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ちゃんと知ろう自分のカラダ
三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか? 14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか? フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか? 乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。 私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか? 2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました...
増川ねてるさん プロフィール 1974年生まれ 新潟県小千谷市出身 詩人を目指し上京した大学時代にナルコレプシーと診断される。様々な職を経て広告代理店に勤めるが、処方された薬剤へ依存が酷くなり失業。後に薬物中毒となり、7年間生活保護を受ける。自力で断薬を実行した後、研修のファシリテーターとして社会復帰。福祉施設の職員をしながら、講演活動なども行う。 現在 アドバンスレベルWRAPファシリテーター地域活動支援センターはるえ野 センター長(東京都江戸川区)NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ理事 🍀「ちょっと限界、ここで休憩」講師が眠ってしまう!ワークショップ 実家が老舗の和菓子さんなので、スイーツと言えばあんこが好き ———増川さんは研修の講師として全 国を飛び回っていると聞いています。 健康そうに見えるかと思いますが、僕はナルコレプシー(過眠症)という睡眠障害を抱えています。十分に眠った場合でも、持続的な覚醒は3時間が限界です。15~20分寝さえすればクリアな意識に戻ってくるのですが… ———ではその研修中に講師である増川さんが眠くなってしまうこともあるわけですね。 その時は「休憩です。僕は限界なので寝ますね」といってその辺に横になります。僕が講師をしているのは「WRAP」(ラップ)という、日本では「元気回復行動プラン」と訳されている研修プログラムです。参加者が自分自身と向き合い弱みもオープンにし、“実体験の中から”生きて行く方法を学ぶというコンセプト。だから進行役の僕が寝ちゃう事も、参加者は僕のキャラクターとして受け入れてくれます。「ねてるがねてる」って写メを撮られますよ。 ねてるねてる 東京駅の床で撮影。(実際に駅で眠くなった時には休めるところを駅員さんに案内してもらっています) ———ねてるさんと言う名前はペンネームですよね。 はい。新聞などにもこの名前で出ています。初対面の人にも名刺を渡すタイミングで病気の説明が出来るようになり、弱点を自分の特性に変えるきっかけとなりました。 🍀医療への不信感と憤りを抱え上京するも、眠気に全て奪われていく日々 ———睡眠障害はいつから始まったのでしょうか? 高校時代ですね。例えば本を読んでいて「そういう話か」と思っていると、それは夢なんです。「あっ寝ていたのか」と思いまた読み始めると、それも夢。全然進まないんで...
川井千鶴さん プロフィール 1975年生まれ 岡山県出身聴覚障害をもつ両親の元に生まれる。2004年の風疹大流行時に自身が風疹にかかり、その後長女七海ちゃんを出産。現在11歳になる七海ちゃんは先天性風疹症候群と診断され、難聴、肺動脈狭窄症、てんかん、知的障害などさまざまな障害が重複している。 全国組織 『 風疹をなくそうの会 hand in hand 』 岡山支部代表として活動中。パート従業員。趣味はカラオケなど 🍀知らされなかった「妊娠中に風疹にかかること」の危険性 「知らなかった」ことで誰かに同じ後悔をしてほしくない。 ———川井さんがお子さんの七海ちゃんを出産なさったのは2004年ですね。 はい。28歳で妊娠し29歳の時に七海が生まれました。2004年は風疹が大流行した年でした。 ———七海ちゃんは現在11歳。障害があるということですが…。 聴覚障害のほかに、自閉症、てんかん、肺動脈狭窄症状があり、知能は2歳程度と言われています。 ———風疹というのは子どもだけの病気ではなく大人もかかるんですね。 そうです。妊婦さんが風疹になると、お腹の中の赤ちゃんに影響し、障害が残ることが多いといわれています。妊娠中に母親が風疹にかかりその影響を受けた子どもの状態を先天性風疹症候群(CRS)といいます。 ———風疹の予防法として予防接種があるそうですが、川井さんご自身は、風疹の予防接種をしていたのでしょうか? 私は学校で集団接種で受けているはずの年代と言われていますが、記憶はありませんし、自分で医者にいって接種した覚えはないです。 ———産婦人科では風疹について説明がありましたか? 妊娠して6週目、産婦人科で検査を受けた際に「風疹の抗体がついてないね」と言われています。その後2週間くらいの間に、私は風疹にかかりました。 ———「抗体がない」と言われた時どうしようと思いましたか? 当時はまったく知識がなかったのです。そう言われても何をどうしたらいいのかという説明もありませんでした。 🍀産科医から「ここでは産めない」と言われる衝撃 ———風疹にかかったとわかった時、お腹の赤ちゃんへの影響については説明されましたか? 医師からは「奇形児が生まれる」と中絶を勧められました。「ここでは産めない。産むんだったら、紹介状を書くから」と。 最初は理解ができず、時間がたつにつれ...
浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。 発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか? 銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう? 血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。 検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。 でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。 すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか? 具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫...
神田菊子さん プロフィール 1945年 千葉県出身1965年より浅草寺横でお好み焼き店「つくし」を開業。旦那様を早くになくし、息子さんを3人育て上げ、現在は一人暮らし。14年ほど前に糖尿病との診断を受ける。 「おいしいんだから!待っててね!」鉄板に立ち上る湯気の向こうで、焼きそばを勢いよくさばく神田さんは、創業49年、浅草の老舗お好み焼き店のおかみさん。明るい人柄に惹かれたお客さんで、お店はいつも満員! 元気な神田さんですが、実は慢性の糖尿病を抱えています。 🍀二坪から始めたお店を切り盛り……あるきっかけで暴飲暴食の生活に 「昔はビール4~5本くいくい飲みました……」と菊子さん ――浅草でお店を始めたのはいつですか? 昭和41年の20歳の時、今年で49年目です。当時、会社を興したばかりの主人を経済的に助けようと、自分でできるお好み焼き屋を始めたんです。三人の息子の子育てしながら、商売していました。 少し余裕もでてきた10年目ころ、主人が病気で亡くなりました。そのころから夜飲みに行ったり、外食したりが増えていったんです。仕事があがった夜12時から2~3時まで、スナックで飲んだりゴーゴーを踊りにいったりね。楽しかったです。でも、50歳まで20年もそんな生活を続ければ、具合も悪くなるわよねえ。 🍀だるくて風邪を引きやすい……「えっ!あたし糖尿になるの?」 ――糖尿病に気づいたきっかけは何だったのでしょう? 55歳くらいの頃、なんだかちょっとだるいなとか、疲れがとれず風邪を引きやすい感じがあったんです。それで区の定期健診に行ったら、「糖尿病です」って。「え?あたし糖尿になるの?」ってショックでしたけど、「飲み過ぎ、食べ過ぎですよ」ってお医者さんが言うのに納得してしまいました。 実際には痛くもかゆくもないから、始めは血糖値に気をつけなかったんです。でも、足がだるかったり、頻繁にトイレに行きたくなったりしているうちに、だんだん血糖値が下がらなくなり……ついに慢性で薬が必要と言われ観念しました。 3週間に一度もらう薬は、きちんと管理し欠かさず服用します 🍀「食べたい自分」との葛藤の日々…受け入れられたのは年齢のおかげ 始めは自分だけ美味しいものを食べられないとか、お酒が飲めないとか、空腹を我慢しなければならないことを全然受け入れられなかった。数値は上がるし、もう「食...
石村徹さん プロフィール 1965年東京都出身 オンライン情報処理技術者大学院でコンピュータシステム開発の研究をし、卒業後、鉄鋼会社に入社。約20年前に躁うつ病との診断を受け、9年後退社するも、現在の旅行会社に就職。 🍀激務から発症するも、精神疾患への偏見から、受診を避けた日々 「発症するまでは、体の丈夫さに自信がありましたが……」と石村さん ――躁うつ病が発症した頃、どのように過ごされていましたか。 大学院を卒業した1990年頃、大手鉄鋼会社にSEとして就職しました。社員寮から通勤していましたが、その頃は景気が非常に良く、毎日4時間しか寝ずに一週間仕事をするような激務です。慣れない顧客との関わりも多く、心身共にすり減らして働いていたんだと思います。 入社3年目くらいから、顧客と同僚につじつまの合わないことを言うなど、だんだん周囲から「少しおかしいよ?」と言われるようになりました。そのため、上司に受診を促されました。 最初は体の病気の検査をしましたが、問題は見当たりません。「もしかして心の病気?」と思ったのですが、精神病への偏見もありましたし、認めたくなくて……カウンセリングに半年ほど通いましたが、全く良くなりませんでした。 🍀父の発病にショックを受け、自宅で一人きり昏倒 ――躁うつ病は、状態を自覚して診断されるまでが難しいと言われていますが、石村さんが精神の疾患として受診しようと思ったのは、どのようなことがきっかけですか。 不安を抱えながら、社員寮から実家に引っ越した頃、父が狭心症の手術をすることになりました。頼りにしていた父がまさか病気になるなんてと、自分が背負わねばならないものがとてつもなく大きく感じ、ものすごいストレスがかかったんだと思います。自宅の和室で一人きりになった時、倒れこんでしまったのです。10分ほどでしたが、その時はっきりと「自分は精神の病気なんだ。このことに耐えられないんだ」と自覚し、「もうどうにでもなれ」と開き直って、受診を決意しました。 幸いなことに父の手術は成功して回復し、私が当時の会社の産業医を受診するのに付き添ってくれました。そこでやっと、躁うつ病だと診断されたのです。 🍀人を厳しく批判してします躁状態と、足がすくんで出勤できないうつ状態 ――石村さんが躁の状態、うつの状態の時は、それぞれどうなりますか。 僕が躁の時は、傍...
竹井京子さん プロフィール 1968年 東京都出身大学の英文科を卒業して1990年に旅行会社に就職。入社8年目、激務のストレスが原因で潰瘍性大腸炎を発症。転職して財団法人に再就職し、現在に至る。潰瘍性大腸炎の患者会「ちばIBD」副代表。 🍀子育て、家事、仕事、そして患者会。毎日がフル回転で過ぎて行きます。 平日は保育園、休日は自然の中で子どもと遊びます ———今お子さんが3歳。子育ても大変な時期、忙しそうですね。どんな毎日ですか? はい!私は10時から16時半まで事務の仕事をしています。起床は6時。朝のうちに朝食とお昼のお弁当の準備。そして夕食の下ごしらえをすませます。9時に息子を保育園に預けて出勤です。夕方は子どもを迎えに行き、19時に帰宅ですね。ご飯を食べ、お風呂に入れて21時半頃までに絵本の読み聞かせをし、子どもを寝かしつけてから、洗濯をしてやっと一日が終わります。休日は患者会活動をしています。患者会がない週末は、子供と公園で遊びます。昼食を食べて一緒にお昼寝をし、家族で近所のスーパーに買い物に出掛けて、夕食です。その後、主人と子供が2人で遊んでいる間に掃除をして、お風呂と就寝…。やることいっぱいの毎日ですね(笑) 🍀旅行関係の超多忙な業務とストレスが原因で発症 ———活動的でお元気そうに見えますが、潰瘍性大腸炎という慢性疾患を抱えていらっしゃる。難病と聞いていますがどんな病気なのでしょうか? 潰瘍性大腸炎の特徴的な症状としては、下血を伴う下痢が起きたり、急に腹痛が起きることで、トイレに駆け込まなければならないことも少なくありません。と言っても私はそんなに重症なほうではなく、手術もしないで済んでいます。潰瘍がひどい場合は大腸を手術で切除しなければならないこともあります。 ———どんなきっかけで病気に気づいたのですか。 1990年に旅行会社に就職し、東京駅の支店でカウンター業務を経験後、内勤で国内や海外旅行の手配に従事しました。毎晩22時半くらいまで勤務をし、真夜中に自宅に帰宅する日々を送るうちに、次第にお腹の調子が悪い日が続くようになりました。最初は症状もなく、便をした後にお尻を拭くと小さな血がついているのをみててっきり「痔だ!」と思っていました。 そんなある日、職場の健康診断で便潜血検査をしました。その後レントゲンの検査があったのですが、最初に受診し...
佐藤雅彦さん プロフィール 954年岐阜県出身名古屋・名城大学理工学部数学科を卒業後、中学の数学の教師として勤務。その後民間のコンピューター会社のシステムエンジニアに転職。2005年51歳でアルツハイマー型認知症と診断される。「認知症であっても不便だが不幸ではない」と全国で自身の体験を語る講演を行う。「認知症とともに歩む本人の会」(埼玉県川口市)を主催。日本認知症ワーキンググループ共同代表。 🍀認知症は不便だけど工夫いっぱいの明るい一人暮らし 著書『認知症になった私が伝えたいこと』(大月書店刊)は2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞しました。 歩き慣れた道を散歩し、お気に入りの喫茶店にも1人でいきます ———佐藤さんは51歳で認知症と診断されてから11年間も一人暮らしをされているということですね。 そうです。ただ食事の支度が負担になってきたので、昨年6月にケアハウスに引っ越しました。ここでは食事のほかに風呂の準備もしてくれるので助かっています。 ———毎日どんな風に生活していらっしゃるのでしょうか? 日曜日は教会の礼拝、月曜日はヘルパーさんがきて掃除をしてくれます。水曜日は聖書の勉強会、週末は認知症について講演会の講師をすることもあり、地方出張や行楽地にも行きます。朝は6時に起き、調子のいい時は散歩に出ます。朝食後はFacebookの更新をしたりパソコンでその日のスケジュールを確認します。 ———本の出版もなさっていますし、こうしてお話していても記憶障害があるようには見えないのですが。 よくそう言われたりしますが、実際には直近の記憶が保てないのです。例えば私は糖尿病で自己注射をしていますがインシュリン注射を打った事を3分も覚えていられないんです。電話で人と約束をしても、何日の約束かをすぐ忘れてしまうからiPadに記録したり、お話は録音したりしているのです。前日に何を食べたかも記憶はできないので、食事も写真でiPadに記録しています。そして食事の写真を見れば食べたものを思い出せますから。 ———佐藤さんから見える世界ってどのような感じなのでしょうか教えて下さい。 例えば普通の人は町を歩いているとそれをムービーのように覚えるんだけど、私は風景をコマ写真のようにぽつぽつとしか覚えていない。だけど「町の中にあるランドマークの前をいくつか通りすぎれば目...
中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか? 発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。 はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。 はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか? 病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかっ...
多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。 はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか? 再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか? 16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。 手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいO...
三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか? 14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか? フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか? 乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。 私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか? 2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました...
増川ねてるさん プロフィール 1974年生まれ 新潟県小千谷市出身 詩人を目指し上京した大学時代にナルコレプシーと診断される。様々な職を経て広告代理店に勤めるが、処方された薬剤へ依存が酷くなり失業。後に薬物中毒となり、7年間生活保護を受ける。自力で断薬を実行した後、研修のファシリテーターとして社会復帰。福祉施設の職員をしながら、講演活動なども行う。 現在 アドバンスレベルWRAPファシリテーター地域活動支援センターはるえ野 センター長(東京都江戸川区)NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ理事 🍀「ちょっと限界、ここで休憩」講師が眠ってしまう!ワークショップ 実家が老舗の和菓子さんなので、スイーツと言えばあんこが好き ———増川さんは研修の講師として全 国を飛び回っていると聞いています。 健康そうに見えるかと思いますが、僕はナルコレプシー(過眠症)という睡眠障害を抱えています。十分に眠った場合でも、持続的な覚醒は3時間が限界です。15~20分寝さえすればクリアな意識に戻ってくるのですが… ———ではその研修中に講師である増川さんが眠くなってしまうこともあるわけですね。 その時は「休憩です。僕は限界なので寝ますね」といってその辺に横になります。僕が講師をしているのは「WRAP」(ラップ)という、日本では「元気回復行動プラン」と訳されている研修プログラムです。参加者が自分自身と向き合い弱みもオープンにし、“実体験の中から”生きて行く方法を学ぶというコンセプト。だから進行役の僕が寝ちゃう事も、参加者は僕のキャラクターとして受け入れてくれます。「ねてるがねてる」って写メを撮られますよ。 ねてるねてる 東京駅の床で撮影。(実際に駅で眠くなった時には休めるところを駅員さんに案内してもらっています) ———ねてるさんと言う名前はペンネームですよね。 はい。新聞などにもこの名前で出ています。初対面の人にも名刺を渡すタイミングで病気の説明が出来るようになり、弱点を自分の特性に変えるきっかけとなりました。 🍀医療への不信感と憤りを抱え上京するも、眠気に全て奪われていく日々 ———睡眠障害はいつから始まったのでしょうか? 高校時代ですね。例えば本を読んでいて「そういう話か」と思っていると、それは夢なんです。「あっ寝ていたのか」と思いまた読み始めると、それも夢。全然進まないんで...
川井千鶴さん プロフィール 1975年生まれ 岡山県出身聴覚障害をもつ両親の元に生まれる。2004年の風疹大流行時に自身が風疹にかかり、その後長女七海ちゃんを出産。現在11歳になる七海ちゃんは先天性風疹症候群と診断され、難聴、肺動脈狭窄症、てんかん、知的障害などさまざまな障害が重複している。 全国組織 『 風疹をなくそうの会 hand in hand 』 岡山支部代表として活動中。パート従業員。趣味はカラオケなど 🍀知らされなかった「妊娠中に風疹にかかること」の危険性 「知らなかった」ことで誰かに同じ後悔をしてほしくない。 ———川井さんがお子さんの七海ちゃんを出産なさったのは2004年ですね。 はい。28歳で妊娠し29歳の時に七海が生まれました。2004年は風疹が大流行した年でした。 ———七海ちゃんは現在11歳。障害があるということですが…。 聴覚障害のほかに、自閉症、てんかん、肺動脈狭窄症状があり、知能は2歳程度と言われています。 ———風疹というのは子どもだけの病気ではなく大人もかかるんですね。 そうです。妊婦さんが風疹になると、お腹の中の赤ちゃんに影響し、障害が残ることが多いといわれています。妊娠中に母親が風疹にかかりその影響を受けた子どもの状態を先天性風疹症候群(CRS)といいます。 ———風疹の予防法として予防接種があるそうですが、川井さんご自身は、風疹の予防接種をしていたのでしょうか? 私は学校で集団接種で受けているはずの年代と言われていますが、記憶はありませんし、自分で医者にいって接種した覚えはないです。 ———産婦人科では風疹について説明がありましたか? 妊娠して6週目、産婦人科で検査を受けた際に「風疹の抗体がついてないね」と言われています。その後2週間くらいの間に、私は風疹にかかりました。 ———「抗体がない」と言われた時どうしようと思いましたか? 当時はまったく知識がなかったのです。そう言われても何をどうしたらいいのかという説明もありませんでした。 🍀産科医から「ここでは産めない」と言われる衝撃 ———風疹にかかったとわかった時、お腹の赤ちゃんへの影響については説明されましたか? 医師からは「奇形児が生まれる」と中絶を勧められました。「ここでは産めない。産むんだったら、紹介状を書くから」と。 最初は理解ができず、時間がたつにつれ...
浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。 発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか? 銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう? 血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。 検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。 でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。 すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか? 具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫...
神田菊子さん プロフィール 1945年 千葉県出身1965年より浅草寺横でお好み焼き店「つくし」を開業。旦那様を早くになくし、息子さんを3人育て上げ、現在は一人暮らし。14年ほど前に糖尿病との診断を受ける。 「おいしいんだから!待っててね!」鉄板に立ち上る湯気の向こうで、焼きそばを勢いよくさばく神田さんは、創業49年、浅草の老舗お好み焼き店のおかみさん。明るい人柄に惹かれたお客さんで、お店はいつも満員! 元気な神田さんですが、実は慢性の糖尿病を抱えています。 🍀二坪から始めたお店を切り盛り……あるきっかけで暴飲暴食の生活に 「昔はビール4~5本くいくい飲みました……」と菊子さん ――浅草でお店を始めたのはいつですか? 昭和41年の20歳の時、今年で49年目です。当時、会社を興したばかりの主人を経済的に助けようと、自分でできるお好み焼き屋を始めたんです。三人の息子の子育てしながら、商売していました。 少し余裕もでてきた10年目ころ、主人が病気で亡くなりました。そのころから夜飲みに行ったり、外食したりが増えていったんです。仕事があがった夜12時から2~3時まで、スナックで飲んだりゴーゴーを踊りにいったりね。楽しかったです。でも、50歳まで20年もそんな生活を続ければ、具合も悪くなるわよねえ。 🍀だるくて風邪を引きやすい……「えっ!あたし糖尿になるの?」 ――糖尿病に気づいたきっかけは何だったのでしょう? 55歳くらいの頃、なんだかちょっとだるいなとか、疲れがとれず風邪を引きやすい感じがあったんです。それで区の定期健診に行ったら、「糖尿病です」って。「え?あたし糖尿になるの?」ってショックでしたけど、「飲み過ぎ、食べ過ぎですよ」ってお医者さんが言うのに納得してしまいました。 実際には痛くもかゆくもないから、始めは血糖値に気をつけなかったんです。でも、足がだるかったり、頻繁にトイレに行きたくなったりしているうちに、だんだん血糖値が下がらなくなり……ついに慢性で薬が必要と言われ観念しました。 3週間に一度もらう薬は、きちんと管理し欠かさず服用します 🍀「食べたい自分」との葛藤の日々…受け入れられたのは年齢のおかげ 始めは自分だけ美味しいものを食べられないとか、お酒が飲めないとか、空腹を我慢しなければならないことを全然受け入れられなかった。数値は上がるし、もう「食...
石村徹さん プロフィール 1965年東京都出身 オンライン情報処理技術者大学院でコンピュータシステム開発の研究をし、卒業後、鉄鋼会社に入社。約20年前に躁うつ病との診断を受け、9年後退社するも、現在の旅行会社に就職。 🍀激務から発症するも、精神疾患への偏見から、受診を避けた日々 「発症するまでは、体の丈夫さに自信がありましたが……」と石村さん ――躁うつ病が発症した頃、どのように過ごされていましたか。 大学院を卒業した1990年頃、大手鉄鋼会社にSEとして就職しました。社員寮から通勤していましたが、その頃は景気が非常に良く、毎日4時間しか寝ずに一週間仕事をするような激務です。慣れない顧客との関わりも多く、心身共にすり減らして働いていたんだと思います。 入社3年目くらいから、顧客と同僚につじつまの合わないことを言うなど、だんだん周囲から「少しおかしいよ?」と言われるようになりました。そのため、上司に受診を促されました。 最初は体の病気の検査をしましたが、問題は見当たりません。「もしかして心の病気?」と思ったのですが、精神病への偏見もありましたし、認めたくなくて……カウンセリングに半年ほど通いましたが、全く良くなりませんでした。 🍀父の発病にショックを受け、自宅で一人きり昏倒 ――躁うつ病は、状態を自覚して診断されるまでが難しいと言われていますが、石村さんが精神の疾患として受診しようと思ったのは、どのようなことがきっかけですか。 不安を抱えながら、社員寮から実家に引っ越した頃、父が狭心症の手術をすることになりました。頼りにしていた父がまさか病気になるなんてと、自分が背負わねばならないものがとてつもなく大きく感じ、ものすごいストレスがかかったんだと思います。自宅の和室で一人きりになった時、倒れこんでしまったのです。10分ほどでしたが、その時はっきりと「自分は精神の病気なんだ。このことに耐えられないんだ」と自覚し、「もうどうにでもなれ」と開き直って、受診を決意しました。 幸いなことに父の手術は成功して回復し、私が当時の会社の産業医を受診するのに付き添ってくれました。そこでやっと、躁うつ病だと診断されたのです。 🍀人を厳しく批判してします躁状態と、足がすくんで出勤できないうつ状態 ――石村さんが躁の状態、うつの状態の時は、それぞれどうなりますか。 僕が躁の時は、傍...
竹井京子さん プロフィール 1968年 東京都出身大学の英文科を卒業して1990年に旅行会社に就職。入社8年目、激務のストレスが原因で潰瘍性大腸炎を発症。転職して財団法人に再就職し、現在に至る。潰瘍性大腸炎の患者会「ちばIBD」副代表。 🍀子育て、家事、仕事、そして患者会。毎日がフル回転で過ぎて行きます。 平日は保育園、休日は自然の中で子どもと遊びます ———今お子さんが3歳。子育ても大変な時期、忙しそうですね。どんな毎日ですか? はい!私は10時から16時半まで事務の仕事をしています。起床は6時。朝のうちに朝食とお昼のお弁当の準備。そして夕食の下ごしらえをすませます。9時に息子を保育園に預けて出勤です。夕方は子どもを迎えに行き、19時に帰宅ですね。ご飯を食べ、お風呂に入れて21時半頃までに絵本の読み聞かせをし、子どもを寝かしつけてから、洗濯をしてやっと一日が終わります。休日は患者会活動をしています。患者会がない週末は、子供と公園で遊びます。昼食を食べて一緒にお昼寝をし、家族で近所のスーパーに買い物に出掛けて、夕食です。その後、主人と子供が2人で遊んでいる間に掃除をして、お風呂と就寝…。やることいっぱいの毎日ですね(笑) 🍀旅行関係の超多忙な業務とストレスが原因で発症 ———活動的でお元気そうに見えますが、潰瘍性大腸炎という慢性疾患を抱えていらっしゃる。難病と聞いていますがどんな病気なのでしょうか? 潰瘍性大腸炎の特徴的な症状としては、下血を伴う下痢が起きたり、急に腹痛が起きることで、トイレに駆け込まなければならないことも少なくありません。と言っても私はそんなに重症なほうではなく、手術もしないで済んでいます。潰瘍がひどい場合は大腸を手術で切除しなければならないこともあります。 ———どんなきっかけで病気に気づいたのですか。 1990年に旅行会社に就職し、東京駅の支店でカウンター業務を経験後、内勤で国内や海外旅行の手配に従事しました。毎晩22時半くらいまで勤務をし、真夜中に自宅に帰宅する日々を送るうちに、次第にお腹の調子が悪い日が続くようになりました。最初は症状もなく、便をした後にお尻を拭くと小さな血がついているのをみててっきり「痔だ!」と思っていました。 そんなある日、職場の健康診断で便潜血検査をしました。その後レントゲンの検査があったのですが、最初に受診し...
佐藤雅彦さん プロフィール 954年岐阜県出身名古屋・名城大学理工学部数学科を卒業後、中学の数学の教師として勤務。その後民間のコンピューター会社のシステムエンジニアに転職。2005年51歳でアルツハイマー型認知症と診断される。「認知症であっても不便だが不幸ではない」と全国で自身の体験を語る講演を行う。「認知症とともに歩む本人の会」(埼玉県川口市)を主催。日本認知症ワーキンググループ共同代表。 🍀認知症は不便だけど工夫いっぱいの明るい一人暮らし 著書『認知症になった私が伝えたいこと』(大月書店刊)は2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞しました。 歩き慣れた道を散歩し、お気に入りの喫茶店にも1人でいきます ———佐藤さんは51歳で認知症と診断されてから11年間も一人暮らしをされているということですね。 そうです。ただ食事の支度が負担になってきたので、昨年6月にケアハウスに引っ越しました。ここでは食事のほかに風呂の準備もしてくれるので助かっています。 ———毎日どんな風に生活していらっしゃるのでしょうか? 日曜日は教会の礼拝、月曜日はヘルパーさんがきて掃除をしてくれます。水曜日は聖書の勉強会、週末は認知症について講演会の講師をすることもあり、地方出張や行楽地にも行きます。朝は6時に起き、調子のいい時は散歩に出ます。朝食後はFacebookの更新をしたりパソコンでその日のスケジュールを確認します。 ———本の出版もなさっていますし、こうしてお話していても記憶障害があるようには見えないのですが。 よくそう言われたりしますが、実際には直近の記憶が保てないのです。例えば私は糖尿病で自己注射をしていますがインシュリン注射を打った事を3分も覚えていられないんです。電話で人と約束をしても、何日の約束かをすぐ忘れてしまうからiPadに記録したり、お話は録音したりしているのです。前日に何を食べたかも記憶はできないので、食事も写真でiPadに記録しています。そして食事の写真を見れば食べたものを思い出せますから。 ———佐藤さんから見える世界ってどのような感じなのでしょうか教えて下さい。 例えば普通の人は町を歩いているとそれをムービーのように覚えるんだけど、私は風景をコマ写真のようにぽつぽつとしか覚えていない。だけど「町の中にあるランドマークの前をいくつか通りすぎれば目...
中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか? 発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。 はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。 はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか? 病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかっ...
多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。 はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか? 再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか? 16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。 手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいO...