスコミの方などに対して患者会の広報的な仕事をしています。抗がん剤治療による美容上のお悩みのある方を対象にしたビューティ−セミナー、治療法の選択などで悩んでいる患者さんと一緒に問題を整理するお手伝いをするというスタンスで相談業務にも関わっています。 ———がんの患者会の活動をともにしているネクサスの代表 天野慎介さんと昨年ご結婚なさったのですね。おめでとうございます。  ここ横浜のホテルニューグランドは結婚式を挙げた思い出の場所です。彼は同じ悪性リンパ腫の闘病経験を持つ患者です。以前からともに活動してきました。彼が会員さんのために、事務所に仮眠用ベッドを持ち込んでまで仕事をしている姿を見て、その活動をずっとそばで支えていきたいと思いました。 横浜ホテルニューグランドは結婚式をあげた思い出の場所 🍀生きながら死に近づいていることを素直に受け入れられた ———幸せいっぱいの多和田さんですが、昨年突然小脳梗塞になられたんですね。  そうなんです。患者交流会の司会中にめまいとひどい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれました。幸い血栓を溶かす点滴治療で助かりました。歩行訓練などのリハビリを行った結果回復し、ほぼ日常生活に支障はなくなりました。 ———一番幸せな時期に、突然の病気はかなりショックだったことと思います。  そうですね。でも脳梗塞で入院した時に過去の闘病生活にはなかった安心感を抱きました。これまでももちろん家族や友達などに支えられてきました。でも本当の私はどこか孤独で「不安な気持ちは自分の中にとどめておかなければいけない」と頑張っていた。でも今回、私は何も心配せず素直な自分のままでいられたのです。それは夫がいてすごく支えてくれているから。ありがとうってあらためて口に出してはいませんが…。体調のことで落ち込む事はあったけれど、死への恐怖が今までとは違ったのです。もちろん死ぬのは怖いですよ。でも人って生きながら死へも近づいているのだなという事実を素直に受け容れられたんですね。脳梗塞になったことさえも、それだけ長く生きられた結果なんだなって…いつのまにか私の中で過去のがんの痛みや苦しみさえも癒されているということに気づいたのです。 そばにいてくれる夫に「いつもありがとう」の言葉を伝えたいです。 ———今一番したいことは何でしょうか?  彼と旅行に行ってみたいですね。25歳の時に海外旅行に行って以来、海外旅行はしていないのです。新婚旅行も行きたいな。これから彼と一緒に違った世界を見てみたいなって思います。 インフォメーション:c 悪性リンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れて、腫瘤ができる病気です。リンパ腫はリンパ節以外の部位も含めてからだのさまざまな部位に発生する場合があります。有効な治療法には、放射線療法、抗がん剤による化学療法などがあり、血液内科など血液疾患に詳しい医師による治療が勧められます。 一般社団法人 グループ・ネクサス・ジャパン悪性リンパ腫の患者会。会員約1300名。2001年設立。悪性リンパ腫の患者さんやその家族への情報と交流の場の提供と共に、疾患に関する普及啓発に努めています。調査研究や政策提言など悪性リンパ腫を取り巻く環境の改善に尽力する団体です。http://group-nexus.jp/nexus/ (撮影)多田裕美子

  • 山下公園は海の広がる景色を楽しむお気に入りの場所

    【第10回】過去のがんによる痛み、苦しみさえも癒してくれた。素直な自分のままでいさせてくれる夫に「ありがとう」

    多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。  はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか?  再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか?  16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。  手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいOL生活を襲った「悪性リンパ腫」 ———25歳の時に、甲状腺のがんが再発してしまったのですか?  いいえ。甲状腺のがんとはまったく別の悪性リンパ腫という血液のがんです。21歳の時に甲状腺機能を整えるためにアイソトープ治療を行いました。体調がとてもよくなり、仕事の後のスポーツジム、スキーや海外旅行と充実した楽しい日々を送っていた頃でした。 ———病気になる前には何か前兆のようなものはありましたか?  25歳の秋に、風邪がずっと治らない感じになりました。朝は微熱があり出勤すると一日中くしゃみと空咳、鼻水が止まらず、午後2時頃になると背中に漬物石が乗ったようにだるくてたまりません。見かねた上司の勧めで耳鼻科を受診しました。初診で鼻の中に腫瘍があると診断され、すぐ大学病院での検査となりました。検査の結果、悪性リンパ腫と診断されたのです。 中華街のブティックROUROUで。明るくてきれいな色の服を着ると元気が出ます。 🍀放射線治療に続いて過酷な抗がん剤治療に耐える日々 ———いきなり悪性リンパ腫との診断、ショックだったことでしょう。治療は、手術ではなく放射線治療と化学療法(抗がん剤治療)の両方を行ったのですね。  はい。鼻の腫瘍の部分に毎日1分間程度の放射線照射を20回しました。放射線治療は午前中に放射線を照射すると、昼は食欲が減退し、午後2時くらいになるとさらに気持ちが悪くなり、ベッドで雑誌を読む事すら出来ない感じです。放射線でがんを小さくした後は、転院し自家末梢血肝細胞移植という治療法を選択しました。これは致死量に近い大量の抗がん剤を点滴で入れて癌を徹底的に叩く治療法です。抗がん剤の大量投与による吐き気は本当に激しいものでした。白血球の減少のため後半は無菌室での治療となりました。闘病中は会社時代の友人や小学校時代の友人が次々にお見舞いにきてくれました。中でも心の支えとなったのは小学校時代からの親友の存在です。いつもずっと変わらない態度で接してくれる大好きな友人です。 ———治療はどのくらい続きましたか?  1997年の10月に告知を受けてから放射線治療を受け、それが終了したのが12月末、その後抗がん剤の治療が年明けから5月末まで続きました。 ———約7ヶ月におよぶ、壮絶な治療をやっと終えられたのですね。  はい。でも実は、がんの治療を終了した時が私にとっては精神的に一番つらい時期でした。「医療的にはできることはやり尽くした。でもいつ再発するかもわからない」という不安な状態での自宅療養で、早く元気にならなければと焦っていました。そんな時、家族が言ってくれた「あなたの好きなように生きなさい」の一言。急に気持ちがラクになったことを覚えています。 🍀心の中の言葉を紡いで書いた友に捧げる闘病記 著書の「へこんでも」新潮社刊コンニャロー☆の帯が印象的。 ———闘病記はどんな風に書いていったのでしょうか?  最初は知人の勧めで書き始めました。お見舞いに来てくださった方のことを書いた私の日記、気持ちを綴っていた母の日記、治療経過を記録していた父の日記、そして医師の言葉や治療のこと。私の心の中に記録していたものを再現しながら自分の体験を物語にすることで、私は自分を取り戻していきました。もう一つ描きたかったのが、同じ病院で闘病生活を送った同年代の友人のこと。彼女は残念ながら亡くなりました。ユーモアがありいつも明るく笑い支え合っていたかけがえのない友人です。彼女がこの本の中、そして読んでくださった方の心の中でずっと生き続けてくれることを願いながら書きました。 ———つらい体験を語る闘病記でもいつも明るく元気なのはどうしてですか?  実家、多和田家での育て方がどうやら「よりよく生きる」のようなんです(笑)母や妹から「なってしまったものはしょうがない。どうせ同じ時間を過ごすなら泣いてすごすより笑って楽しく過ごそうよ」と言われます。父は言葉では何も言いませんが、その意見に賛成のようです。 🍀闘病記出版は「終わり」ではなく「始まり」 患者会の活動で友人とよく立ち寄る中華街の関帝廟で。 食べることが大好き。ここ中華街には夫婦でよく来ます。 ———闘病記からさらに患者会活動へと発展していったのはなぜでしょう。  当初は闘病記を書いて「これで終わり」と思っていたのです。でもいろいろな反響があり、「もしかしてこれが始まり?」って。いわゆる普通の女の子だった私ですが「がんになるってどんなことなのか」を皆さんにお伝えしたいと思うようになりました。闘病記を出版社の元上司に送ったことがきっかけで、現在の悪性リンパ腫の患者会グループ・ネクサスを紹介されました。 ———患者会で、多和田さんはどのような活動をしていますか?  現在、私は講演でお話をしたり、お茶会の司会のほか、本を通じて知り合ったマスコミの方などに対して患者会の広報的な仕事をしています。抗がん剤治療による美容上のお悩みのある方を対象にしたビューティ−セミナー、治療法の選択などで悩んでいる患者さんと一緒に問題を整理するお手伝いをするというスタンスで相談業務にも関わっています。 ———がんの患者会の活動をともにしているネクサスの代表 天野慎介さんと昨年ご結婚なさったのですね。おめでとうございます。  ここ横浜のホテルニューグランドは結婚式を挙げた思い出の場所です。彼は同じ悪性リンパ腫の闘病経験を持つ患者です。以前からともに活動してきました。彼が会員さんのために、事務所に仮眠用ベッドを持ち込んでまで仕事をしている姿を見て、その活動をずっとそばで支えていきたいと思いました。 横浜ホテルニューグランドは結婚式をあげた思い出の場所 🍀生きながら死に近づいていることを素直に受け入れられた ———幸せいっぱいの多和田さんですが、昨年突然小脳梗塞になられたんですね。  そうなんです。患者交流会の司会中にめまいとひどい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれました。幸い血栓を溶かす点滴治療で助かりました。歩行訓練などのリハビリを行った結果回復し、ほぼ日常生活に支障はなくなりました。 ———一番幸せな時期に、突然の病気はかなりショックだったことと思います。  そうですね。でも脳梗塞で入院した時に過去の闘病生活にはなかった安心感を抱きました。これまでももちろん家族や友達などに支えられてきました。でも本当の私はどこか孤独で「不安な気持ちは自分の中にとどめておかなければいけない」と頑張っていた。でも今回、私は何も心配せず素直な自分のままでいられたのです。それは夫がいてすごく支えてくれているから。ありがとうってあらためて口に出してはいませんが…。体調のことで落ち込む事はあったけれど、死への恐怖が今までとは違ったのです。もちろん死ぬのは怖いですよ。でも人って生きながら死へも近づいているのだなという事実を素直に受け容れられたんですね。脳梗塞になったことさえも、それだけ長く生きられた結果なんだなって…いつのまにか私の中で過去のがんの痛みや苦しみさえも癒されているということに気づいたのです。 そばにいてくれる夫に「いつもありがとう」の言葉を伝えたいです。 ———今一番したいことは何でしょうか?  彼と旅行に行ってみたいですね。25歳の時に海外旅行に行って以来、海外旅行はしていないのです。新婚旅行も行きたいな。これから彼と一緒に違った世界を見てみたいなって思います。 インフォメーション:c 悪性リンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れて、腫瘤ができる病気です。リンパ腫はリンパ節以外の部位も含めてからだのさまざまな部位に発生する場合があります。有効な治療法には、放射線療法、抗がん剤による化学療法などがあり、血液内科など血液疾患に詳しい医師による治療が勧められます。 一般社団法人 グループ・ネクサス・ジャパン悪性リンパ腫の患者会。会員約1300名。2001年設立。悪性リンパ腫の患者さんやその家族への情報と交流の場の提供と共に、疾患に関する普及啓発に努めています。調査研究や政策提言など悪性リンパ腫を取り巻く環境の改善に尽力する団体です。http://group-nexus.jp/nexus/ (撮影)多田裕美子