Category

ありがとうの物語

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 皮膚の状態は気候や疲れ方などその日のコンディションにより変化します

    【第15回】痒みで辛い時、落ち込んだ時、どんな時も変わらず笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。  はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。  はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか?  1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか?  季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか?  まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか?  最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。  他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか?  大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。  そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか?  アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか?  ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか?  ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか?  はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。  はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか?  きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか?  セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ  ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか?  内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか?  僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。  休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか?  これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。  ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。  やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。  アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子

  • 武藤匠子さん

    【第14回】眼が見えなくなったからこそ見えてくるものもあります どんな時でも変わらずにいてくれる賑やかな家族に「ありがとう」

    武藤匠子さん プロフィール 1958年生まれ 埼玉県草加市出身32歳の時、糖尿病を発症する。48歳のある日突然、糖尿病網膜症となり一日にして視力を失う。7年間のひきこもり生活を経て復帰。現在は視覚障害者の患者会『虹の会』に所属。卓球、ヨガ、フォークダンス、オカリナなどを楽しむ活動的な毎日を送る。 今は安全を考えて必ずガイドヘルパーさんと外出。見えない事を示すためにも白杖は大切な道具です。 ———武藤さんは、糖尿病網膜症で眼が不自由だということですが全く見えないのでしょうか?  はい。眼はあいているので見えていると勘違いされることもあるのですが、中心部が全く見えない中心暗点という状態です。周囲は暗いですがわずかに見えます。色は今着ているピンクのような明るい色が少し認識できる程度です。 ———網膜症の原因である糖尿病を発症した経緯をお話しいただけますか?  私が初めて糖尿病と診断されたのは32歳の時です。当時の私は14歳、13歳の娘と7歳の息子の3人の子どもを育てながら働く主婦でした。近所に両親もいて子育ては手伝ってもらい、スーパーで働いたり、車での配達など活動的に過ごしていました。実は父が糖尿病でした。疲れがひどいなと思った時、もしかしたら私も?という思いがあり受診したのです。その結果、やはり糖尿病だと診断されてしまいました。でもその時は「軽いので生活習慣に気をつけて薬を飲めば大丈夫ですよ」と言われました。実際生活習慣を変えたところすぐに体重も減り、血糖値も安定しました。このように最初に簡単にコントロールできたために、かえって糖尿病を軽く考えてしまった部分があります。その後も薬は適当に飲むという感じでした。子どもたちの受験もあり多忙な時期でしたから、自分の身体のことなんてかまいもせず、働き続けていたのです。 ———糖尿病の合併症である眼の問題が起きたのはいつ頃のころですか?  子どもたちも学校を卒業し、「これで一息かな」と思った48歳の時でした。もともと私は近眼でしたが視力が下がった感じがあり「新しい眼鏡を作らなければ」と主人と話していました。その頃夕方になると身体のむくみもありました。 🍀糖尿病網膜症の「まだ大丈夫」は「もう遅い」です。必ず眼の検診を! ———では糖尿病の影響で視力がゆっくりと低下していったわけですね?  それが失明は突然のことなのです。その日いつものように仕事を終え車で帰宅し、夕食の支度をして主人とテレビを見ていたんです。ところがなぜかテレビがすごく見づらい、真ん中のところだけが暗いのです。有名な芸能人が出ているはずなのになぜか顔がわからない。それで「おとうさん悪いんだけど、ちょっと変な顔してみて?」と頼み、主人の顔を見たんですけど、見えないんです。「えっ!私ひょっとしたらおとうさんの顔が見えなくなっちゃったよ!」と… 武藤さんの見え方は右側の写真のように真ん中が見えない中心暗点と呼ばれる状態です。 ———そんなに突然なんて…事故のようですね。どんなにショックだったことでしょう。  何が起きたのかもよくわからず、翌日眼科に行きました。すると「ひどい眼底出血を起こしていますから元のように見えるようになるのはむずかしいかもしれません」とその場で宣告を受けました。レーザー治療を勧められたのでやってみましたが、私には効きませんでした。 ———糖尿病の合併症を表す「しめじ」という言葉がありますね。し「神経」め「眼」じ「腎臓」に注意ということですが、眼について予防はしていなかったのですね。  そうですね。眼にくるのなんて糖尿病の最終段階だと勝手に思っていました。もし初期から、先生が糖尿病網膜症について、定期的な眼の検査が必要だと教えてくれていたらだいぶ違ったと思うので、それは残念です。糖尿病の人にとって「まだ大丈夫」は「もう遅い」なのです。糖尿病の方は軽症でも早めに眼の定期検査を受けてください。 どんな料理がどこにあるのかを説明するのもガイドヘルパーさんの仕事。何を食べるのかがあらかじめわかるからこそ食事の楽しさが感じられるのです。 🍀見えないことを受け容れ心の回復までにかかった7年という時間 ———突然失明に近い状態になられて精神的にも大変な衝撃だったと思います。  そうですね。先生から「また眼底出血が起きるといけないのでなるべく安静な生活を」と言われたことをきっかけに、ここから約7年間のひきこもり生活が始まりました。仕事も出来ず、好きだった車の運転も、自転車も乗れない。切符も自分で買えないんです。考えることは「このままどうなるのだろう。死んじゃいたいなー」ってことばかりでした。当時初孫は5歳になっていましたが、その頃次に生まれた孫の顔が見られないこともショックでした。とにかくどうやっても見えない事にイライラするんです。唯一テレビは、中心部は見えないけど周囲が少し見えるので、毎日ぼーっとテレビばかり見ていました。 ———出来る事をすべて奪われたような感じは、大変なストレスだったと思います。  主人が休みの時に外へ連れだしてくれる事だけが楽しみでした。時々都合が悪く外出できないと「どこにも連れてってくれない!」と主人に八つ当たりしました。ところがそのうち「私が何かしたいというと、実はいろんな人に迷惑をかけるんだな。わがまま言っちゃいけないんだな」と気付いたんです。その頃から黙って留守番をするようになりました。でも時々「私なんて連れて行きたくないでしょう!そのほうがみんな楽じゃない」といじけたりしていましたね…。そんな時でも主人は一言も言い返したりしませんでした。 バスや電車に乗って、ガイドヘルパーさんと一緒にどこへでも出かけていきます。 ———白杖を持つようになったのはいつ頃ですか?  見えなくなって1年後に障害者手帳を取りました。障害は2級です。初めて白杖を持った時は嬉しかったです。杖を持つ前は主人が危ないから私の腕をとって歩いてくれていたのです。でもそれを見るとからかわれるんです。「あら、いい年して仲いいね!」って。「これからは白杖があるから堂々と腕組んで歩けるね」と主人は笑っていました。 ———優しいご主人ですね。でも白杖があってもご家族の介助なしでは今のように外出はできなかったのですね。  そうなんです。でも、ひきこもって6年目あたりから、「私ってこのままじゃいけないんじゃないかな?見えなくても参加できるものがあったら行きたいなあ」と思い始めたんですね。その頃、留守番中の話し相手だった飼い犬が亡くなったことも影響していますね。今思うと当時から市の福祉課には障害者のための福祉サービスがあったわけですが、そんなことを役所に尋ねるなんて思いもよらなかったのです。 🍀同じ視覚障害者の一言から突然開いたリカバリーの扉 ———今はガイドヘルパーさん(視覚障害者移動支援従業者)と一緒にどこへでも外出なさっていますが、このサービスを知るきっかけになったのは何だったのでしょう?  ある日病院の眼科の待合室で私と看護師さんのやり取りを聞いていたらしいひとりの男性が話しかけて来たんです、それで「私は眼が見えないんです」と言ったら、「僕もですよ」というのです。それまで同じ見えない人と話した事もなかったので驚きました。その人に「私はタクシーで病院と家をやっと往復してるんです。あなたはどうやってここに来たのですか」と尋ねたら、その人は「私はいつもガイドヘルパーさんと来ますよ」というのです。そしてその場で、『虹の会』という視覚障害者患者会の会長さんに電話してくれたんですね。電話の途中で受話器を渡されました。するとその会長さんが電話の向こうで「ガイドヘルパーさんの頼み方は事業所に連絡をするんです。みんなでカラオケやお花見や旅行にもいきますよ。カラオケの歌詞はヘルパーさんに読んでもらえますよ。是非一度会にきてください」と明るく元気な声で話しかけて来たわけです。「え~っ何これ?」って本当にびっくりしました。 虹の会のメンバーとみんなで卓球後のランチを楽しみます。 外に出る事って本当に自由で気持ちのよいこと。ガイドヘルパーさんが歩行の誘導に加えて景色や周囲の状況を説明してくれます。 ———すごいですね。眼科の待合室の見えない方との出会いで突然世界が開けたんですね。  はい。当時の私はテレビで盲目の障害者が水泳で優勝したとか、登山に成功したという話を聞いて「フンっ!そんなの嘘だ、見えなきゃ何も面白いはずないじゃないの~」くらいに思っていたのです。だけど『虹の会』に入会しガイドヘルパーさんと一緒に外に出たときに、はっきりわかりました。自分が何かできる感動や喜びは眼が見えなくても皮膚とか耳とかでちゃんと感じられるということ。そして家族に負担をかけずに好きな事をする自由が戻って来た喜び。主人は何も言わないけど私が自由になったことで、彼がどんなに喜んでいるかがひしひしと伝わってきました。 ———自分らしさを回復なさったのですね。今はどんな毎日なのでしょうか?  糖尿病の体調管理のためにも運動が必要なので、フォークダンスやヨガやウォーキングもしています。『虹の会』の卓球も始めました。卓球はピンポン球の中に音の出る粒が入っているものを使います。ボールをバウンドさせて打つのではなく、ラケットに当てて台の上を転がす特別なルールの卓球です。私は少し玉が見える時がありますが、音と気配で打ち返します。結構ハードなスポーツなんですよ。 視覚障害者の卓球は専用の台で行う。ボールは打たずに転がす。音のでるボールなので見えなくても音を聞いて打つ。 ———運動以外にはどんなイベントがあるのですか?  はい。季節ごとに花見やイチゴ狩りや、ぶどう狩りにも行くしコンサートや落語鑑賞などもあります。食事会や飲み会も…みんないつでも楽しい事ばっかり企画しています。中でも私が今一番頑張っているのはオカリナです。今度コンサートもあるんです。楽譜が読めないので娘が大きな字でカタカナの楽譜を書いてくれます。これを使って暗譜していきます。今オカリナを吹いていている時が1番楽しいですね。 オカリナとコカリナ。娘さんが書いてくれた楽譜でロシア民謡を練習中 🍀透析になる日を少しでも遅らせ活動的な時間を精一杯楽しみたい ———糖尿病のほうはいかがですか?  1年前に腎臓の数値が悪いために透析設備のある病院に転院したほうがいいと言われて腎臓内科のある病院に通うようになりました。毎日インスリンの自己注射に加えて腎臓の薬を飲んでいます。昨年、もしも数値が急に悪くなった時にすぐ透析ができるようにと透析に必要な血管をつなぐためにシャントの手術をしました。その時に活性炭の薬を処方されたのですが、その薬が私に合ったようで、飲み始めるとすぐに数値が良くなり、透析が回避できたんです。活性炭は食後2時間後に飲むと余分な毒素を排出して腎臓の負担を減らしてくれるのです。1年間飲み続けています。とはいえ私の腎臓はもう元へは戻らないです。だから今を楽しみたいのです。日中は卓球やヨガやオカリナやいろいろな行事に参加します。娘家族と暮らしているので家事はかなり娘がしてくれますが、孫に頼まれた料理を作る事もあります。料理も昔作った物は覚えているからその通りにやれば変わらず出来ます。息子は「料理の味は見えなくてもちっとも変わらない!美味しい」って言ってくれるんですよ。 🍀いろいろなことをワイワイ話しながらみんなで囲む楽しい食卓 ———とても幸せそうですね。ご家族と優しいご主人のおかげですね  そうですね。子ども達は結婚後もみんな近所に住んでいます。そして1番感謝してるのは、やっぱり私をいつも黙って見守ってくれている主人ですね。昔から主人は物静かで何でもやってくれる人です。私のそばにいつでも「添うて」くれています。 同居している娘の家族もいろいろ厳しい文句を言いながらも助けてくれています。ウチの家族ってやっぱり普通なんですよ。私が眼が見えなくなる前と後とさほど変わっていない。いろんなことをずけずけ言い合いますよ。 ———ずけずけですか?  主人は食事中にオカズをお皿にとってくれたり細やかに私を助けてくれます。例えば焼き魚を食べていると骨をとって私のご飯の上に魚の身をのせてくれたりするんです。だけど「私はご飯に魚をのせるのは嫌い!味が混ざるからいや~」とか言いたい事を言うんです。そんなやり取りを見て娘は「どうせお母さん文句言うんだから自分でやれば~」とワイワイ。時には見えない私がちょっと失敗すると「見えないの~?」って怒るしね!面白いでしょう。誰も優しくしてくれないんですよ(笑) このごろ私、「見えなくてもいいのかも」って思うようになりました。見えなくなったおかげで今のガイドヘルパーさんをお願いしている事務所『フィールド』の社長とも知り合えたし、友達もたくさんできたしね。でもね私、もし透析になったら今みたいな自由はなくなるとわかっているのです。だからこそ今ね、本当に今出来る事を楽しみたいなって思うんです。 「プーさんはおとうさんに似ているでしょ」と匠子さん。娘さん夫婦とお孫さん、ご主人に囲まれ幸せいっぱいです。 インフォメーション:糖尿病網膜症 糖尿病が原因となって網膜に起こる障害をいいます。糖尿病の眼の合併症としては角膜障害、白内障などもありますが特に日本では成人の失明原因の2位となっています。糖尿病網膜症は単純網膜症、前増殖網膜症、増殖網膜症の3段階を経て進行します。さらに進行すると眼の中に新生血管が発生し、網膜剥離や硝子体出血をおこし、失明にもつながります。糖尿病網膜症はかなり病状が進行しないと自覚症状が現われて来ない事が特徴です。このため気付いた時には重症化している事が多いのです。糖尿病と診断されたら、定期的に内科を受診するだけでなく必ず眼科も定期受診する事が大切です。 ガイドヘルパー(視覚障害者移動支援従業者)眼の不自由な方の外出や活動をお手伝いする資格をもった支援者です。 埼玉県 草加 視覚障がい者 虹の会http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/matinonakade.html (撮影)多田裕美子

  • 元の職場に復帰して経理を担当。会社で仲間と一緒にいることを改めて楽しいと感じる毎日

    【第13回】つらい時も元気な時もいつも笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか?  発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。  はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。  はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか?  病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかったと思いますが、特に健康診断で引っかかったり何かの病名がついていると言うことはなかったです。 🍀予兆だったかもしれない前日の熱中症のような症状 ———発症する前後に何か予兆のようなものはありましたか?  特に身体に感じる異変というのはなかったと思います。ただ2年前の夏もとても暑い日が続いていて、当時会社では機材倉庫の物件を探していました。経理部としても下見が必要ということで、倒れる前日に炎天下の猛暑の中、江東区辰巳の倉庫街に行き、そこで道に迷ってしまい長時間外を歩き周りました。その時すでに、熱中症っぽい感じがあったのかもしれません。倒れた当日の朝は、妻の話によると、出掛けにいつになく機嫌が悪かったそうです。 ———熱中症にも気をつけないといけないですね。倒れてから救急車に乗っている時は、意識はあったのですか?  よく覚えていませんが、誰かにずっと名前を呼ばれていた気がします。次に気がついた時には病院のベッドの上でした。すぐMRIを撮ってもらい集中治療室みたいな部屋に入りました。駆けつけた妻の顔を見て「俺倒れたの?」と不思議そうに何回も聞いたそうです。 ———直接の原因は咳こんだことだったのでしょうか?  はい。特に血圧やコレステロールの治療をしていたわけではないですが、やはりタバコも吸っていましたし、実は父や妹も心臓の不整脈があるんですね。だから遺伝的には不整脈になる傾向があったのではと思っています。不整脈があると心臓の中に血の固まりが出来やすいらしいです。それが血管の中ではがれて脳の動脈の方に流れていって、そのせいで、脳の血管がつまってしまうことがあるそうです。私の場合、咳が出た瞬間にその衝撃で血管の中の固まりがはがれ、右側の脳に詰まった様子です。 🍀早期治療のあとに早めに開始したリハビリ訓練 ———かなり治療が早かったので後遺症も少なくてよかったですね。  はい。その血栓を溶かす薬を点滴で入れて翌日には集中治療室みたいな部屋から出て一般病棟へ移ることができました。結局意識が回復してからリハビリをしながら7月29日まで、約2週間ちょっと虎ノ門病院に入院していました。 ———最初はどんなリハビリをしたのでしょうか?  最初は車椅子に乗りかなりぼーっとした感じでした。看護師さんが私にしょっちゅう「お名前を言って下さい」「今どこにいますか」と聞くのです。それから紐を両手でピンっと張って目の前に見せられ、真ん中をつまんでくださいと言われるんですね。簡単なことのはずなのにそれがあんまりできていなかったです。血栓が詰まった場所が右側で、反対の左側に影響がありました。左目が見えていない感じがあり、看護師さんに左の足をつねられてもあまり痛くなかった。妻に後から聞いたのですが両腕を前に上げるように言われ支えてもらっても、左手だけはすぐふにゃーっと下に降りてしまっていた。歩いている時でも、左側の距離感などが掴めないので、すぐ人とぶつかってしまいそうな感じでかなり危なそうに見えていたようです。 🍀深刻に考え過ぎずにありのままを受け容れる 「つい心配になって身の回りのことを手伝ってしまうんです」と妻の悦子さん ———最初は左半身が麻痺するのではないかと不安な状況だったと思いますが。  そうですね。僕は短気なところがあるので少しイライラはしていました。でもその一方で置かれた状況はそのまま受け容れるほうなんですね。いつ退院できるのかは気になったし、「これからどうなるんだろう?」という不安はありました。闘病中にうつっぽくなってしまう人も少なくないそうです。でも僕は、「あーっできないことが多すぎるな、これはあまり真剣に考えてもしょうがない」って感じでした。 ———その後2週間あまりで別のリハビリ病院に転院したわけですね。  20日後の7月29日に墨田区の東京都リハビリテーション病院に転院となりました。ここで最初の3週間ぐらいは車椅子だったんですが、じょじょに車いすから歩行器みたいなものになり、杖になり、なんとか歩けるようになってきました。歩行訓練のほか理学療法などをやりました。周囲の患者さんの中には自主的にリハビリにすごく時間をかけ頑張る人もいましたが、僕は回復が比較的順調だという思いもあり、決められたプログラムに従い後はのんびりテレビを見たりして過ごしていました。その頃から左側の感覚もかなり戻ってきました。早めに処置をしたことがよかったと思いますし、早くから言葉の練習などをしたことも、今思うとよかったのだろうなと思います。 🍀酒席の回数が減って増えた妻と過ごす時間 地元両国国技館前で妻との散歩を楽しみます 両国の安田庭園は日本庭園が美しい静かな散策コース ———結局、後遺症のようなものは残らずにすんだのでしょうか?  大きな後遺症はないですが左足の違和感は今も続いています。このため歩くのは結構疲れます。またそのために自転車のペダルが左足でこげなくなり、自転車はもう乗れない感じですね。自転車であちこちに行くのが好きだったので、これは残念です。また左足は靴が上手く履けないので妻に手伝ってもらっていますし、ズボンのベルト通しなども左側がやりにくいので手伝ってもらうことが多いです。細かく見るといろいろ出来なくなったことがあるのですが、まあそこはあまり深刻に考えないようにしています ———病院を退院なさって何か生活に変化はありましたか?  リハビリテーション病院には約5ヶ月間いました。この間、病院ではタバコが吸えないので必然的に禁煙しました。それまで何回か禁煙パッチを貼ったりしてトライしても出来なかったのですが、あれを機会にタバコは自然にやめる事になりました。以前はお酒も誘われれば朝まで飲むようなことがあったのですが、飲みに行く頻度も減りました。会社の帰りには、仕事をしている妻と駅で待ち合わせをして、食事したり一緒に家に帰ることが増えました。 ———再発予防のためにいろいろ努力していらっしゃるのですね。  うーん。といっても努力のしようもないというか…病院で知り合った方の中には脳梗塞を二度三度と再発している方もおられるんですね。院内の食堂などでご一緒した時に、いろいろなお話を伺ったのですが、具体的に何をしたら再発しないのかはよくわからないんです。私自身はお酒も減らしていますが、運動などももっとしたほうがいいのでしょうが…。左足の調子が悪いので疲れやすく運動もそんなにできないですね。「再発が怖い」という漠然としたイメージだけは持っていますが、運動や減量を継続することはなかなか難しいですね。 🍀仕事も趣味も当たり前に続けられる幸せ ———勤務のほうはどのようにしていますか?  退院後に会社からは「週3日間勤務で復帰」という条件で声をかけてもらいました。このため契約上の勤務は週3日間ですが、あと2日間は自分の希望で出ていますので会社には週5日9時~5時に出社しています。退院した時点で、左足が少し不自由な意外は前と変わっていないんです。病院でも最初は自宅療養をと言われたのですが、実は家にいてもすることがないんですね。僕、家事は苦手でまったくできないし…。妻もフルタイムで働いていますから、家に僕を1人残しているほうが「かえって心配!」というのが妻の本音のようでした。僕も自宅に1人でいるよりは会社にいてみんなと話すのが好きですしね。ただ年齢的にはもう、財務の交渉ごとの現場にいる歳ではないので、仕事はできるだけ若い人に引き継いでいくようにと意識しています。 ———以前と同じようにゴルフや釣りなどの趣味も再開されているそうですね。  はい。地元墨田区両国の町内会の人たちとは親しくしています。それで一緒に楽しく気兼ねなくいろいろな遊びを続けています。ゴルフは病気になる前も上手だったわけではないのですが、病気の後は身体の感覚が変わってボールがクラブによくあたりません。でもいいんです。スコアより皆とわいわい行くのが楽しいんです。 町内会のみんなとワイワイ笑顔でゴルフをするのが楽しい ———病気の体験を振り返ってどんな事を思いますか?  あの経験以来、妻と話し合って、もしどこかでお互いに何かあった時には、すぐ連絡がつくように工夫しています。携帯電話の連絡先には名前の後に(妻)(夫)などを書き入れましたし、自分や家族の連絡先がわかる名刺やメモを財布の中にいつも入れるようにしています。こんな風に備えるのは大切だと思うのです。ただ「この先どうなるのか?」とか、わからないことをあまり考え込んだりはしないようにしているんです。2年前の出来事は幸い倒れた場所が会社で、後遺症も少なかったことは本当によかったと思うのです。そして今、仕事も趣味もほとんど元通りの生活ができているのは、やはり支えてくれた妻のおかげです。退院後は妻との時間を以前より大切にするようになりましたね。会社も復帰の時に快く受け容れてくれたし、大変な経験でしたがいろいろなことが本当にラッキーだったなと思っています。妻には家事や身の回りのことだけでなく気持ちの面でもいつも支えてもらっています。実は「ありがとう」なんて言ったことはないですけど、心の中でいつも感謝しています。 インフォメーション:脳梗塞 脳卒中は脳に血液が流れなくなることにより脳の神経細胞が壊死し、障害が起きる病気全般を示します。「脳梗塞」は「脳出血」、「くも膜下出血」、「一過性脳虚血発作」などとともにこの脳卒中の原因とされる病気の1つで、脳の血管に血栓という固まりが詰まっておこる状態です。脳梗塞が起きた場には、右半身か左半身のいずれかに運動麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりします。治療後も後遺症が残ることも多く、日常生活に手助けが必要になることも少なくありません。もし、脳梗塞が疑われる症状が起きたら、直ちに救急車で脳卒中専門の病院を受診しましょう。病院では、脳梗塞が起こってから4~5時間以内に血栓(血のかたまり)を溶かす血栓溶解療法により血管の詰まりの改善を目指します。また早期のリハビリも有効です。再発防止のためには血液をサラサラにするお薬で血栓をできにくくする治療法もあります。 脳梗塞を避けるには、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの危険因子をしっかり管理し、禁煙や体重管理、運動など生活習慣の改善が大切です。また日常から充分な水分補給をすることが重要です。水分補給により脱水症状が緩和され、血流もよくなります。 (撮影)多田裕美子

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 皮膚の状態は気候や疲れ方などその日のコンディションにより変化します

    【第15回】痒みで辛い時、落ち込んだ時、どんな時も変わらず笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。  はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。  はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか?  1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか?  季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか?  まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか?  最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。  他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか?  大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。  そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか?  アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか?  ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか?  ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか?  はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。  はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか?  きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか?  セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ  ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか?  内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか?  僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。  休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか?  これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。  ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。  やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。  アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子

  • 武藤匠子さん

    【第14回】眼が見えなくなったからこそ見えてくるものもあります どんな時でも変わらずにいてくれる賑やかな家族に「ありがとう」

    武藤匠子さん プロフィール 1958年生まれ 埼玉県草加市出身32歳の時、糖尿病を発症する。48歳のある日突然、糖尿病網膜症となり一日にして視力を失う。7年間のひきこもり生活を経て復帰。現在は視覚障害者の患者会『虹の会』に所属。卓球、ヨガ、フォークダンス、オカリナなどを楽しむ活動的な毎日を送る。 今は安全を考えて必ずガイドヘルパーさんと外出。見えない事を示すためにも白杖は大切な道具です。 ———武藤さんは、糖尿病網膜症で眼が不自由だということですが全く見えないのでしょうか?  はい。眼はあいているので見えていると勘違いされることもあるのですが、中心部が全く見えない中心暗点という状態です。周囲は暗いですがわずかに見えます。色は今着ているピンクのような明るい色が少し認識できる程度です。 ———網膜症の原因である糖尿病を発症した経緯をお話しいただけますか?  私が初めて糖尿病と診断されたのは32歳の時です。当時の私は14歳、13歳の娘と7歳の息子の3人の子どもを育てながら働く主婦でした。近所に両親もいて子育ては手伝ってもらい、スーパーで働いたり、車での配達など活動的に過ごしていました。実は父が糖尿病でした。疲れがひどいなと思った時、もしかしたら私も?という思いがあり受診したのです。その結果、やはり糖尿病だと診断されてしまいました。でもその時は「軽いので生活習慣に気をつけて薬を飲めば大丈夫ですよ」と言われました。実際生活習慣を変えたところすぐに体重も減り、血糖値も安定しました。このように最初に簡単にコントロールできたために、かえって糖尿病を軽く考えてしまった部分があります。その後も薬は適当に飲むという感じでした。子どもたちの受験もあり多忙な時期でしたから、自分の身体のことなんてかまいもせず、働き続けていたのです。 ———糖尿病の合併症である眼の問題が起きたのはいつ頃のころですか?  子どもたちも学校を卒業し、「これで一息かな」と思った48歳の時でした。もともと私は近眼でしたが視力が下がった感じがあり「新しい眼鏡を作らなければ」と主人と話していました。その頃夕方になると身体のむくみもありました。 🍀糖尿病網膜症の「まだ大丈夫」は「もう遅い」です。必ず眼の検診を! ———では糖尿病の影響で視力がゆっくりと低下していったわけですね?  それが失明は突然のことなのです。その日いつものように仕事を終え車で帰宅し、夕食の支度をして主人とテレビを見ていたんです。ところがなぜかテレビがすごく見づらい、真ん中のところだけが暗いのです。有名な芸能人が出ているはずなのになぜか顔がわからない。それで「おとうさん悪いんだけど、ちょっと変な顔してみて?」と頼み、主人の顔を見たんですけど、見えないんです。「えっ!私ひょっとしたらおとうさんの顔が見えなくなっちゃったよ!」と… 武藤さんの見え方は右側の写真のように真ん中が見えない中心暗点と呼ばれる状態です。 ———そんなに突然なんて…事故のようですね。どんなにショックだったことでしょう。  何が起きたのかもよくわからず、翌日眼科に行きました。すると「ひどい眼底出血を起こしていますから元のように見えるようになるのはむずかしいかもしれません」とその場で宣告を受けました。レーザー治療を勧められたのでやってみましたが、私には効きませんでした。 ———糖尿病の合併症を表す「しめじ」という言葉がありますね。し「神経」め「眼」じ「腎臓」に注意ということですが、眼について予防はしていなかったのですね。  そうですね。眼にくるのなんて糖尿病の最終段階だと勝手に思っていました。もし初期から、先生が糖尿病網膜症について、定期的な眼の検査が必要だと教えてくれていたらだいぶ違ったと思うので、それは残念です。糖尿病の人にとって「まだ大丈夫」は「もう遅い」なのです。糖尿病の方は軽症でも早めに眼の定期検査を受けてください。 どんな料理がどこにあるのかを説明するのもガイドヘルパーさんの仕事。何を食べるのかがあらかじめわかるからこそ食事の楽しさが感じられるのです。 🍀見えないことを受け容れ心の回復までにかかった7年という時間 ———突然失明に近い状態になられて精神的にも大変な衝撃だったと思います。  そうですね。先生から「また眼底出血が起きるといけないのでなるべく安静な生活を」と言われたことをきっかけに、ここから約7年間のひきこもり生活が始まりました。仕事も出来ず、好きだった車の運転も、自転車も乗れない。切符も自分で買えないんです。考えることは「このままどうなるのだろう。死んじゃいたいなー」ってことばかりでした。当時初孫は5歳になっていましたが、その頃次に生まれた孫の顔が見られないこともショックでした。とにかくどうやっても見えない事にイライラするんです。唯一テレビは、中心部は見えないけど周囲が少し見えるので、毎日ぼーっとテレビばかり見ていました。 ———出来る事をすべて奪われたような感じは、大変なストレスだったと思います。  主人が休みの時に外へ連れだしてくれる事だけが楽しみでした。時々都合が悪く外出できないと「どこにも連れてってくれない!」と主人に八つ当たりしました。ところがそのうち「私が何かしたいというと、実はいろんな人に迷惑をかけるんだな。わがまま言っちゃいけないんだな」と気付いたんです。その頃から黙って留守番をするようになりました。でも時々「私なんて連れて行きたくないでしょう!そのほうがみんな楽じゃない」といじけたりしていましたね…。そんな時でも主人は一言も言い返したりしませんでした。 バスや電車に乗って、ガイドヘルパーさんと一緒にどこへでも出かけていきます。 ———白杖を持つようになったのはいつ頃ですか?  見えなくなって1年後に障害者手帳を取りました。障害は2級です。初めて白杖を持った時は嬉しかったです。杖を持つ前は主人が危ないから私の腕をとって歩いてくれていたのです。でもそれを見るとからかわれるんです。「あら、いい年して仲いいね!」って。「これからは白杖があるから堂々と腕組んで歩けるね」と主人は笑っていました。 ———優しいご主人ですね。でも白杖があってもご家族の介助なしでは今のように外出はできなかったのですね。  そうなんです。でも、ひきこもって6年目あたりから、「私ってこのままじゃいけないんじゃないかな?見えなくても参加できるものがあったら行きたいなあ」と思い始めたんですね。その頃、留守番中の話し相手だった飼い犬が亡くなったことも影響していますね。今思うと当時から市の福祉課には障害者のための福祉サービスがあったわけですが、そんなことを役所に尋ねるなんて思いもよらなかったのです。 🍀同じ視覚障害者の一言から突然開いたリカバリーの扉 ———今はガイドヘルパーさん(視覚障害者移動支援従業者)と一緒にどこへでも外出なさっていますが、このサービスを知るきっかけになったのは何だったのでしょう?  ある日病院の眼科の待合室で私と看護師さんのやり取りを聞いていたらしいひとりの男性が話しかけて来たんです、それで「私は眼が見えないんです」と言ったら、「僕もですよ」というのです。それまで同じ見えない人と話した事もなかったので驚きました。その人に「私はタクシーで病院と家をやっと往復してるんです。あなたはどうやってここに来たのですか」と尋ねたら、その人は「私はいつもガイドヘルパーさんと来ますよ」というのです。そしてその場で、『虹の会』という視覚障害者患者会の会長さんに電話してくれたんですね。電話の途中で受話器を渡されました。するとその会長さんが電話の向こうで「ガイドヘルパーさんの頼み方は事業所に連絡をするんです。みんなでカラオケやお花見や旅行にもいきますよ。カラオケの歌詞はヘルパーさんに読んでもらえますよ。是非一度会にきてください」と明るく元気な声で話しかけて来たわけです。「え~っ何これ?」って本当にびっくりしました。 虹の会のメンバーとみんなで卓球後のランチを楽しみます。 外に出る事って本当に自由で気持ちのよいこと。ガイドヘルパーさんが歩行の誘導に加えて景色や周囲の状況を説明してくれます。 ———すごいですね。眼科の待合室の見えない方との出会いで突然世界が開けたんですね。  はい。当時の私はテレビで盲目の障害者が水泳で優勝したとか、登山に成功したという話を聞いて「フンっ!そんなの嘘だ、見えなきゃ何も面白いはずないじゃないの~」くらいに思っていたのです。だけど『虹の会』に入会しガイドヘルパーさんと一緒に外に出たときに、はっきりわかりました。自分が何かできる感動や喜びは眼が見えなくても皮膚とか耳とかでちゃんと感じられるということ。そして家族に負担をかけずに好きな事をする自由が戻って来た喜び。主人は何も言わないけど私が自由になったことで、彼がどんなに喜んでいるかがひしひしと伝わってきました。 ———自分らしさを回復なさったのですね。今はどんな毎日なのでしょうか?  糖尿病の体調管理のためにも運動が必要なので、フォークダンスやヨガやウォーキングもしています。『虹の会』の卓球も始めました。卓球はピンポン球の中に音の出る粒が入っているものを使います。ボールをバウンドさせて打つのではなく、ラケットに当てて台の上を転がす特別なルールの卓球です。私は少し玉が見える時がありますが、音と気配で打ち返します。結構ハードなスポーツなんですよ。 視覚障害者の卓球は専用の台で行う。ボールは打たずに転がす。音のでるボールなので見えなくても音を聞いて打つ。 ———運動以外にはどんなイベントがあるのですか?  はい。季節ごとに花見やイチゴ狩りや、ぶどう狩りにも行くしコンサートや落語鑑賞などもあります。食事会や飲み会も…みんないつでも楽しい事ばっかり企画しています。中でも私が今一番頑張っているのはオカリナです。今度コンサートもあるんです。楽譜が読めないので娘が大きな字でカタカナの楽譜を書いてくれます。これを使って暗譜していきます。今オカリナを吹いていている時が1番楽しいですね。 オカリナとコカリナ。娘さんが書いてくれた楽譜でロシア民謡を練習中 🍀透析になる日を少しでも遅らせ活動的な時間を精一杯楽しみたい ———糖尿病のほうはいかがですか?  1年前に腎臓の数値が悪いために透析設備のある病院に転院したほうがいいと言われて腎臓内科のある病院に通うようになりました。毎日インスリンの自己注射に加えて腎臓の薬を飲んでいます。昨年、もしも数値が急に悪くなった時にすぐ透析ができるようにと透析に必要な血管をつなぐためにシャントの手術をしました。その時に活性炭の薬を処方されたのですが、その薬が私に合ったようで、飲み始めるとすぐに数値が良くなり、透析が回避できたんです。活性炭は食後2時間後に飲むと余分な毒素を排出して腎臓の負担を減らしてくれるのです。1年間飲み続けています。とはいえ私の腎臓はもう元へは戻らないです。だから今を楽しみたいのです。日中は卓球やヨガやオカリナやいろいろな行事に参加します。娘家族と暮らしているので家事はかなり娘がしてくれますが、孫に頼まれた料理を作る事もあります。料理も昔作った物は覚えているからその通りにやれば変わらず出来ます。息子は「料理の味は見えなくてもちっとも変わらない!美味しい」って言ってくれるんですよ。 🍀いろいろなことをワイワイ話しながらみんなで囲む楽しい食卓 ———とても幸せそうですね。ご家族と優しいご主人のおかげですね  そうですね。子ども達は結婚後もみんな近所に住んでいます。そして1番感謝してるのは、やっぱり私をいつも黙って見守ってくれている主人ですね。昔から主人は物静かで何でもやってくれる人です。私のそばにいつでも「添うて」くれています。 同居している娘の家族もいろいろ厳しい文句を言いながらも助けてくれています。ウチの家族ってやっぱり普通なんですよ。私が眼が見えなくなる前と後とさほど変わっていない。いろんなことをずけずけ言い合いますよ。 ———ずけずけですか?  主人は食事中にオカズをお皿にとってくれたり細やかに私を助けてくれます。例えば焼き魚を食べていると骨をとって私のご飯の上に魚の身をのせてくれたりするんです。だけど「私はご飯に魚をのせるのは嫌い!味が混ざるからいや~」とか言いたい事を言うんです。そんなやり取りを見て娘は「どうせお母さん文句言うんだから自分でやれば~」とワイワイ。時には見えない私がちょっと失敗すると「見えないの~?」って怒るしね!面白いでしょう。誰も優しくしてくれないんですよ(笑) このごろ私、「見えなくてもいいのかも」って思うようになりました。見えなくなったおかげで今のガイドヘルパーさんをお願いしている事務所『フィールド』の社長とも知り合えたし、友達もたくさんできたしね。でもね私、もし透析になったら今みたいな自由はなくなるとわかっているのです。だからこそ今ね、本当に今出来る事を楽しみたいなって思うんです。 「プーさんはおとうさんに似ているでしょ」と匠子さん。娘さん夫婦とお孫さん、ご主人に囲まれ幸せいっぱいです。 インフォメーション:糖尿病網膜症 糖尿病が原因となって網膜に起こる障害をいいます。糖尿病の眼の合併症としては角膜障害、白内障などもありますが特に日本では成人の失明原因の2位となっています。糖尿病網膜症は単純網膜症、前増殖網膜症、増殖網膜症の3段階を経て進行します。さらに進行すると眼の中に新生血管が発生し、網膜剥離や硝子体出血をおこし、失明にもつながります。糖尿病網膜症はかなり病状が進行しないと自覚症状が現われて来ない事が特徴です。このため気付いた時には重症化している事が多いのです。糖尿病と診断されたら、定期的に内科を受診するだけでなく必ず眼科も定期受診する事が大切です。 ガイドヘルパー(視覚障害者移動支援従業者)眼の不自由な方の外出や活動をお手伝いする資格をもった支援者です。 埼玉県 草加 視覚障がい者 虹の会http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/matinonakade.html (撮影)多田裕美子

  • 元の職場に復帰して経理を担当。会社で仲間と一緒にいることを改めて楽しいと感じる毎日

    【第13回】つらい時も元気な時もいつも笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか?  発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。  はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。  はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか?  病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかったと思いますが、特に健康診断で引っかかったり何かの病名がついていると言うことはなかったです。 🍀予兆だったかもしれない前日の熱中症のような症状 ———発症する前後に何か予兆のようなものはありましたか?  特に身体に感じる異変というのはなかったと思います。ただ2年前の夏もとても暑い日が続いていて、当時会社では機材倉庫の物件を探していました。経理部としても下見が必要ということで、倒れる前日に炎天下の猛暑の中、江東区辰巳の倉庫街に行き、そこで道に迷ってしまい長時間外を歩き周りました。その時すでに、熱中症っぽい感じがあったのかもしれません。倒れた当日の朝は、妻の話によると、出掛けにいつになく機嫌が悪かったそうです。 ———熱中症にも気をつけないといけないですね。倒れてから救急車に乗っている時は、意識はあったのですか?  よく覚えていませんが、誰かにずっと名前を呼ばれていた気がします。次に気がついた時には病院のベッドの上でした。すぐMRIを撮ってもらい集中治療室みたいな部屋に入りました。駆けつけた妻の顔を見て「俺倒れたの?」と不思議そうに何回も聞いたそうです。 ———直接の原因は咳こんだことだったのでしょうか?  はい。特に血圧やコレステロールの治療をしていたわけではないですが、やはりタバコも吸っていましたし、実は父や妹も心臓の不整脈があるんですね。だから遺伝的には不整脈になる傾向があったのではと思っています。不整脈があると心臓の中に血の固まりが出来やすいらしいです。それが血管の中ではがれて脳の動脈の方に流れていって、そのせいで、脳の血管がつまってしまうことがあるそうです。私の場合、咳が出た瞬間にその衝撃で血管の中の固まりがはがれ、右側の脳に詰まった様子です。 🍀早期治療のあとに早めに開始したリハビリ訓練 ———かなり治療が早かったので後遺症も少なくてよかったですね。  はい。その血栓を溶かす薬を点滴で入れて翌日には集中治療室みたいな部屋から出て一般病棟へ移ることができました。結局意識が回復してからリハビリをしながら7月29日まで、約2週間ちょっと虎ノ門病院に入院していました。 ———最初はどんなリハビリをしたのでしょうか?  最初は車椅子に乗りかなりぼーっとした感じでした。看護師さんが私にしょっちゅう「お名前を言って下さい」「今どこにいますか」と聞くのです。それから紐を両手でピンっと張って目の前に見せられ、真ん中をつまんでくださいと言われるんですね。簡単なことのはずなのにそれがあんまりできていなかったです。血栓が詰まった場所が右側で、反対の左側に影響がありました。左目が見えていない感じがあり、看護師さんに左の足をつねられてもあまり痛くなかった。妻に後から聞いたのですが両腕を前に上げるように言われ支えてもらっても、左手だけはすぐふにゃーっと下に降りてしまっていた。歩いている時でも、左側の距離感などが掴めないので、すぐ人とぶつかってしまいそうな感じでかなり危なそうに見えていたようです。 🍀深刻に考え過ぎずにありのままを受け容れる 「つい心配になって身の回りのことを手伝ってしまうんです」と妻の悦子さん ———最初は左半身が麻痺するのではないかと不安な状況だったと思いますが。  そうですね。僕は短気なところがあるので少しイライラはしていました。でもその一方で置かれた状況はそのまま受け容れるほうなんですね。いつ退院できるのかは気になったし、「これからどうなるんだろう?」という不安はありました。闘病中にうつっぽくなってしまう人も少なくないそうです。でも僕は、「あーっできないことが多すぎるな、これはあまり真剣に考えてもしょうがない」って感じでした。 ———その後2週間あまりで別のリハビリ病院に転院したわけですね。  20日後の7月29日に墨田区の東京都リハビリテーション病院に転院となりました。ここで最初の3週間ぐらいは車椅子だったんですが、じょじょに車いすから歩行器みたいなものになり、杖になり、なんとか歩けるようになってきました。歩行訓練のほか理学療法などをやりました。周囲の患者さんの中には自主的にリハビリにすごく時間をかけ頑張る人もいましたが、僕は回復が比較的順調だという思いもあり、決められたプログラムに従い後はのんびりテレビを見たりして過ごしていました。その頃から左側の感覚もかなり戻ってきました。早めに処置をしたことがよかったと思いますし、早くから言葉の練習などをしたことも、今思うとよかったのだろうなと思います。 🍀酒席の回数が減って増えた妻と過ごす時間 地元両国国技館前で妻との散歩を楽しみます 両国の安田庭園は日本庭園が美しい静かな散策コース ———結局、後遺症のようなものは残らずにすんだのでしょうか?  大きな後遺症はないですが左足の違和感は今も続いています。このため歩くのは結構疲れます。またそのために自転車のペダルが左足でこげなくなり、自転車はもう乗れない感じですね。自転車であちこちに行くのが好きだったので、これは残念です。また左足は靴が上手く履けないので妻に手伝ってもらっていますし、ズボンのベルト通しなども左側がやりにくいので手伝ってもらうことが多いです。細かく見るといろいろ出来なくなったことがあるのですが、まあそこはあまり深刻に考えないようにしています ———病院を退院なさって何か生活に変化はありましたか?  リハビリテーション病院には約5ヶ月間いました。この間、病院ではタバコが吸えないので必然的に禁煙しました。それまで何回か禁煙パッチを貼ったりしてトライしても出来なかったのですが、あれを機会にタバコは自然にやめる事になりました。以前はお酒も誘われれば朝まで飲むようなことがあったのですが、飲みに行く頻度も減りました。会社の帰りには、仕事をしている妻と駅で待ち合わせをして、食事したり一緒に家に帰ることが増えました。 ———再発予防のためにいろいろ努力していらっしゃるのですね。  うーん。といっても努力のしようもないというか…病院で知り合った方の中には脳梗塞を二度三度と再発している方もおられるんですね。院内の食堂などでご一緒した時に、いろいろなお話を伺ったのですが、具体的に何をしたら再発しないのかはよくわからないんです。私自身はお酒も減らしていますが、運動などももっとしたほうがいいのでしょうが…。左足の調子が悪いので疲れやすく運動もそんなにできないですね。「再発が怖い」という漠然としたイメージだけは持っていますが、運動や減量を継続することはなかなか難しいですね。 🍀仕事も趣味も当たり前に続けられる幸せ ———勤務のほうはどのようにしていますか?  退院後に会社からは「週3日間勤務で復帰」という条件で声をかけてもらいました。このため契約上の勤務は週3日間ですが、あと2日間は自分の希望で出ていますので会社には週5日9時~5時に出社しています。退院した時点で、左足が少し不自由な意外は前と変わっていないんです。病院でも最初は自宅療養をと言われたのですが、実は家にいてもすることがないんですね。僕、家事は苦手でまったくできないし…。妻もフルタイムで働いていますから、家に僕を1人残しているほうが「かえって心配!」というのが妻の本音のようでした。僕も自宅に1人でいるよりは会社にいてみんなと話すのが好きですしね。ただ年齢的にはもう、財務の交渉ごとの現場にいる歳ではないので、仕事はできるだけ若い人に引き継いでいくようにと意識しています。 ———以前と同じようにゴルフや釣りなどの趣味も再開されているそうですね。  はい。地元墨田区両国の町内会の人たちとは親しくしています。それで一緒に楽しく気兼ねなくいろいろな遊びを続けています。ゴルフは病気になる前も上手だったわけではないのですが、病気の後は身体の感覚が変わってボールがクラブによくあたりません。でもいいんです。スコアより皆とわいわい行くのが楽しいんです。 町内会のみんなとワイワイ笑顔でゴルフをするのが楽しい ———病気の体験を振り返ってどんな事を思いますか?  あの経験以来、妻と話し合って、もしどこかでお互いに何かあった時には、すぐ連絡がつくように工夫しています。携帯電話の連絡先には名前の後に(妻)(夫)などを書き入れましたし、自分や家族の連絡先がわかる名刺やメモを財布の中にいつも入れるようにしています。こんな風に備えるのは大切だと思うのです。ただ「この先どうなるのか?」とか、わからないことをあまり考え込んだりはしないようにしているんです。2年前の出来事は幸い倒れた場所が会社で、後遺症も少なかったことは本当によかったと思うのです。そして今、仕事も趣味もほとんど元通りの生活ができているのは、やはり支えてくれた妻のおかげです。退院後は妻との時間を以前より大切にするようになりましたね。会社も復帰の時に快く受け容れてくれたし、大変な経験でしたがいろいろなことが本当にラッキーだったなと思っています。妻には家事や身の回りのことだけでなく気持ちの面でもいつも支えてもらっています。実は「ありがとう」なんて言ったことはないですけど、心の中でいつも感謝しています。 インフォメーション:脳梗塞 脳卒中は脳に血液が流れなくなることにより脳の神経細胞が壊死し、障害が起きる病気全般を示します。「脳梗塞」は「脳出血」、「くも膜下出血」、「一過性脳虚血発作」などとともにこの脳卒中の原因とされる病気の1つで、脳の血管に血栓という固まりが詰まっておこる状態です。脳梗塞が起きた場には、右半身か左半身のいずれかに運動麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりします。治療後も後遺症が残ることも多く、日常生活に手助けが必要になることも少なくありません。もし、脳梗塞が疑われる症状が起きたら、直ちに救急車で脳卒中専門の病院を受診しましょう。病院では、脳梗塞が起こってから4~5時間以内に血栓(血のかたまり)を溶かす血栓溶解療法により血管の詰まりの改善を目指します。また早期のリハビリも有効です。再発防止のためには血液をサラサラにするお薬で血栓をできにくくする治療法もあります。 脳梗塞を避けるには、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの危険因子をしっかり管理し、禁煙や体重管理、運動など生活習慣の改善が大切です。また日常から充分な水分補給をすることが重要です。水分補給により脱水症状が緩和され、血流もよくなります。 (撮影)多田裕美子