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連載コラム

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 皮膚の状態は気候や疲れ方などその日のコンディションにより変化します

    【第15回】痒みで辛い時、落ち込んだ時、どんな時も変わらず笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。  はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。  はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか?  1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか?  季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか?  まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか?  最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。  他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか?  大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。  そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか?  アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか?  ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか?  ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか?  はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。  はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか?  きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか?  セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ  ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか?  内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか?  僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。  休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか?  これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。  ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。  やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。  アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子

  • 武藤匠子さん

    【第14回】眼が見えなくなったからこそ見えてくるものもあります どんな時でも変わらずにいてくれる賑やかな家族に「ありがとう」

    武藤匠子さん プロフィール 1958年生まれ 埼玉県草加市出身32歳の時、糖尿病を発症する。48歳のある日突然、糖尿病網膜症となり一日にして視力を失う。7年間のひきこもり生活を経て復帰。現在は視覚障害者の患者会『虹の会』に所属。卓球、ヨガ、フォークダンス、オカリナなどを楽しむ活動的な毎日を送る。 今は安全を考えて必ずガイドヘルパーさんと外出。見えない事を示すためにも白杖は大切な道具です。 ———武藤さんは、糖尿病網膜症で眼が不自由だということですが全く見えないのでしょうか?  はい。眼はあいているので見えていると勘違いされることもあるのですが、中心部が全く見えない中心暗点という状態です。周囲は暗いですがわずかに見えます。色は今着ているピンクのような明るい色が少し認識できる程度です。 ———網膜症の原因である糖尿病を発症した経緯をお話しいただけますか?  私が初めて糖尿病と診断されたのは32歳の時です。当時の私は14歳、13歳の娘と7歳の息子の3人の子どもを育てながら働く主婦でした。近所に両親もいて子育ては手伝ってもらい、スーパーで働いたり、車での配達など活動的に過ごしていました。実は父が糖尿病でした。疲れがひどいなと思った時、もしかしたら私も?という思いがあり受診したのです。その結果、やはり糖尿病だと診断されてしまいました。でもその時は「軽いので生活習慣に気をつけて薬を飲めば大丈夫ですよ」と言われました。実際生活習慣を変えたところすぐに体重も減り、血糖値も安定しました。このように最初に簡単にコントロールできたために、かえって糖尿病を軽く考えてしまった部分があります。その後も薬は適当に飲むという感じでした。子どもたちの受験もあり多忙な時期でしたから、自分の身体のことなんてかまいもせず、働き続けていたのです。 ———糖尿病の合併症である眼の問題が起きたのはいつ頃のころですか?  子どもたちも学校を卒業し、「これで一息かな」と思った48歳の時でした。もともと私は近眼でしたが視力が下がった感じがあり「新しい眼鏡を作らなければ」と主人と話していました。その頃夕方になると身体のむくみもありました。 🍀糖尿病網膜症の「まだ大丈夫」は「もう遅い」です。必ず眼の検診を! ———では糖尿病の影響で視力がゆっくりと低下していったわけですね?  それが失明は突然のことなのです。その日いつものように仕事を終え車で帰宅し、夕食の支度をして主人とテレビを見ていたんです。ところがなぜかテレビがすごく見づらい、真ん中のところだけが暗いのです。有名な芸能人が出ているはずなのになぜか顔がわからない。それで「おとうさん悪いんだけど、ちょっと変な顔してみて?」と頼み、主人の顔を見たんですけど、見えないんです。「えっ!私ひょっとしたらおとうさんの顔が見えなくなっちゃったよ!」と… 武藤さんの見え方は右側の写真のように真ん中が見えない中心暗点と呼ばれる状態です。 ———そんなに突然なんて…事故のようですね。どんなにショックだったことでしょう。  何が起きたのかもよくわからず、翌日眼科に行きました。すると「ひどい眼底出血を起こしていますから元のように見えるようになるのはむずかしいかもしれません」とその場で宣告を受けました。レーザー治療を勧められたのでやってみましたが、私には効きませんでした。 ———糖尿病の合併症を表す「しめじ」という言葉がありますね。し「神経」め「眼」じ「腎臓」に注意ということですが、眼について予防はしていなかったのですね。  そうですね。眼にくるのなんて糖尿病の最終段階だと勝手に思っていました。もし初期から、先生が糖尿病網膜症について、定期的な眼の検査が必要だと教えてくれていたらだいぶ違ったと思うので、それは残念です。糖尿病の人にとって「まだ大丈夫」は「もう遅い」なのです。糖尿病の方は軽症でも早めに眼の定期検査を受けてください。 どんな料理がどこにあるのかを説明するのもガイドヘルパーさんの仕事。何を食べるのかがあらかじめわかるからこそ食事の楽しさが感じられるのです。 🍀見えないことを受け容れ心の回復までにかかった7年という時間 ———突然失明に近い状態になられて精神的にも大変な衝撃だったと思います。  そうですね。先生から「また眼底出血が起きるといけないのでなるべく安静な生活を」と言われたことをきっかけに、ここから約7年間のひきこもり生活が始まりました。仕事も出来ず、好きだった車の運転も、自転車も乗れない。切符も自分で買えないんです。考えることは「このままどうなるのだろう。死んじゃいたいなー」ってことばかりでした。当時初孫は5歳になっていましたが、その頃次に生まれた孫の顔が見られないこともショックでした。とにかくどうやっても見えない事にイライラするんです。唯一テレビは、中心部は見えないけど周囲が少し見えるので、毎日ぼーっとテレビばかり見ていました。 ———出来る事をすべて奪われたような感じは、大変なストレスだったと思います。  主人が休みの時に外へ連れだしてくれる事だけが楽しみでした。時々都合が悪く外出できないと「どこにも連れてってくれない!」と主人に八つ当たりしました。ところがそのうち「私が何かしたいというと、実はいろんな人に迷惑をかけるんだな。わがまま言っちゃいけないんだな」と気付いたんです。その頃から黙って留守番をするようになりました。でも時々「私なんて連れて行きたくないでしょう!そのほうがみんな楽じゃない」といじけたりしていましたね…。そんな時でも主人は一言も言い返したりしませんでした。 バスや電車に乗って、ガイドヘルパーさんと一緒にどこへでも出かけていきます。 ———白杖を持つようになったのはいつ頃ですか?  見えなくなって1年後に障害者手帳を取りました。障害は2級です。初めて白杖を持った時は嬉しかったです。杖を持つ前は主人が危ないから私の腕をとって歩いてくれていたのです。でもそれを見るとからかわれるんです。「あら、いい年して仲いいね!」って。「これからは白杖があるから堂々と腕組んで歩けるね」と主人は笑っていました。 ———優しいご主人ですね。でも白杖があってもご家族の介助なしでは今のように外出はできなかったのですね。  そうなんです。でも、ひきこもって6年目あたりから、「私ってこのままじゃいけないんじゃないかな?見えなくても参加できるものがあったら行きたいなあ」と思い始めたんですね。その頃、留守番中の話し相手だった飼い犬が亡くなったことも影響していますね。今思うと当時から市の福祉課には障害者のための福祉サービスがあったわけですが、そんなことを役所に尋ねるなんて思いもよらなかったのです。 🍀同じ視覚障害者の一言から突然開いたリカバリーの扉 ———今はガイドヘルパーさん(視覚障害者移動支援従業者)と一緒にどこへでも外出なさっていますが、このサービスを知るきっかけになったのは何だったのでしょう?  ある日病院の眼科の待合室で私と看護師さんのやり取りを聞いていたらしいひとりの男性が話しかけて来たんです、それで「私は眼が見えないんです」と言ったら、「僕もですよ」というのです。それまで同じ見えない人と話した事もなかったので驚きました。その人に「私はタクシーで病院と家をやっと往復してるんです。あなたはどうやってここに来たのですか」と尋ねたら、その人は「私はいつもガイドヘルパーさんと来ますよ」というのです。そしてその場で、『虹の会』という視覚障害者患者会の会長さんに電話してくれたんですね。電話の途中で受話器を渡されました。するとその会長さんが電話の向こうで「ガイドヘルパーさんの頼み方は事業所に連絡をするんです。みんなでカラオケやお花見や旅行にもいきますよ。カラオケの歌詞はヘルパーさんに読んでもらえますよ。是非一度会にきてください」と明るく元気な声で話しかけて来たわけです。「え~っ何これ?」って本当にびっくりしました。 虹の会のメンバーとみんなで卓球後のランチを楽しみます。 外に出る事って本当に自由で気持ちのよいこと。ガイドヘルパーさんが歩行の誘導に加えて景色や周囲の状況を説明してくれます。 ———すごいですね。眼科の待合室の見えない方との出会いで突然世界が開けたんですね。  はい。当時の私はテレビで盲目の障害者が水泳で優勝したとか、登山に成功したという話を聞いて「フンっ!そんなの嘘だ、見えなきゃ何も面白いはずないじゃないの~」くらいに思っていたのです。だけど『虹の会』に入会しガイドヘルパーさんと一緒に外に出たときに、はっきりわかりました。自分が何かできる感動や喜びは眼が見えなくても皮膚とか耳とかでちゃんと感じられるということ。そして家族に負担をかけずに好きな事をする自由が戻って来た喜び。主人は何も言わないけど私が自由になったことで、彼がどんなに喜んでいるかがひしひしと伝わってきました。 ———自分らしさを回復なさったのですね。今はどんな毎日なのでしょうか?  糖尿病の体調管理のためにも運動が必要なので、フォークダンスやヨガやウォーキングもしています。『虹の会』の卓球も始めました。卓球はピンポン球の中に音の出る粒が入っているものを使います。ボールをバウンドさせて打つのではなく、ラケットに当てて台の上を転がす特別なルールの卓球です。私は少し玉が見える時がありますが、音と気配で打ち返します。結構ハードなスポーツなんですよ。 視覚障害者の卓球は専用の台で行う。ボールは打たずに転がす。音のでるボールなので見えなくても音を聞いて打つ。 ———運動以外にはどんなイベントがあるのですか?  はい。季節ごとに花見やイチゴ狩りや、ぶどう狩りにも行くしコンサートや落語鑑賞などもあります。食事会や飲み会も…みんないつでも楽しい事ばっかり企画しています。中でも私が今一番頑張っているのはオカリナです。今度コンサートもあるんです。楽譜が読めないので娘が大きな字でカタカナの楽譜を書いてくれます。これを使って暗譜していきます。今オカリナを吹いていている時が1番楽しいですね。 オカリナとコカリナ。娘さんが書いてくれた楽譜でロシア民謡を練習中 🍀透析になる日を少しでも遅らせ活動的な時間を精一杯楽しみたい ———糖尿病のほうはいかがですか?  1年前に腎臓の数値が悪いために透析設備のある病院に転院したほうがいいと言われて腎臓内科のある病院に通うようになりました。毎日インスリンの自己注射に加えて腎臓の薬を飲んでいます。昨年、もしも数値が急に悪くなった時にすぐ透析ができるようにと透析に必要な血管をつなぐためにシャントの手術をしました。その時に活性炭の薬を処方されたのですが、その薬が私に合ったようで、飲み始めるとすぐに数値が良くなり、透析が回避できたんです。活性炭は食後2時間後に飲むと余分な毒素を排出して腎臓の負担を減らしてくれるのです。1年間飲み続けています。とはいえ私の腎臓はもう元へは戻らないです。だから今を楽しみたいのです。日中は卓球やヨガやオカリナやいろいろな行事に参加します。娘家族と暮らしているので家事はかなり娘がしてくれますが、孫に頼まれた料理を作る事もあります。料理も昔作った物は覚えているからその通りにやれば変わらず出来ます。息子は「料理の味は見えなくてもちっとも変わらない!美味しい」って言ってくれるんですよ。 🍀いろいろなことをワイワイ話しながらみんなで囲む楽しい食卓 ———とても幸せそうですね。ご家族と優しいご主人のおかげですね  そうですね。子ども達は結婚後もみんな近所に住んでいます。そして1番感謝してるのは、やっぱり私をいつも黙って見守ってくれている主人ですね。昔から主人は物静かで何でもやってくれる人です。私のそばにいつでも「添うて」くれています。 同居している娘の家族もいろいろ厳しい文句を言いながらも助けてくれています。ウチの家族ってやっぱり普通なんですよ。私が眼が見えなくなる前と後とさほど変わっていない。いろんなことをずけずけ言い合いますよ。 ———ずけずけですか?  主人は食事中にオカズをお皿にとってくれたり細やかに私を助けてくれます。例えば焼き魚を食べていると骨をとって私のご飯の上に魚の身をのせてくれたりするんです。だけど「私はご飯に魚をのせるのは嫌い!味が混ざるからいや~」とか言いたい事を言うんです。そんなやり取りを見て娘は「どうせお母さん文句言うんだから自分でやれば~」とワイワイ。時には見えない私がちょっと失敗すると「見えないの~?」って怒るしね!面白いでしょう。誰も優しくしてくれないんですよ(笑) このごろ私、「見えなくてもいいのかも」って思うようになりました。見えなくなったおかげで今のガイドヘルパーさんをお願いしている事務所『フィールド』の社長とも知り合えたし、友達もたくさんできたしね。でもね私、もし透析になったら今みたいな自由はなくなるとわかっているのです。だからこそ今ね、本当に今出来る事を楽しみたいなって思うんです。 「プーさんはおとうさんに似ているでしょ」と匠子さん。娘さん夫婦とお孫さん、ご主人に囲まれ幸せいっぱいです。 インフォメーション:糖尿病網膜症 糖尿病が原因となって網膜に起こる障害をいいます。糖尿病の眼の合併症としては角膜障害、白内障などもありますが特に日本では成人の失明原因の2位となっています。糖尿病網膜症は単純網膜症、前増殖網膜症、増殖網膜症の3段階を経て進行します。さらに進行すると眼の中に新生血管が発生し、網膜剥離や硝子体出血をおこし、失明にもつながります。糖尿病網膜症はかなり病状が進行しないと自覚症状が現われて来ない事が特徴です。このため気付いた時には重症化している事が多いのです。糖尿病と診断されたら、定期的に内科を受診するだけでなく必ず眼科も定期受診する事が大切です。 ガイドヘルパー(視覚障害者移動支援従業者)眼の不自由な方の外出や活動をお手伝いする資格をもった支援者です。 埼玉県 草加 視覚障がい者 虹の会http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/matinonakade.html (撮影)多田裕美子

  • 元の職場に復帰して経理を担当。会社で仲間と一緒にいることを改めて楽しいと感じる毎日

    【第13回】つらい時も元気な時もいつも笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか?  発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。  はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。  はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか?  病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかったと思いますが、特に健康診断で引っかかったり何かの病名がついていると言うことはなかったです。 🍀予兆だったかもしれない前日の熱中症のような症状 ———発症する前後に何か予兆のようなものはありましたか?  特に身体に感じる異変というのはなかったと思います。ただ2年前の夏もとても暑い日が続いていて、当時会社では機材倉庫の物件を探していました。経理部としても下見が必要ということで、倒れる前日に炎天下の猛暑の中、江東区辰巳の倉庫街に行き、そこで道に迷ってしまい長時間外を歩き周りました。その時すでに、熱中症っぽい感じがあったのかもしれません。倒れた当日の朝は、妻の話によると、出掛けにいつになく機嫌が悪かったそうです。 ———熱中症にも気をつけないといけないですね。倒れてから救急車に乗っている時は、意識はあったのですか?  よく覚えていませんが、誰かにずっと名前を呼ばれていた気がします。次に気がついた時には病院のベッドの上でした。すぐMRIを撮ってもらい集中治療室みたいな部屋に入りました。駆けつけた妻の顔を見て「俺倒れたの?」と不思議そうに何回も聞いたそうです。 ———直接の原因は咳こんだことだったのでしょうか?  はい。特に血圧やコレステロールの治療をしていたわけではないですが、やはりタバコも吸っていましたし、実は父や妹も心臓の不整脈があるんですね。だから遺伝的には不整脈になる傾向があったのではと思っています。不整脈があると心臓の中に血の固まりが出来やすいらしいです。それが血管の中ではがれて脳の動脈の方に流れていって、そのせいで、脳の血管がつまってしまうことがあるそうです。私の場合、咳が出た瞬間にその衝撃で血管の中の固まりがはがれ、右側の脳に詰まった様子です。 🍀早期治療のあとに早めに開始したリハビリ訓練 ———かなり治療が早かったので後遺症も少なくてよかったですね。  はい。その血栓を溶かす薬を点滴で入れて翌日には集中治療室みたいな部屋から出て一般病棟へ移ることができました。結局意識が回復してからリハビリをしながら7月29日まで、約2週間ちょっと虎ノ門病院に入院していました。 ———最初はどんなリハビリをしたのでしょうか?  最初は車椅子に乗りかなりぼーっとした感じでした。看護師さんが私にしょっちゅう「お名前を言って下さい」「今どこにいますか」と聞くのです。それから紐を両手でピンっと張って目の前に見せられ、真ん中をつまんでくださいと言われるんですね。簡単なことのはずなのにそれがあんまりできていなかったです。血栓が詰まった場所が右側で、反対の左側に影響がありました。左目が見えていない感じがあり、看護師さんに左の足をつねられてもあまり痛くなかった。妻に後から聞いたのですが両腕を前に上げるように言われ支えてもらっても、左手だけはすぐふにゃーっと下に降りてしまっていた。歩いている時でも、左側の距離感などが掴めないので、すぐ人とぶつかってしまいそうな感じでかなり危なそうに見えていたようです。 🍀深刻に考え過ぎずにありのままを受け容れる 「つい心配になって身の回りのことを手伝ってしまうんです」と妻の悦子さん ———最初は左半身が麻痺するのではないかと不安な状況だったと思いますが。  そうですね。僕は短気なところがあるので少しイライラはしていました。でもその一方で置かれた状況はそのまま受け容れるほうなんですね。いつ退院できるのかは気になったし、「これからどうなるんだろう?」という不安はありました。闘病中にうつっぽくなってしまう人も少なくないそうです。でも僕は、「あーっできないことが多すぎるな、これはあまり真剣に考えてもしょうがない」って感じでした。 ———その後2週間あまりで別のリハビリ病院に転院したわけですね。  20日後の7月29日に墨田区の東京都リハビリテーション病院に転院となりました。ここで最初の3週間ぐらいは車椅子だったんですが、じょじょに車いすから歩行器みたいなものになり、杖になり、なんとか歩けるようになってきました。歩行訓練のほか理学療法などをやりました。周囲の患者さんの中には自主的にリハビリにすごく時間をかけ頑張る人もいましたが、僕は回復が比較的順調だという思いもあり、決められたプログラムに従い後はのんびりテレビを見たりして過ごしていました。その頃から左側の感覚もかなり戻ってきました。早めに処置をしたことがよかったと思いますし、早くから言葉の練習などをしたことも、今思うとよかったのだろうなと思います。 🍀酒席の回数が減って増えた妻と過ごす時間 地元両国国技館前で妻との散歩を楽しみます 両国の安田庭園は日本庭園が美しい静かな散策コース ———結局、後遺症のようなものは残らずにすんだのでしょうか?  大きな後遺症はないですが左足の違和感は今も続いています。このため歩くのは結構疲れます。またそのために自転車のペダルが左足でこげなくなり、自転車はもう乗れない感じですね。自転車であちこちに行くのが好きだったので、これは残念です。また左足は靴が上手く履けないので妻に手伝ってもらっていますし、ズボンのベルト通しなども左側がやりにくいので手伝ってもらうことが多いです。細かく見るといろいろ出来なくなったことがあるのですが、まあそこはあまり深刻に考えないようにしています ———病院を退院なさって何か生活に変化はありましたか?  リハビリテーション病院には約5ヶ月間いました。この間、病院ではタバコが吸えないので必然的に禁煙しました。それまで何回か禁煙パッチを貼ったりしてトライしても出来なかったのですが、あれを機会にタバコは自然にやめる事になりました。以前はお酒も誘われれば朝まで飲むようなことがあったのですが、飲みに行く頻度も減りました。会社の帰りには、仕事をしている妻と駅で待ち合わせをして、食事したり一緒に家に帰ることが増えました。 ———再発予防のためにいろいろ努力していらっしゃるのですね。  うーん。といっても努力のしようもないというか…病院で知り合った方の中には脳梗塞を二度三度と再発している方もおられるんですね。院内の食堂などでご一緒した時に、いろいろなお話を伺ったのですが、具体的に何をしたら再発しないのかはよくわからないんです。私自身はお酒も減らしていますが、運動などももっとしたほうがいいのでしょうが…。左足の調子が悪いので疲れやすく運動もそんなにできないですね。「再発が怖い」という漠然としたイメージだけは持っていますが、運動や減量を継続することはなかなか難しいですね。 🍀仕事も趣味も当たり前に続けられる幸せ ———勤務のほうはどのようにしていますか?  退院後に会社からは「週3日間勤務で復帰」という条件で声をかけてもらいました。このため契約上の勤務は週3日間ですが、あと2日間は自分の希望で出ていますので会社には週5日9時~5時に出社しています。退院した時点で、左足が少し不自由な意外は前と変わっていないんです。病院でも最初は自宅療養をと言われたのですが、実は家にいてもすることがないんですね。僕、家事は苦手でまったくできないし…。妻もフルタイムで働いていますから、家に僕を1人残しているほうが「かえって心配!」というのが妻の本音のようでした。僕も自宅に1人でいるよりは会社にいてみんなと話すのが好きですしね。ただ年齢的にはもう、財務の交渉ごとの現場にいる歳ではないので、仕事はできるだけ若い人に引き継いでいくようにと意識しています。 ———以前と同じようにゴルフや釣りなどの趣味も再開されているそうですね。  はい。地元墨田区両国の町内会の人たちとは親しくしています。それで一緒に楽しく気兼ねなくいろいろな遊びを続けています。ゴルフは病気になる前も上手だったわけではないのですが、病気の後は身体の感覚が変わってボールがクラブによくあたりません。でもいいんです。スコアより皆とわいわい行くのが楽しいんです。 町内会のみんなとワイワイ笑顔でゴルフをするのが楽しい ———病気の体験を振り返ってどんな事を思いますか?  あの経験以来、妻と話し合って、もしどこかでお互いに何かあった時には、すぐ連絡がつくように工夫しています。携帯電話の連絡先には名前の後に(妻)(夫)などを書き入れましたし、自分や家族の連絡先がわかる名刺やメモを財布の中にいつも入れるようにしています。こんな風に備えるのは大切だと思うのです。ただ「この先どうなるのか?」とか、わからないことをあまり考え込んだりはしないようにしているんです。2年前の出来事は幸い倒れた場所が会社で、後遺症も少なかったことは本当によかったと思うのです。そして今、仕事も趣味もほとんど元通りの生活ができているのは、やはり支えてくれた妻のおかげです。退院後は妻との時間を以前より大切にするようになりましたね。会社も復帰の時に快く受け容れてくれたし、大変な経験でしたがいろいろなことが本当にラッキーだったなと思っています。妻には家事や身の回りのことだけでなく気持ちの面でもいつも支えてもらっています。実は「ありがとう」なんて言ったことはないですけど、心の中でいつも感謝しています。 インフォメーション:脳梗塞 脳卒中は脳に血液が流れなくなることにより脳の神経細胞が壊死し、障害が起きる病気全般を示します。「脳梗塞」は「脳出血」、「くも膜下出血」、「一過性脳虚血発作」などとともにこの脳卒中の原因とされる病気の1つで、脳の血管に血栓という固まりが詰まっておこる状態です。脳梗塞が起きた場には、右半身か左半身のいずれかに運動麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりします。治療後も後遺症が残ることも多く、日常生活に手助けが必要になることも少なくありません。もし、脳梗塞が疑われる症状が起きたら、直ちに救急車で脳卒中専門の病院を受診しましょう。病院では、脳梗塞が起こってから4~5時間以内に血栓(血のかたまり)を溶かす血栓溶解療法により血管の詰まりの改善を目指します。また早期のリハビリも有効です。再発防止のためには血液をサラサラにするお薬で血栓をできにくくする治療法もあります。 脳梗塞を避けるには、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの危険因子をしっかり管理し、禁煙や体重管理、運動など生活習慣の改善が大切です。また日常から充分な水分補給をすることが重要です。水分補給により脱水症状が緩和され、血流もよくなります。 (撮影)多田裕美子

  • 浅草雷門から近い『鈴楼』は真っ赤な内装が印象的なバー。愛犬トモと一緒に立ち寄る馴染みのお店

    【第12回】大好きな町で愛犬と共に暮らす。幼なじみの友達と浅草の人情にありがとう

    戸山純子さん プロフィール 1952年 東京都台東区出身 ウェブデザイナー30代まで小劇場の女優として活動。32歳の時、銀座でコーヒー専門店を開店し8年間オーナーとして運営を行う。その後、友人の依頼でカウンターバーの開店を手伝い13年間運営に従事。52歳のころリウマチと診断されるが治療により現在はほぼ寛解状態にある。フリーランスのウェブデザイナーとして企業のサイトの画像処理やシステムづくりを担当する。 🍀介護、仕事で忙しい毎日を突然襲った関節の腫れと痛み 着物を日常着として楽しみたい。季節のタケノコをあしらった帯は江戸っ子らしい粋な着こなし ———戸山さんはお元気そうですが関節リウマチ(以下リウマチ)という持病をお持ちなのですね。  はい。現在は痛みもなく安定した状態ですが、約10年前の52歳の時にリウマチを発症しました。それ以前から関節痛のため整形外科を受診していたのですが…ある朝目覚めたら、手首と足首が腫れて、膝もぷっくりとボールのようで…大変な痛みでした。かかっていた整形外科でリウマチと診断され、リウマトレックスという抗リウマチ薬の飲み薬を処方され約1年間治療しました。 ———リウマチは痛みの他に全身倦怠感がひどいそうですね  はい。関節の痛みの他に熱が出る事もありました。リウマチの薬に加え炎症を抑えるためのステロイドの錠剤と点滴を1週間に一度打っていました。ステロイドを使うと顔がむくみ気分が悪くなるときもありますが、関節の痛みはすぐ引くんです。ただ、その効果は長続きしないので困りました。 ———大変でしたね。当時体調をくずす原因となるようなことはありましたか?  女優時代はかなり不規則な生活でしたね。32歳の時、銀行から3000万円を借金して銀座にコーヒー専門店を開店し8年続けました。業績は好調で借金も返済しましたが、事情がありお店は閉店しました。ほどなく友人が数寄屋橋でカウンターバーを開くというので、その企画から参加し運営を13年間手伝ってきました。仕事は多忙でしたね。その当時私は上野で一人暮らしをしていましたが父が亡くなって実家のある竹の塚(浅草から移り住んだ)に戻り、母と二人の暮らしが始まりました。母は抑うつ状態で、だんだん介護が必要な状態になっていきました。母は依頼心が強く1人では何も決断しないけれど、結構頑固で言い出したら聞かないタイプですから介護は大変でした。 ———リウマチのような免疫系の病気になる方は、それ以前にご本人が意識しなくても何らかのストレスがかかっている場合も少なくないと聞きます。  そうですか。当時、家族関係も大変でしたし、更年期で急に身体が熱くなり汗が噴き出すような症状も体験していました。特に原因は思い当たりませんが 仕事と介護が重なり気付かないうちに身体に負担をかけていたかもしれませんね。手足の関節にいくつもサポーターを付けて仕事に行っていました。 ———その後の経過はいかがでしたか?  私の場合は最初に通院した整形外科でもリウマチと診断され治療していましたが、約1年通っても症状が治まらなかったので、先生が荒川区の東京女子医大東医療センターのリウマチ科を紹介して下さいました。発症から1年後に生物学的製剤を使った本格的なリウマチの治療を始めました。私のように整形外科にかかっていても症状が長引く場合は、リウマチ専門医を早めに受診し、治療法について相談したほうがいいと思います。 🍀登場した新しいリウマチの治療薬に救われて ———そこではどんな治療をしたのでしょうか?  私が今使っているリウマチの薬、生物学的製剤は、当時まだ出たばかりでした。「生物学的製剤というのは遺伝子組み換え技術によってできたもので、リウマチの原因となる炎症蛋白を直接的に抑え込むお薬のことです」と先生に説明されました。1ヶ月4万円以上の治療費がかかると知り大変驚きましたが、治りたい一心で使う決心をしました。最初はレミケードという生物学的製剤を試しました。半日かけて病院で点滴を受けるのですが、これが私の身体に合わなくて、発熱したり口の中に湿疹がでたりして大変でした。熱が上がると点滴できずに「熱が下がるまで待ちましょう」と言われ、朝10時に病院に行って終わるのが夜8時になんてこともありました。体質に合わなかったけれどリウマチ自体はこのお薬で良くなったんです。2ヶ月に1度、6、7回は点滴を続けたと思います。 ———今もそのお薬を続けているのですか?  いいえ。 「 つらくて我慢できない 」 と先生に訴えたところ別の生物学的製剤のヒュミラという薬に変更しますと言われました。こちらは点滴ではなく注射をするタイプです。最初は病院に注射のために通っていたのですが、自分でできるようになったので今では自己注射をしています。 よく立ち寄るホットケーキで有名な喫茶『天国』のオーナーと ———自分で注射するなんて怖くないですか?  お腹に注射するので、もちろん痛いけど、病院で看護師さんが打つのとは違い自分のペースでできるので痛みは少ないですよ。自分なら液をゆっくり入れられますから。2週間に一度木曜日にお風呂上がりに打つと決めているので、入浴前に冷蔵庫からお薬を出し常温にしてから打つとあまり痛くないんです。私はこの自己注射のおかげで楽しく生活できています。ただリウマチの治療はどの薬が効くかも効果もかなり個人差があるようです。 ———その自己注射だけで体調を管理できているのですか?  自己注射に加えて、最初の整形外科で処方されたのと同じ飲み薬のリウマトレックスとステロイド剤のプレドニンも一緒に使っています。一時期、肝機能がだいぶ悪くなったことがあり6錠飲んでいたリウマトレックスを4錠に減らしたら、約3ヶ月くらいで肝臓の値は平常値に戻りました。毎月のお薬代が高いのが悩みですが、それでも早期治療により関節の変形が防げるそうなので、あの時迷わず決断してよかったと思います。おかげで関節の変形はありません。 🍀リウマチの痛みを忘れさせてくれた愛犬トモは人生のパートナー ———当時、リウマチの症状を抱えながらお母様の介護もなさっていたのですね。  はい。母にはヘルパーさんが来てくれていましたが、私も関節が痛くて動けなくなり寝込むこともありました。私は不満や愚痴を言い続ける母と2人でいることに疲れ、パグの赤ちゃん「トモ」を飼うことにしました。当時の私には生活のスパイスみたいなものが必要だったのですね。その母が9年前に亡くなり独り身になった時、トモと一緒に竹の塚から生まれ故郷の浅草に再び戻ってこようと決めたのです。トモは私の大切なパートナーです。当時は体調が悪くトモを散歩に連れ出せない私を心配して姪の娘たちも自宅によく来てくれました。今は中1と高1になりましたが孫のように可愛いです。 チンドン屋さんと遭遇。この町ならではの突然出現する異空間に紛れ込む楽しさ ———今マンションでの一人暮らし、毎日どんな風に過ごしていますか?  朝7時頃に起きて朝ご飯を食べ、まず犬の散歩をします。今は主にウェブデザインの仕事をしています。パソコンは得意で銀座のお店をやっている時に独学で覚えたんですよ。だいたい午前中から4時ころまでパソコンで作業します。フリーランスですから時間の使い方は自由ですが規則正しく生活しています。ほかに依頼があるとレンタル衣装屋さんで着付けのお仕事もしています。一番頑張っているのが週2回ストレッチ体操に通うことです。お料理は得意ですね。なるべく野菜を多めに、タンパク質もとるよう栄養には気を使っています。でも夕方街を散歩していて誰かに誘われれば飲みにいったりすることもありますね。 観光客の方の着付けも楽しい仕事です 観光スポットの中心にある行きつけの銭湯 蛇骨湯 ———今気をつけているのはどんなことでしょうか?  そうですね。冷えると関節が痛みますので身体を冷やさない事ですね。リウマチの症状というよりも、年齢的な問題で身体の衰えが心配です。身体が痛いのかもしれないのですがリウマチの痛みとして強く感じないのは、もしかしたら慣れてしまって元の状態を覚えていないせいかもしれません。トモの朝晩の散歩もトモのためだけでなく自分のために身体を動かしたいという気持ちで続けています。 ———他に健康法で実践している事はありますか?  お風呂に入る事ですね。一番症状がひどかった時は身体が痛くて自宅の湯船に入る事すら大変だったのですが、そんな時でもひたすらお湯につかって身体を温めるとずいぶん楽になりました。今は時々銭湯 『蛇骨湯』にも行きます。 🍀病気になって気づいた弱さや生きづらさを抱えた人の気持ち ———病気をしてから変わった事はありますか?  はい。なんだか人に寛容になりましたね。母も看取りましたしね。私自身は元気で活動的なタイプでしたので、昔は具合が悪いという人がいても、実は内心「大したことないのでは?さぼってるのでは?」という見方をしがちだったのです。このため「心が衰える」ということが実感としてよくわからなかったんです。でも自分がリウマチになって、毎日あちこちが痛く、なかなか治療法も定まらず、いろいろな事が自分の思い通りにならないというのを始めて体験して、弱さを持った人に優しくしようと思うようになりました。 ———感じ方が変化したのですね  そうですね。とはいっても、私は以前も今も1人でいることが苦痛ではないんです。べったり甘えあうような距離が近すぎる関係って苦手です。シンプルで普通の暮らしを淡々と送るのが自分らしいと思っています。今は規則正しい生活で薬もきちんと注射していますし体調に不安はないのですが、やはり地元に浅草の友達や幼なじみのみんながいることは心強く感じますね。 レンタル着物屋さんの社長とカフェバー『鈴楼』のスタッフ。浅草の若いお友達です ———地元の方っていいですね。  ええ、私より若い世代の浅草の友達といっしょに過ごすのも刺激があり楽しいです。それから同級生も多いです。雷門通りの鞄屋さんとか、橋場で大工やっている子、お豆腐屋さんとかね。商売していた人もみんな子どもが独り立ちしてもうのんびりしています。みんなどこか具合悪いとこがあるから病気の話もしますよ。血圧自慢になったりね。銀座のバー時代のお客さんも浅草にくれば声をかけてくれます。私にいろんな事を相談してくる人も多いんですよ。昔の友達に会えば一緒に過ごしてきた昔の時間に戻り、温かい気持ちになれます。「アタシ誰の世話にもならないわって!」なんてこっそり言うんですけど、やっぱり浅草は私の故郷。友達が近くにいることに「ありがとう」と言いたいです。 インフォメーション:関節リウマチ 関節リウマチは自己免疫疾患の一つで、全国に70万〜80万人の患者がいると考えられています。病気の男女比は1対4と女性に多く、高齢者の病気のような印象ですが実は働き盛りの30~50歳代がかかりやすい病気です。免疫の異常により関節の滑膜という組織に炎症が生じます。関節痛に加え、全身倦怠感や疲れやすさが特徴的です。手の指や足の指などの小さい関節の痛みで発症に気付く場合が多いですが膝などの大きな関節が侵されることもあります。全身の関節に進行していく病型の患者さんの場合、指や手首の関節が破壊され、指が短くなったり、関節が脱臼して強く変形することがあります。また背骨の変形などにより脊髄が圧迫され、手足が麻痺したり、呼吸がしにくくなる場合もあります。リウマチの経過にはいくつかのパターンがあると考えられており、病気の発症後短期間で多くの関節の破壊が進む患者さんもいれば、初期だけ症状があり1−2年で自然と寛解にいたる患者さんもいます。最近は生物学的製剤などの治療薬の進歩により、早期に診断して治療を開始できれば、病気の進行を最小限に食い止められるようになってきています。 (撮影)多田裕美子 取材協力:カフェバー『鈴楼』  珈琲ホットケーキ『天国』  レンタル着物『浅草衣匠 弥姫乎』

  • おしゃれなビジネススーツ。いつも笑顔で理路整然とお話します

    【第11回】認知症になっても希望と尊厳を持って生活できる社会をつくるために活動したい。いつも助けてくれる弟に「ありがとう」

    佐藤雅彦さん プロフィール 954年岐阜県出身名古屋・名城大学理工学部数学科を卒業後、中学の数学の教師として勤務。その後民間のコンピューター会社のシステムエンジニアに転職。2005年51歳でアルツハイマー型認知症と診断される。「認知症であっても不便だが不幸ではない」と全国で自身の体験を語る講演を行う。「認知症とともに歩む本人の会」(埼玉県川口市)を主催。日本認知症ワーキンググループ共同代表。 🍀認知症は不便だけど工夫いっぱいの明るい一人暮らし 著書『認知症になった私が伝えたいこと』(大月書店刊)は2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞しました。 歩き慣れた道を散歩し、お気に入りの喫茶店にも1人でいきます ———佐藤さんは51歳で認知症と診断されてから11年間も一人暮らしをされているということですね。  そうです。ただ食事の支度が負担になってきたので、昨年6月にケアハウスに引っ越しました。ここでは食事のほかに風呂の準備もしてくれるので助かっています。 ———毎日どんな風に生活していらっしゃるのでしょうか?  日曜日は教会の礼拝、月曜日はヘルパーさんがきて掃除をしてくれます。水曜日は聖書の勉強会、週末は認知症について講演会の講師をすることもあり、地方出張や行楽地にも行きます。朝は6時に起き、調子のいい時は散歩に出ます。朝食後はFacebookの更新をしたりパソコンでその日のスケジュールを確認します。 ———本の出版もなさっていますし、こうしてお話していても記憶障害があるようには見えないのですが。  よくそう言われたりしますが、実際には直近の記憶が保てないのです。例えば私は糖尿病で自己注射をしていますがインシュリン注射を打った事を3分も覚えていられないんです。電話で人と約束をしても、何日の約束かをすぐ忘れてしまうからiPadに記録したり、お話は録音したりしているのです。前日に何を食べたかも記憶はできないので、食事も写真でiPadに記録しています。そして食事の写真を見れば食べたものを思い出せますから。 ———佐藤さんから見える世界ってどのような感じなのでしょうか教えて下さい。  例えば普通の人は町を歩いているとそれをムービーのように覚えるんだけど、私は風景をコマ写真のようにぽつぽつとしか覚えていない。だけど「町の中にあるランドマークの前をいくつか通りすぎれば目的地に着くでしょう」という感覚で捉えています。 🍀「記憶する」の代わりに「記録する」必要に迫られて覚えたiPad 取材の様子も忘れないうちにさっそくFacebookにアップ ———いつもiPadをお持ちですが認知症になってから使い方を覚えたそうですね。  そうです。自分の暮らしに「これがあったら便利だな」というのを気づいたらいつでも忘れる前にiPadに入力するようにしています。設定は詳しい人にお願いしました。「記憶が悪いのでメモしておくためにぜひ使いたい」と必要に迫られればiPadは誰でもできるようになると思います。 ———物をなくしたり忘れたりする失敗もあると思いますが大丈夫なのでしょうか?  財布や携帯を忘れたりすることはよくあります。対策として出かけるグッズを一カ所にまとめたり玄関のドアに持ち物確認リストを貼るなど工夫をしています。大切なものを失くした時は焦って探すとよけいに混乱するので出てくるまで待つようにします。鍵やSuicaなどは予備をもっています。携帯電話も連絡先など大切なデータはバックアップを用意しています。 🍀記憶障害により次第に仕事が出来なくなって行くつらい日々 ———若い頃はシステムエンジニアとして忙しくお仕事をなさっていたのですね。  はい。仕事一辺倒の人生を送っていました、性格は真面目でもの静かなほうでした。忙しい時には仕事をよく家に持ち帰っていましたね。当時体調を崩したこともあり人生の目的を求めて、キリスト教の教会に通うようになりました。39歳で洗礼を受けました。 ———認知症の兆候はどんなことだったのでしょう?  アルツハイマー型認知症と診断されたのは51歳の時です。45歳ころに課内会議の議事録が書けないなど仕事がこなせなくなり、2年間休職しました。復職後は配送係に配置転換されましたが、次第に配送先の場所を探すのに時間がかかるようになりました。 ———それで受診されたわけですね。医師からはどんな説明を受けましたか?  精神科を受診して、問診の後CTを取り、脳に萎縮がみられるとのことで、アルツハイマー型認知症と診断されました。病気に関する説明もいっさいなくショックで思考停止状態に陥り、会社を3か月欠勤した後、退職しました。 ———診断により、精神的にひどいダメージを受けたわけですね。  はい。その後、本で調べると「考えることが出来なくなる」「多くの場合は6年から10年で全介護になる」とあり絶望を感じました。知識が増えるほど、気力を失う地獄のような毎日でした。食事を作る気力もなくやせて動けなくなっていました。弟が岐阜の兄の家で静養する手配をしてくれまして、岐阜に戻り50日の間、兄嫁に毎日食事を作ってもらいました。 🍀「私が耐えられる試練を与えられたのだ」と信じること ———そんな状態だったのに岐阜で50日間過ごした後再びご自宅のある埼玉に戻れたのはなぜですか?  次のような聖書の言葉に支えられ教会に行きたいと思う一心で埼玉へ戻ってきたのです。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント10:13)  この聖書の言葉を読み「自分の命は自分のものではない。神から与えられたものだから大切にしなければいけない」と思いました。これが立ち直るための力となりました。 「与えられた命を大切にしなければ」と気づき立ち直りました。 ——— 一人暮らしを続けるには気持ちにプラスしてどんな具体的支援が必要でしたか?  介護保険を申請し、配食サービス、ヘルパーさんを頼むなど制度を利用することにしました。手続きをしてくれたのは弟です。弟は最初の診断にも同席し「私が一緒に住んで面倒をみます」と言ってくれました。今もパソコンの設定を手伝ってもらったり、弟にはとても感謝しています。 🍀「出来ない事」ではなく「出来る事」に着目し新しい人生を生きる ———認知症の診断を受けて落ち込んでいるご本人は事態をどのように考えればいいのでしょう?  まず、認知症と診断されても何も出来なくなるわけではないということを知ってください。是非、まずは同じ病気の仲間の発信する意見に耳を傾けてください。インターネット上にたくさんあります。読んでいただけば、「自分だけではない」と気づき元気をもらうことができるはずです。生活していく上でのヒントもたくさんみつかります。 兵庫県三田ハニーFMラジオに出演し認知症の偏見をなくすための話をしました。 当事者の発信する情報を是非みてほしいです ———お医者さんについてはどのように考えればよいでしょう?  私の精神科クリニックの先生は非常に良い先生ですね。いい先生は患者の意向を汲んで必要な提案をしてくれます。患者から学ぼうというような気持ちがみじんもない医師は困ります。良くない医師なら転院も考えていいと思います。それから、できるだけいい診察を受けるために、私は診察前に聞きたい事はメモして行くように工夫しています。 ———診断に対してご家族など周囲の人はどんな態度をとればよいですか?  周囲の人は「本人が元気になるのを信じて待つ」という態度で接してください。多くの認知症のご本人は「自分の状態は言っても伝わらないだろう」と思って言わない可能性があります。「本人には出来ない」と思われたほうが家族関係はスムーズに行くと思っている。あるいは前向きな思いはあるが、それを適切な表現にして表す能力が失われている可能性もあります。例えば料理ができないという場合でも、切る、煮る、味付けなど調理には行程がたくさんあります。よく調べて「出来ない」という状態を分析し、その部分だけを支援すれば「出来る」になるかもしれません。 ———偏見は当事者の方自身の中にもあると思うのですが?  それはまず疑って自分で検証してみることです。たとえば「何も考えられなくなるって真実なの?」と常識を見直す。「それは誰が証明したの?」と冷静に考える。私は検証しながら自分の偏見を変えたので、今、私の中に認知症に対する偏見はないです。世間の偏見については時間がかかっても、私は一つずつ身を持ってなくしていこうと考えています。 🍀自分に素直になる。正直になる。謙虚になる。 ———佐藤さんはどうしてそんなに諦めないで頑張れるのですか?  それは新しい人生を始めたいからです。「認知症の人がこうすれば充実した人生を送れる」ということを、身をもって示したいのです。当事者の方は自分の能力を低く見積もらないことです。家族や社会に対して小さくともできることをする。「自分は社会のお荷物ではない」と考える事が大切です。私はそのためにいつも自分の「出来る事リスト」を作って更新しています。支援を求めるカードも作ってみました。 認知症であることを公表する手作りのカード 2月の出来る事リストの一例 ・ 近所に一人で、散歩に行くことができる。・ 取材で自分の言いたいことが、伝えられる。・ 定時に血糖値を測定することができる。・ 頭痛もなく、風邪もひかず毎日おいしく食事がとれる・ 困りごとの対策を考えることができる。・ 認知症の仲間を勇気づけることができる。・ 認知症の人の支援者を元気づけ逆支援することができる 支援者の友人と新宿御苑で散歩を楽しみます 佐藤さんが臨床美術という会に参加し描いたスーパームーンの絵 ———とても活動的で週末は講演の他にいろいろお出かけもしているのですね。同行してくれる方募集などもしているそうですね。  はい。一度Facebookに「ミュージカルを見に行きたい」と書いたら、友人の1人が「佐藤さんと一緒に芝居を見に言ってくれる人いませんか?」と周囲に聞いてくれてその方の知り合いから申し出があり、『ライオンキング』を観に行くことができました。恥ずかしがらずに素直に助けを求め、助けてもらった事に感謝することも大切です。 ———充実した暮らしを維持することができていて素敵ですね。  はい。失われた能力に嘆くのではなく今あるすべての物に感謝しています。素直になり、正直になり、謙虚になることです。発症時の一番大変な時を支えてくれ、今も日常を助けてくれる弟の晴紀さんに「ありがとう」と言いたいです。認知症は不便ですが不幸ではありません。そして困難は人生を豊かにするための糧です。試練には必ず脱出の道があります。認知症になっても将来に希望を持ち、残された能力に感謝して、精一杯生きていきたいです。 インフォメーション:アルツハイマー型認知症 アルツハイマー型認知症は、脳にアミロイドβやタウと呼ばれる特殊なたんぱく質が溜まり、神経細胞が減っていくために、記憶障害が起きたり、情報を伝える事が出来なくなる病気と考えられています。国は2015年に認知症の総合施策を策定し、その中で早期診断・早期対応の支援体制を打ち出しました。従来は症状が悪化してから始めていた支援を、認知症の疑いが出たときから看護師や医師、介護福祉士などの専門家の初期集中支援チームで支援するものです。チームのメンバーが本人の悩みや不安を聞き取り、医療や介護など適切な支援につなげる取り組みが始まっています。 ■認知症とともに歩む本人の会佐藤さんが主催する川口市を拠点とした当事者会http://www.sato-masahiko.com ■3つの会@web「つたえる」「つくる」「つながる」3つの「つ」を通して認知症の方々が参加するWEBサイトコミュニティですhttp://www.3tsu.jp (撮影)多田裕美子   取材協力:カフェまどか(埼玉県川口市)

  • 山下公園は海の広がる景色を楽しむお気に入りの場所

    【第10回】過去のがんによる痛み、苦しみさえも癒してくれた。素直な自分のままでいさせてくれる夫に「ありがとう」

    多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。  はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか?  再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか?  16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。  手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいOL生活を襲った「悪性リンパ腫」 ———25歳の時に、甲状腺のがんが再発してしまったのですか?  いいえ。甲状腺のがんとはまったく別の悪性リンパ腫という血液のがんです。21歳の時に甲状腺機能を整えるためにアイソトープ治療を行いました。体調がとてもよくなり、仕事の後のスポーツジム、スキーや海外旅行と充実した楽しい日々を送っていた頃でした。 ———病気になる前には何か前兆のようなものはありましたか?  25歳の秋に、風邪がずっと治らない感じになりました。朝は微熱があり出勤すると一日中くしゃみと空咳、鼻水が止まらず、午後2時頃になると背中に漬物石が乗ったようにだるくてたまりません。見かねた上司の勧めで耳鼻科を受診しました。初診で鼻の中に腫瘍があると診断され、すぐ大学病院での検査となりました。検査の結果、悪性リンパ腫と診断されたのです。 中華街のブティックROUROUで。明るくてきれいな色の服を着ると元気が出ます。 🍀放射線治療に続いて過酷な抗がん剤治療に耐える日々 ———いきなり悪性リンパ腫との診断、ショックだったことでしょう。治療は、手術ではなく放射線治療と化学療法(抗がん剤治療)の両方を行ったのですね。  はい。鼻の腫瘍の部分に毎日1分間程度の放射線照射を20回しました。放射線治療は午前中に放射線を照射すると、昼は食欲が減退し、午後2時くらいになるとさらに気持ちが悪くなり、ベッドで雑誌を読む事すら出来ない感じです。放射線でがんを小さくした後は、転院し自家末梢血肝細胞移植という治療法を選択しました。これは致死量に近い大量の抗がん剤を点滴で入れて癌を徹底的に叩く治療法です。抗がん剤の大量投与による吐き気は本当に激しいものでした。白血球の減少のため後半は無菌室での治療となりました。闘病中は会社時代の友人や小学校時代の友人が次々にお見舞いにきてくれました。中でも心の支えとなったのは小学校時代からの親友の存在です。いつもずっと変わらない態度で接してくれる大好きな友人です。 ———治療はどのくらい続きましたか?  1997年の10月に告知を受けてから放射線治療を受け、それが終了したのが12月末、その後抗がん剤の治療が年明けから5月末まで続きました。 ———約7ヶ月におよぶ、壮絶な治療をやっと終えられたのですね。  はい。でも実は、がんの治療を終了した時が私にとっては精神的に一番つらい時期でした。「医療的にはできることはやり尽くした。でもいつ再発するかもわからない」という不安な状態での自宅療養で、早く元気にならなければと焦っていました。そんな時、家族が言ってくれた「あなたの好きなように生きなさい」の一言。急に気持ちがラクになったことを覚えています。 🍀心の中の言葉を紡いで書いた友に捧げる闘病記 著書の「へこんでも」新潮社刊コンニャロー☆の帯が印象的。 ———闘病記はどんな風に書いていったのでしょうか?  最初は知人の勧めで書き始めました。お見舞いに来てくださった方のことを書いた私の日記、気持ちを綴っていた母の日記、治療経過を記録していた父の日記、そして医師の言葉や治療のこと。私の心の中に記録していたものを再現しながら自分の体験を物語にすることで、私は自分を取り戻していきました。もう一つ描きたかったのが、同じ病院で闘病生活を送った同年代の友人のこと。彼女は残念ながら亡くなりました。ユーモアがありいつも明るく笑い支え合っていたかけがえのない友人です。彼女がこの本の中、そして読んでくださった方の心の中でずっと生き続けてくれることを願いながら書きました。 ———つらい体験を語る闘病記でもいつも明るく元気なのはどうしてですか?  実家、多和田家での育て方がどうやら「よりよく生きる」のようなんです(笑)母や妹から「なってしまったものはしょうがない。どうせ同じ時間を過ごすなら泣いてすごすより笑って楽しく過ごそうよ」と言われます。父は言葉では何も言いませんが、その意見に賛成のようです。 🍀闘病記出版は「終わり」ではなく「始まり」 患者会の活動で友人とよく立ち寄る中華街の関帝廟で。 食べることが大好き。ここ中華街には夫婦でよく来ます。 ———闘病記からさらに患者会活動へと発展していったのはなぜでしょう。  当初は闘病記を書いて「これで終わり」と思っていたのです。でもいろいろな反響があり、「もしかしてこれが始まり?」って。いわゆる普通の女の子だった私ですが「がんになるってどんなことなのか」を皆さんにお伝えしたいと思うようになりました。闘病記を出版社の元上司に送ったことがきっかけで、現在の悪性リンパ腫の患者会グループ・ネクサスを紹介されました。 ———患者会で、多和田さんはどのような活動をしていますか?  現在、私は講演でお話をしたり、お茶会の司会のほか、本を通じて知り合ったマスコミの方などに対して患者会の広報的な仕事をしています。抗がん剤治療による美容上のお悩みのある方を対象にしたビューティ−セミナー、治療法の選択などで悩んでいる患者さんと一緒に問題を整理するお手伝いをするというスタンスで相談業務にも関わっています。 ———がんの患者会の活動をともにしているネクサスの代表 天野慎介さんと昨年ご結婚なさったのですね。おめでとうございます。  ここ横浜のホテルニューグランドは結婚式を挙げた思い出の場所です。彼は同じ悪性リンパ腫の闘病経験を持つ患者です。以前からともに活動してきました。彼が会員さんのために、事務所に仮眠用ベッドを持ち込んでまで仕事をしている姿を見て、その活動をずっとそばで支えていきたいと思いました。 横浜ホテルニューグランドは結婚式をあげた思い出の場所 🍀生きながら死に近づいていることを素直に受け入れられた ———幸せいっぱいの多和田さんですが、昨年突然小脳梗塞になられたんですね。  そうなんです。患者交流会の司会中にめまいとひどい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれました。幸い血栓を溶かす点滴治療で助かりました。歩行訓練などのリハビリを行った結果回復し、ほぼ日常生活に支障はなくなりました。 ———一番幸せな時期に、突然の病気はかなりショックだったことと思います。  そうですね。でも脳梗塞で入院した時に過去の闘病生活にはなかった安心感を抱きました。これまでももちろん家族や友達などに支えられてきました。でも本当の私はどこか孤独で「不安な気持ちは自分の中にとどめておかなければいけない」と頑張っていた。でも今回、私は何も心配せず素直な自分のままでいられたのです。それは夫がいてすごく支えてくれているから。ありがとうってあらためて口に出してはいませんが…。体調のことで落ち込む事はあったけれど、死への恐怖が今までとは違ったのです。もちろん死ぬのは怖いですよ。でも人って生きながら死へも近づいているのだなという事実を素直に受け容れられたんですね。脳梗塞になったことさえも、それだけ長く生きられた結果なんだなって…いつのまにか私の中で過去のがんの痛みや苦しみさえも癒されているということに気づいたのです。 そばにいてくれる夫に「いつもありがとう」の言葉を伝えたいです。 ———今一番したいことは何でしょうか?  彼と旅行に行ってみたいですね。25歳の時に海外旅行に行って以来、海外旅行はしていないのです。新婚旅行も行きたいな。これから彼と一緒に違った世界を見てみたいなって思います。 インフォメーション:c 悪性リンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れて、腫瘤ができる病気です。リンパ腫はリンパ節以外の部位も含めてからだのさまざまな部位に発生する場合があります。有効な治療法には、放射線療法、抗がん剤による化学療法などがあり、血液内科など血液疾患に詳しい医師による治療が勧められます。 一般社団法人 グループ・ネクサス・ジャパン悪性リンパ腫の患者会。会員約1300名。2001年設立。悪性リンパ腫の患者さんやその家族への情報と交流の場の提供と共に、疾患に関する普及啓発に努めています。調査研究や政策提言など悪性リンパ腫を取り巻く環境の改善に尽力する団体です。http://group-nexus.jp/nexus/ (撮影)多田裕美子

  • 石井匡さん

    【第9回】見守る、許す、助けてもらうことを恐れなくていい。分かち合える幸せをくれた妻に「ありがとう」

    石井匡さん プロフィール 看護師 病院勤務1978年生まれ 埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)出身 看護師歴16年。最初に勤務した病院では外科・内科混合病棟に勤務。その後総合病院に転職し現在は消化器外科病棟の看護師として勤務する。29歳の時、離婚問題が原因でうつ状態となる。職場の理解や友人のサポート、鍼灸治療により回復し健康を取り戻す。その後再婚し新しい家庭生活をスタート。病棟の看護師としてマネージメントや後輩の教育など、管理職としても活躍中。 🍀幸せだったはずの家庭が突然崩壊しはじめた衝撃 ———看護師さんのお仕事は夜勤もあり、かなり激務というイメージがありますが。  そうですね。もう慣れていますが、平均して1か月に5~6回の夜勤がありますし、定期的なシフトではないので体調管理のリズムは作りにくいかもしれません。たまに寝不足でイライラする事はありますが、この仕事を選んだ以上それは当然のことだと思っています。 ———まだ男性看護師さんは少数派ですか?  はい。男性看護師は増えてきていますが圧倒的に女性の職場ですね。看護学校を卒業した時、同級生の中で男性は二人でした。でも職場では性別に関係なく誠実に接していれば患者さんは受け容れてくれますし「男の看護師さんってやさしいよね」とこっそり言われる事もあるんですよ。 ———不規則な勤務体制や職場のストレスから深刻な抑うつ状態になられたということですか?  うつ状態になった直接の原因は、仕事ではなく家庭生活のほうでした。23歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ家庭を大切にしていたつもりですが、20代前半はどうしても仕事に集中しなければならない時期が続きました。29歳になってやっと仕事にも余裕が生まれ家庭も楽しむことができそうという感じになってきた時、妻による精神的な攻撃が始まったのです。 ———精神的な攻撃とはどんなことなのでしょう?  突然、妻が私の一挙一動や過去のことを徹底的に批判し始めたのです。私は仕事にもポジティブに取り組むほうですし、いろいろなことに正面から向きあい努力するタイプで、問題があっても話し合いで妥協点をみつけてきました。しかし、人からあれほどまでに攻撃的な言動をぶつけられた経験はありませんでしたし、ずっと一緒に暮らしてきた妻の態度だけに衝撃を受けました。 あらゆることに文句を言われ、否定され「離婚したい、出て行ってほしい」といった言葉の暴力が約3ヶ月続いたことで私は次第に自信を失い、何事にもビクビクするようになっていきました。 🍀友人からの指摘に「そうか、これがうつなのか」 専門知識はあっても殻に閉じこもってしまうと自分の状態に気づけなくなる ———どんな症状になったのでしょうか?  本当に、全然眠れないのです。「よく寝たな」と思って目が覚めて時計を見ても長くて2時間しか眠れていません。心配した友人が飲みに行こうと誘ってくれるのですが「こんな状況で飲み会にお金を使っていいのか?」と、それも不安になる感じで、1人で家でぼーっとしている事が増えました。食べ物が何も喉を通らなくなって、もともと60kgだった体重は52kgになっていました。約4ヶ月くらいはまともな食事を取れなかったですね。 ———そのような精神状態で看護師のお仕事は大丈夫だったのでしょうか?  幸い職場が病院で、メンタルヘルスに理解のある仕事場だったので、上司に事情を話し1週間休ませてもらいました。その後出勤してもいつも通りの仕事はできない状態でしたが「仕事には来なさい」と言っていただけたことが幸いでした。 ———医療者としてうつに関する知識は持っていたのですか?  仕事がら知識はあります。しかしこれが自分に起きた時には、いま抱えている問題のほうに意識が向いているので、自己修復はなかなか難しい。自分でもおかしいなと何となく気づいてはいるのですが人にはなかなか相談しづらく、次第に殻に閉じこもっていきました。 ある日誘われたお酒の席で友人の1人が「こりゃあ、うつだろう」と言ったんですね。その時初めて「そうか、これがうつなのか」と。 ———精神科などは受診はしたのですか?  完全な抑うつ状態だったと思いますが、うつに対する薬が自分の今の状態に効くのかどうか疑問があり、職場の医師に睡眠薬だけを処方してもらっていました。看護師をしていますが、私自身は薬はいろいろある選択肢の1つと考えています。薬で症状を抑え、その薬で出てしまった副作用をまた別の薬で抑えるというような、過剰に薬に頼るやり方には疑問を感じていました。ただ、食べられないし眠れない状態だけは何とかしなくてはと思い、男性看護師の先輩で、現在は鍼灸師をしている草間健二さんに、鍼でなんとかならないか相談しました。 🍀「言い出す勇気」から動き始めた回復への道 ———鍼灸師の草間さんはどんな治療をしたのでしょうか?  草間さんは照明を落とした静かな施術室で、私の話に相づちを打ちながらお腹や足に鍼をさしていきました。遠赤外線でお腹もぽかぽかとあたたまってきて、自分が久しぶりにリラックスしていることを感じました。10本目くらいだったと思いますが、お腹に打った鍼を草間さんが手で軽く回した瞬間に、ズッコーンと体の中に響く感じがしました。胃が刺激されたのかキューンと動き、ググーッとお腹がなったのです。4ヶ月ぶりに空腹を感じた自分に驚きました。施術のあと本当に強い空腹を感じたので、そのまま草間さんと鍼灸院の向かいにあるステーキハウスに行ってステーキを食べました。 鍼治療にくわえて先輩のカウンセリングの効果も大きかった。現在も疲れると鍼治療をしてもらう。 ———鍼ってそんなに即効性があるものなのでしょうか?  鍼だけの効果ではなかったと思いますが、この事が僕の転機になったことは確かです。まず状況を分かってくれていて信頼できる友人(草間さん)に助けてほしいと「言い出す勇気」を出せたこと。それから、問題が発覚してからずっと緊張状態でいたことを受け止めてもらえた感じがして、ふっと緊張がほどけた。「手当て」と言う言葉がありますが、鍼を打つ際に手で体に触れてもらったことの安心感も大きいと思いますね。 ———そこからどうやって本格的な回復に向かったのでしょうか?  まず日常に戻るために、食事を定期的に食べるように意識しました。食べられればお腹がいっぱいになり眠気もきます。睡眠薬を使って強制的に眠るのではなく、自然に近い流れの中で眠れるように変えていきました。眠る事、食べる事ができるようになり、少しずつ本来の自分を取り戻して行きました。 しかし、そんな時、妻の私に対する攻撃的な言葉や態度、離婚を望む理由が、私の問題ではなく、実は妻の不倫であることが分かったのです。はっきりとそれを知った時には、裏切られた思いからそのままふうっと電車に飛び込むことも考えました。そんな様子を見た友人が腕をつかんで「今死ぬ気でしょ」と言ってくれたのです。その言葉で我に返った瞬間「ああ、彼女との修復のためにできることはすべてやり切った。離婚しよう」と決心がついたのです。その後約3年がかりで裁判をし、離婚が成立しました。 🍀人を信頼し、頼る事で生まれた新しい関係性と働き方 車での移動時間は仕事・家庭の切り替えを行う大切な時間 ———うつ状態から脱出する為にはどんな事が必要なのでしょう。  僕の場合は家族関係で起きたことですが、他人から繰り返し執拗な攻撃を受けた場合、日頃ポジティブで真面目に物事に取り組む人ほどダメージが大きいような気がします。自分の殻に閉じこもってしまわないように、日頃から相談できる相手を持っておく事が大切だと思いますね。飲み友達、仕事のことを議論できる人、その人といるだけで笑いたくなる人など、いろいろなタイプの人がいるといいです。それから、いろいろなことをリセットしなければならない場面でも、何か1つは前の生活と変わらないことを維持するのも大切だと思います。 僕の場合は仕事や住むところ、車での通勤を維持し続けることでした。 行きつけの飲み屋もある住み慣れた自宅近くの商店街。 ———それまではあまり人に頼らず頑張るタイプだったのですね。  はい、それまでは仕事の場面でもどこかで「自分がやらなきゃ」と思っていました。しかし、思い通りに働けなくなる状態を経験してみて、自分がそこまでがつがつしなくても仕事が回ることを発見しましたし、リーダーとして後輩を育てる場合も、見守る・許す・助けてもらう事を恐れなくていいと思うようになりました。自分自身の考えがガラッと変わりましたね。出来ない後輩がいても、そのうち出来るようになるから安全だけは気をつけて見守るということができるようになった。 ———その後今の奥様と出会ってご結婚なさったのですね。  はい。妻は同業者で看護師ですが、とてもゆったりとした穏やかな人柄です。優しく私に歩調をあわせてくれる。仕事の忙しさも理解してくれるので自分の納得できる仕事を彼女に気を使わずにやらせてもらうことができています。 ———奥様初め、ずいぶんいろいろな方に助けていただいたのですね  そうですね。僕の状態に理解を示してくれた上司、職場の同僚たち、自殺しそうな時に腕をつかんで止めてくれた友人、鍼灸師の草間さん。みんなに感謝しています。でも誰か一人をと言われたら、再婚した今の妻に感謝したいです。 妻の前では職場で感じたことなどを安心して話す事ができます。彼女は私の話をまず受け止めてくれます。そして感じた事を全部話したあと、妻の考えを聞くと、私と驚くほど価値観が似ていることが少なくありません。だから彼女に一回話してみることで、自分を一度リセットして、そのことをもう一度客観的に積極的に考える事ができるのです。家庭でも妻と仕事の話を分かち合えることが本当に幸せだと思っています。 インフォメーション:気を整える事でメンタルを改善する 石井さんは、もともとは元気で発散系のタイプの人ですが、当時はその発散するエネルギーがなくなるほど体が衰弱しきっており、これ以上悪くなると入院が必要という状態でした。そこで、まず食べられる状態にすることで、睡眠がとれるようになることを目指し治療しました。あの時は治療した私自身が驚くほどの効果が出ました。腹と足の指に鍼を刺して胃を刺激することが改善のきっかけとなったと思います。鍼をつぼに打つ事で気のバランスを整える効果もありますが、安心できる場所で施術しながら同時にカウンセリング的な対話をしたことで、数ヶ月続いた緊張から解き放たれた部分も大きいと思います。鍼灸は体全体のバランスを整えるもので、体の気の下がっているところを持ち上げていくという感覚で施術を行います。 草間健二さん 鍼灸 健美・大山 院長鍼灸師・看護師 (撮影)多田裕美子

  • 親子で岡山から新幹線で上京。六本木から霞ヶ関までパレードしました。

    【第8回】普通の人生ではありえなかったつながりをもたらしてくれた宝物。娘が私を選んで生まれてきてくれたことに「ありがとう」

    川井千鶴さん プロフィール 1975年生まれ 岡山県出身聴覚障害をもつ両親の元に生まれる。2004年の風疹大流行時に自身が風疹にかかり、その後長女七海ちゃんを出産。現在11歳になる七海ちゃんは先天性風疹症候群と診断され、難聴、肺動脈狭窄症、てんかん、知的障害などさまざまな障害が重複している。 全国組織 『 風疹をなくそうの会 hand in hand 』 岡山支部代表として活動中。パート従業員。趣味はカラオケなど 🍀知らされなかった「妊娠中に風疹にかかること」の危険性 「知らなかった」ことで誰かに同じ後悔をしてほしくない。 ———川井さんがお子さんの七海ちゃんを出産なさったのは2004年ですね。  はい。28歳で妊娠し29歳の時に七海が生まれました。2004年は風疹が大流行した年でした。 ———七海ちゃんは現在11歳。障害があるということですが…。  聴覚障害のほかに、自閉症、てんかん、肺動脈狭窄症状があり、知能は2歳程度と言われています。 ———風疹というのは子どもだけの病気ではなく大人もかかるんですね。  そうです。妊婦さんが風疹になると、お腹の中の赤ちゃんに影響し、障害が残ることが多いといわれています。妊娠中に母親が風疹にかかりその影響を受けた子どもの状態を先天性風疹症候群(CRS)といいます。 ———風疹の予防法として予防接種があるそうですが、川井さんご自身は、風疹の予防接種をしていたのでしょうか?  私は学校で集団接種で受けているはずの年代と言われていますが、記憶はありませんし、自分で医者にいって接種した覚えはないです。 ———産婦人科では風疹について説明がありましたか?  妊娠して6週目、産婦人科で検査を受けた際に「風疹の抗体がついてないね」と言われています。その後2週間くらいの間に、私は風疹にかかりました。 ———「抗体がない」と言われた時どうしようと思いましたか?  当時はまったく知識がなかったのです。そう言われても何をどうしたらいいのかという説明もありませんでした。 🍀産科医から「ここでは産めない」と言われる衝撃 ———風疹にかかったとわかった時、お腹の赤ちゃんへの影響については説明されましたか?  医師からは「奇形児が生まれる」と中絶を勧められました。「ここでは産めない。産むんだったら、紹介状を書くから」と。 最初は理解ができず、時間がたつにつれて涙がでてきました。実は体調の面で、もう妊娠できないかもしれないと言われていた時にやっとできた赤ちゃんです。それなのに…。母親にも相談しました。私の母は聴覚障害者ですが、「風疹の影響で障害児になるかもしれない」と言われ、母にも出産を反対され号泣しました。さんざん泣いたあとで「この子は自分のところに降りてきた子だから、私がしっかり守ってやろう」と決めたんです。 ———とにかくお子さんを守るのだと言う母の決意ですね。  はい。それで紹介された産婦人科に行くと、産科、小児科の先生が何時間もかけて説明してくれました。それでも私の産みたいという気持ちは変わりませんでした。先生は私たちの表情をみて、「協力する」と言ってくれました。唯一私を救ってくれたのが私の担当になってくださった産科医の女医の先生です。 🍀赤ちゃんに次々と現れた風疹症候群のおそろしい影響 保育器の中の七海ちゃん。1688gで誕生。 七海ちゃん1歳のころ。 ———それで出産に臨まれたのですね。  はい。七海は未熟児だったので保育器に入る必要がありましたが、その時点では小さいと言うだけで、問題がないように思えました。 ———いつごろから、症状が現れたのでしょうか?  保育器の外側をコツコツ叩いても反応がないので「この子は耳が聴こえてないんだな」と感じとりました。でも私の場合は、両親が聴覚障害者で、聾者の環境で育っているので耳のことは違和感なく受け止められたのです。 でもそれだけでは済みませんでした。心臓の検査の結果、肺動脈狭窄という病気があり血管が細いと言われ、さらに5カ月目にてんかんの発作が起きました。 その後も3歳くらいから、知的障害と多動、自閉症、そして小学校に上がる前頃からは睡眠障害が出てきました。細かく言えば他にもいろいろあります。 🍀コミュニケーションと身の回りの自立、どちらに特化した教育を選ぶべきか ———現在の七海ちゃんの状況はいかがですか?  ほとんど一日中見ていないといけない状態で、ひとりには絶対させられません。七海は学校から自宅まで送迎してもらっているので、私は夕方までの仕事を終えるととにかく急いで帰宅します。食事、入浴、そして薬を飲ませなければいけません。 2歳の頃 乳幼児教室で。ブランコが大好き。 ———七海ちゃんの人生を考えて、どのような学校を選ぶか悩まれたそうですね。  岡山にある聾学校は耳の教育が専門なんですが、最近は重複障害も受け入れるという体制にかわってきています。聾学校の隣に知的障害専門の学校もありますが、聴覚に関する教育を優先するのか、身の回りの自立を優先して教育するかで悩みました。その結果、人とのコミュニケーションを第一にと考え聾学校を選びました。 聾学校を選択し手話や指文字などコミュニケーション教育に力を入れることを決心 ———そろそろ思春期に入るころですが難しいことも増えてきますね。  そうですね。実は自傷行為が出ているのです。これは原因がわからなくて。第二次性徴期に入っているので、ホルモンバランスの関係も影響してくるようです。また耳が聞こえないため自分が伝えたいのに伝わらないなど、いろいろなことが重なっていると思います。 🍀妊婦だけではなく、働き盛りの男性にこそ予防接種を受けてほしい ———ご自身の体験から 『 風疹をなくそうの会 hand in hand (HP:http://stopfuushin.jimdo.com/)』 を始められたのは、正しい情報を世間に伝えたいということでしょうか。  そうです。妊娠20週までの女性が風疹に感染した場合、流産につながったり、七海のように胎児にも感染し、眼や心臓、耳などに障害を持つ子どもが生まれる場合があるということをみなさんにきちんと知らせたいです。 ———風疹は妊婦さんに感染すると、赤ちゃんの一生を左右する大病なんですね。  はい。夫がかかって妊娠中の奥さんや職場の女性にうつることも考えられます。例えば今から2年前2013年の流行の中心は成人男性で、女性の約3倍の人がかかったそうです。特に男性は昭和37年~平成元年生まれ、女性は昭和54年度~平成元年度生まれの方が多くかかったそうです。男女問わず予防接種が有効なのです。 ———どうして男女でかかりやすい年代が違うのですか?  風疹の予防接種制度が男女別、年代別で異なっているのが理由のようです。過去に風疹にかかっていれば抗体がありますが、風疹の予防接種については私のように記録や記憶も曖昧な方がほとんどなのが現状です。専門家によると20代から40代の女性にも抗体が低い、もしくは無い女性がいます。 ———妊娠可能性のある年代の女性だけが予防接種を受ければいいのでしょうか?  いいえ。男性も、年齢は問わず社会の人みんなが予防接種を受け、抗体をもって欲しい。そうすれば感染が広がることはなく、流行はなくなるんです。 親子で岡山から新幹線で上京。六本木から霞ヶ関までパレードしました。 ———風疹のことをもっとみんなに知ってもらう為のパレードにも参加しているのですね。  今年も7月2日に東京の六本木から霞ヶ関の厚生労働省までみんなでパレードしました。小児科医の先生もたくさん参加してくれて、厚生労働省で記者会見もしました。 七海は会見中に記者の人や厚生労働省の方などのところに行って1人ずつにハイタッチをして歩きました。彼女なりのコミュニケーションなのだと思います。シーンとした会議中ですから親としてはちょっとヒヤヒヤで恐縮しているのですが、会場の雰囲気が七海の動きによってちょっと和やかになっているのも確かなので…。 ハイタッチで会議室を何週もする七海ちゃん。厚労省にて。 ———さまざまな活動の成果はどうでしょう。  成果は感じられます。少しずつですが、男性でもワクチンを受けにきてくれる人が増えてきたという情報もあります。活動を続けてきてよかったなと思います。 🍀大変なことも多いけれど、たくさんのつながりに囲まれた幸せな毎日 昨年の運動会。母娘で頑張りました 夏の日比谷公園で。風疹の予防接種の大切さを訴えるパレードをおえて。 ———川井さんはお母さんとしてそして社会的な活動でも本当に頑張っていますね。  障害を持つお子さんを育てている人なら私以上に頑張っている人はたくさんいます。これも私の宿命です。そこから逃げようとは思いません。 現在入院中の私の祖母が、以前私に一度だけ「生んで後悔していないの?」と聞いたことがあります。私は「してないよ」と即答しました。私の母は赤ちゃんの時の高熱によって難聴になったそうですが、祖母はいつも泣いて母にゴメンネと言っていたようです。障害のある子どもを育てるという意味で私と祖母は同じ立場にいるのです。でもね、私より七海本人が一番大変なんです。風疹症候群は次に何がおこるか分からないので、いつも覚悟していなければいけません。 ———七海ちゃんの成長を感じるのはどんな場面ですか?  今は指文字と手話とジェスチャーでいろいろ話しています。それからもう少しでトイレの自立ができそうなんです。これはあきらめなくてよかったです。本当に少しずつですが、ちゃんと成長しています。 ———子育てを楽しんでいますね。  はい。とても。大変な事も多いけれど七海は幸せだと思います。 『 風疹をなくそうの会 』 では、みんなが親戚みたいに温かく接してくれます。本当に多くの小児科の先生が応援してくれて皆さんとつながっている。岡山でも行政の方や議員さん、大学の先生、みんなが七海を思ってくれる。普通の人生にはあり得ないような経験だなって思います。 七海がYouTube等を見て「お母さん一緒に踊ろう」と誘ってきたりするとうれしいです。運動神経がいいみたいで音は全く聞こえていないのに…いつも踊っています。いろんな表情をしてくれるし、毎日楽しいですよ。七海は私の宝物です。 インフォメーション:先天性風疹症候群 2012年度に実施された厚生労働省の調査によると、風疹の免疫を持たない人(1~49歳)は618万人(男性476万人、女性142万人)と推計される。このうち成人は475万人。職場などでの風疹の大流行はいつ起きてもおかしくない状況だ。風疹にかかると発熱や発疹、リンパ節の膨張がある。治療法は特にない。予防接種制度がなかったために風疹にかかりやすいのは2015年4月1日時点で36歳以上の男性と53歳以上の女性だ。妊娠20週目までの女性が風疹にかかると胎児が先天性風疹症候群になる可能性がある。風疹の抗体価の低い人は性別・年齢に関わらず予防接種を受ける事が推奨されている。特に海外で風疹が流行している地域に行く場合はワクチンを打って出かけたほうがよい。風疹をなくそうの会 HP http://stopfuushin.jimdo.com (撮影)多田裕美子

  • 「手術で胸骨を開いたため、いまも8本の針金で骨を止めている」と話す斉藤さん

    【第7回】自然、生命を尊ぶ生き方をいっそう大切にする転機となった闘病生活 支えてくれた誰ひとり漏らさずに伝えたい「ありがとう」

    斉藤裕樹さん プロフィール 1966年生まれ 東京都目黒区出身建築専門学校を卒業後、建築関係の会社を経て、1991年に斉藤企画を立ち上げ、建築金物設計や施工に携わる。2011年の東日本大震災をきっかけに食べ物や自然エネルギー、社会問題に関心を持ち、循環型社会のための活動に携わる。 2014年5月に僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断され、同年9月に手術。現在、病気療養中。 🍀年齢のせいにしていた「だるさ、疲れやすさ」が大病発覚のきっかけ 建築の現場でずっとアルミなど金属を扱う仕事に携わってきた。 毎朝食卓に採りたての野菜が並ぶ ———心臓の病気で手術をされたそうですが、最初に体の不調に気づいたのは?  2013年頃から体がだるく、疲れやすくなっていました。僕は自営業で、ベランダに手すりやもの干し等、雑金物をつけたりする仕事をしており、体力には自信があったので、まさか心臓に病気があるとは思ってもみませんでした。自分では「歳かな」「運動不足かな」と思っていたくらいで。 2012年までは自治体の定期健診を受けていたのですが、2013年は公私ともに忙しく、気づいたら健診の日にちが過ぎていたのです。1年間、だましだまし仕事をしていましたが、ずっとだるさが続いていたので「一度、検査してもらおう」と近所の病院を受診しました。そのときの診察で「循環器に問題がある」といわれ、順天堂大学医学部附属練馬病院(以下・順天堂医大練馬病院)を紹介されたのです。そこで初めて「心臓の弁がおかしい。2〜3年のうちに手術した方がいい」と診断されました。 ———心臓の弁がおかしいというのはどんな病気なのでしょうか?  病名は僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症というものです。心臓は右側に三尖弁、左側に僧帽弁があって、血を送り出す方の弁の僧帽弁がちぎれていたのです。実際に映像を見たのですが、血をギュッと送り込むときに、弁がひらひらと動いてしまう。 心臓がきちんと血を送り出せないので、もっとがんばらなくてはと心臓が倍ぐらいの大きさになっていました。そんな状態だったので、運動をしたわけでもないのに体がだるく、疲れやすかったのです。 原因は不明だと言われました。僕の身内にも心臓に病気を持っている人はいないし、まさに青天の霹靂というほかありませんでしたね。 ———病名がわかったのは、いつ頃ですか?  2014年の5月のことです。主治医から「もっといい先生がいるから行ってみなさい」と聖路加国際病院を紹介されました。転院して執刀医になった先生は国内でも5本の指に入る心臓手術の名医といわれる方でした。 その先生に「今年中に手術した方がいい」と言われたのです。これには本当に驚きました。手術までの約4ヶ月で、仕事先へ挨拶に行ったり、アパートを引き払って近くの実家に戻ったり、術前検査と、とても慌ただしく過ごしました。 奥様の野香さんと。実家の屋上にはお父さんが育てる農園があり、様々な野菜がなっている 🍀「このまま死んでも何もわからない」…不安を和らげたのはひとつひとつの励ましの言葉 ———手術をすることになり、斉藤さんご自身や周囲の人の反応はどうでしたか?  手術前はとても不安でした。全身麻酔も初めてだったので、もしこのまま死んでも何もわからないのだと思うと、本当に怖かった。ただ、ありがたかったのは、家族や仲間からの励ましです。友人からは「今、心臓の手術といってもそんなに大変じゃないみたいだよ」仕事先の人からは「あとのことは心配しないで。いつでも待っているからゆっくり休んできて」などと声をかけてもらいました。メール1つ、電話1本でもすごく嬉しかったですね。 ———手術も入院も初めての経験ということですが、どうでしたか?  手術当日は、朝9時頃、手術室に入って全身麻酔で意識がなくなり、目が覚めたら、ちょうど夜の9時でした。全身が管でつながれていたので、まったく身動きが取れず、喉が異常に渇いていました。といっても、水を飲むことはできず、氷をもらってしのぎました。手術の翌日には無理矢理、両側を看護師さんに支えられて立たされるんです。回復のために立たないといけないそうなのですが、それが辛かったですね。なにしろ、胸骨を縦に切って、心臓を取りだして悪いところを切り取り、縫い付けているわけですからね。痛いですよ。 予定では1~2週間の入院だったのですが、僕の場合、肺がつぶれたり、不整脈が止まらなかったりして、結局、20日間入院しました。 🍀手術後初めて風に当たると、理由のわからない涙が 退院後人体の構造に興味がわき、ネットで購入した模型 ———入院中、医療に関して疑問に思うようなことはありましたか?  僕は運がよかったというか、最初の病院から順天堂医大練馬病院、聖路加国際病院と転院がとてもスムーズでした。送り出す方も、受け入れる方も、どちらも感じがよく、イヤな思いをしたことはありません。執刀医の先生は東京と大阪を行き来しながら、後進の指導もしていました。患者さんの命を守るために、休みなく働いていて本当に頭が下がります。看護師さんもよくケアしてくれて、特に看護師長さんには時には「ダメじゃない、斉藤さん」と叱られることもありましたが、いつも優しく接してもらったりしました。安心して入院していられましたね。 ———入院中はどんなことを考えていましたか?  手術後、初めて病院の屋上の庭園に行き、木々を見て風に当たったときには、急に涙があふれ出て、5分以上、ボロ泣きしてしまいました。自分でも理由がわかりませんでしたが、それだけ気を張っていたのだと思います。 入院中は時間がたっぷりあったので、西洋医学や東洋医学などの医療のことや、ケアしてくれるお医者さんや看護師さんへの感謝の気持ち、退院した後のことなど、いろいろな思いが頭を巡っていましたね。退院してからさっそく人体模型を買ってきて、体ってこうなっているんだと改めてしみじみ生物の体のスゴさを感じました。 🍀手術を経て、「壊す」より「再生する」ことを大切にするライフスタイルへ ———退院後はどのような生活をしているのですか?  退院してしばらくは歩くのにもハァハァと息切れし、あまり長く歩くことができませんでした。とくに咳やくしゃみをすると、体の中からドーンと叩かれるような強い痛みがあってすごく苦しかった。いまでも痛みはありますが、以前ほどではなくなりました。いまは普通に歩けるし、車の運転もできますが、走ったり、重いものを持ち上げるなど、心臓に負担になることは禁止されています。ただ、散歩はいいといわれているので、近所の川沿いを歩いたり、趣味のギターを弾いてみたりしています。 「夜中なのについ夢中になり『近所迷惑だ』と妻に叱られます(笑)」 ———仕事復帰はいつ頃になりそうですか?  まだリハビリの最中なので、しばらく時間がかかりそうです。といっても、同じ仕事をするかどうか、いま気持ちが揺れています。病気になってから、自分の仕事に対して違和感を覚えるようになったからです。ベランダの手すりはアルミでできているのですが、金属ではなく、木のぬくもりに心が惹かれるんですよね。以前から古い建物を壊して新しい建物をどんどん建てることに疑問を持ってはいたのですが、病気を契機にそのことをもっと強く感じるようになりました。今後できれば、古民家を再生するなど、環境に優しい仕事がしたい。木にまつわる仕事がしたいと思うようになっています。 木のぬくもりに心が惹かれる。時々大きな幹に抱きつきたくなる アタッシュケース型ソーラー蓄電池。非常時にみんなの携帯やパソコンを充電できる。 ———もともと環境問題に関心があったのですか?  実は2011年の3月の東日本大震災の福島原発事故がきっかけで、自分たちの口に入るものや暮らし方を見直すようになったのです。電気にしても自然エネルギーによる発電がいいのではないかと、太陽光ソーラーパネルの設置の資格も取りました。実際に、組み立て式の太陽光パネルで自家発電するセミナーを仲間と企画して、その縁で東久留米市の環境グループに加わることになったのですが、そこが平成26年度の地球温暖化防止活動環境大臣賞(対策活動実践・普及部門)を取ったんですよ。うれしかったですね。 心臓の手術を経験したことで、より一層、生命や自然の大切さに気持ちが向くようになりました。自然を破壊しない、環境に優しい循環型の社会になればいいなあと思っています。 🍀励まし支えてくれた、どんなさりげない関わりにも感謝を伝えたい ———入院中は奥様がずっとそばにつきそってくれたそうですが、「ありがとう」という言葉はやはり奥様に伝えたいですか?  もちろん、妻や両親にはとても感謝しています。妻は本当に毎日寄り添って支えてくれました。本当に感謝しています。 ただ、だれか特定な人にだけ「ありがとう」というのはちょっと違う。病院で出会ったお医者さんや看護師さん、友人や仕事の仲間、みんなに「ありがとう」と言いたいのです。1日だけ来てくれた看護師さんは、病院の向かいにある看護学校の生徒さんだったのですが、別の日に僕を見かけて「斉藤さん、ここまで回復したんですか。よかったですね」と声をかけてくれた。そんな言葉がすごくうれしくて、僕も「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えました。 本当に、僕に関わってくれたすべての皆さんに感謝したい。「ありがとう」と伝えたいと思っています。 インフォメーション:僧帽弁閉鎖不全症 僧帽弁というのは、心臓の左心房と左心室の間にある大きな2枚の弁のことで、その形が僧帽というカトリックの司祭がかぶる菱形の帽子に似ていることから名づけられました。僧帽弁閉鎖不全症とは、この僧帽弁の閉じる機能が悪くなり、本来の血液の流れとは逆に、左心室から左心房に血液が逆流してしまう状態をいいます。初期の段階では症状がなく、進行して心臓や肺に負担がかかると、息切れ、呼吸困難、むくみなどの症状が現れます。 (撮影)多田裕美子

  • アドバンストレベルWRAP ファシリテーターとして全国でワークショップを開催する

    【第6回】人はどんな状態になっても いつからでもリカバリーできる。わだかまりも葛藤も含め、僕の“背骨”である家族への「ありがとう」

    増川ねてるさん プロフィール 1974年生まれ 新潟県小千谷市出身 詩人を目指し上京した大学時代にナルコレプシーと診断される。様々な職を経て広告代理店に勤めるが、処方された薬剤へ依存が酷くなり失業。後に薬物中毒となり、7年間生活保護を受ける。自力で断薬を実行した後、研修のファシリテーターとして社会復帰。福祉施設の職員をしながら、講演活動なども行う。 現在 アドバンスレベルWRAPファシリテーター地域活動支援センターはるえ野 センター長(東京都江戸川区)NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ理事 🍀「ちょっと限界、ここで休憩」講師が眠ってしまう!ワークショップ 実家が老舗の和菓子さんなので、スイーツと言えばあんこが好き ———増川さんは研修の講師として全   国を飛び回っていると聞いています。  健康そうに見えるかと思いますが、僕はナルコレプシー(過眠症)という睡眠障害を抱えています。十分に眠った場合でも、持続的な覚醒は3時間が限界です。15~20分寝さえすればクリアな意識に戻ってくるのですが… ———ではその研修中に講師である増川さんが眠くなってしまうこともあるわけですね。  その時は「休憩です。僕は限界なので寝ますね」といってその辺に横になります。僕が講師をしているのは「WRAP」(ラップ)という、日本では「元気回復行動プラン」と訳されている研修プログラムです。参加者が自分自身と向き合い弱みもオープンにし、“実体験の中から”生きて行く方法を学ぶというコンセプト。だから進行役の僕が寝ちゃう事も、参加者は僕のキャラクターとして受け入れてくれます。「ねてるがねてる」って写メを撮られますよ。 ねてるねてる 東京駅の床で撮影。(実際に駅で眠くなった時には休めるところを駅員さんに案内してもらっています) ———ねてるさんと言う名前はペンネームですよね。  はい。新聞などにもこの名前で出ています。初対面の人にも名刺を渡すタイミングで病気の説明が出来るようになり、弱点を自分の特性に変えるきっかけとなりました。 🍀医療への不信感と憤りを抱え上京するも、眠気に全て奪われていく日々 ———睡眠障害はいつから始まったのでしょうか?  高校時代ですね。例えば本を読んでいて「そういう話か」と思っていると、それは夢なんです。「あっ寝ていたのか」と思いまた読み始めると、それも夢。全然進まないんです。起きていられた授業なんてほとんどなく、大学受験にも失敗。浪人生のころ「おかしい」と思い、病院に行きました。 ———受診して何かわかったのですか?  子どもの頃からぜんそくの薬を飲んでいたのですが、直接医師に聞いてみると、「これはてんかんの薬です」と。僕はそれまで自分がてんかんだなんて聞いた事もなく、すごい衝撃でした。僕が子どもの頃高熱を出した時ひきつけ(熱性けいれん)を起こし、それで心配した親が、予防的にてんかんの薬を飲ませていたらしいのです。  親に対して不信感と憤りを感じました。眠いせいで色々うまくいかないのに、飲んでいた薬に関係があるかもしれない!と考え、荒れました。実家は老舗の和菓子屋で跡取りとして大事に育てられたのですが、周囲の目がとても気になっていて、それもプレッシャーで…田舎を離れれば変な症状もなくなると思い、以前から夢だった詩人になるために東京の大学に出てきました。 おきてるねてる眠気と共存できるようになり、このパンダの枕といつも一緒に旅します。 ———上京してからはいかがでしたか?  やはり眠くてどうにもならず…大学は中退しました。受診した病院でやっと「ナルコレプシー」の診断がつき、リタリンという薬を処方されました。しかし変な夢と眠気は消えない。詩はどうやっても売れないし、仕事もうまくいかず、生活はどんどんすさみ、妻とも離婚…。新潟を出て10年以上経った頃でしたが、今更実家には戻れない。「自分の人生終わった」と思いました。 🍀薬による依存症、抜け出すための壮絶な闘い  それからは、治療と平行して経済基盤をなんとかするため必死でした。障害年金申請のために必死に資料集めをし、交渉をするために起きていたいのでかなりハードに薬を使い、そうすると今度は鬱状態になり抗鬱薬が処方され・・・妄想もあったので統合失調症の薬も出され、多い時で一日20錠も飲んでいました。「なぜ医者はこんな処方をしたんだ?」と思っていた時期もありました。でも、よく考えると「もっと薬をくれ」と言っていたのは自分でした。足りないなら、足さなきゃと…。生活保護を受けながらひきこもりを続けていました。 ———現在もその薬を飲んでいるのでしょうか?  2006年頃、薬は完全に止めました。薬を飲まないと体が動かなくなったんです。2年くらいかけて徐々に減薬していきましたが、頭に鉄の棒を入れられて掻き回される感じがしたり、ベランダから飛び出したい衝動がすごくなるので、体を抑える為に針金で自分の体を縛ったりして…幻覚が続き、生活のリズムもめちゃくちゃでした。病院でもうまく減薬はできず、1人自宅で耐えるしかなかったです。 🍀「世界で自分だけの苦しみ」を初めてわかり合えた仲間たち ———どうやってそこから抜け出したのですか?  地域のソーシャルワーカーの交渉で、ヘルパーさんが家に来てくれるようになったんです。定期的に家に来て、温かい食事を作ってくれた。それで、なんだかホッとしたんです。「生活」が帰ってきたというか。 その方に、精神科に通う人たちが日中集まる福祉施設を教えて貰ったんです。最後の望み、みたいな感じで出かけていったその場所で、自分と同じように治療中の人に薬の事を話してみたら「あ、それ分かる」と言ってくれまして。それまで「世界で自分だけの感覚だ、出来事だ」と思っていた症状や薬の副作用、体験してきたことなどを「わかるよ、俺もそういうことあったから」って。 研修で仲間たちの場を和ませるのにも使うシャボン玉。飛ばすと上を向いて笑いたくなる。 ———同じ体験を持つ仲間にそこで初めて出会ったわけですね  はい。それまで分かってもらえないための行き違いをなんとかするために使っていたエネルギーを、わかりあえる患者同士が一緒に活動する何かに使えないかなと思い始めました。 その頃に、アメリカの当事者(患者)が開発した「WRAP」の話を、日本で直接聞ける機会を得たのです。“病気を経験した当事者(患者)どうしが、回復のためのコツや工夫をシェアする” それは多くの人が実体験した回復の仕組みを、キーワードを基に系統だって見せてくれるプログラムでした。 研修中に寝てしまう伝説の!ファシリテーターとして全国で活動中  WRAPのファシリテーターという仕事は、薬を飲まなくても、眠くなったら寝て、責任を果たせます。それは症状ではなく「必要なことをしている」とみなされるのです。この仕事ならできるかもと思いました。それからファシリテーターとして経験を重ねて行き、2013年からはファシリテーターを養成する研修を開催するようになりました。WRAPは今年で導入から約10年になりますが、2015年現在500人以上のWRAPファシリテーターが誕生しています。 研修のために新幹線で京都に行き2日後にはそのまま札幌に向かう フィージーでもWRAPを開催。学生ボランティアのメリさんと 🍀ワークショップを通じて再発見した家業の“お菓子のちから” ———ワークショップは大人気ですぐ申込者がいっぱいになるそうですね。  全国各地から申し込みがあるのですが、参加者にはご当地の名物お菓子を持ってきてもらうようにお願いすることがあります。“お菓子の力”って面白いですよ。自己紹介の時にお菓子の話をしてもらうととたんに場の空気が和らぎます。土地の自慢だったり、個人の想い出だったり。そういう普通に生活の中あるものが人を元気づけているんだなと実感します。 看護雑誌でWRAPについて連載中 詩ではなくとも書いた文章が世に出ることは、嬉しい 増川菓子店 お父さんの作ったぶんぶく最中。「たぬき」のかたちがかわいい。 ———菓子職人は継がなかったけれど、違う形でお菓子に関わっていますね。  確かにそうですね。生活の中にあるちょっとしたもの…お菓子の魅力も自分の仕事の中で伝えていけたらいいと思います!そこには、それぞれの物語がありますしね。いろいろあって僕は両親とずっと疎遠でした。家業を継承せずに途絶えさせてしまったという負い目もありました。そんな僕が、今では研修の前に父に電話をして、「最中送って欲しいんだけれども、いいかな?」なんて言っています。  振り返ってみると薬も、両親は僕を大切にしたくて飲ませていたんだなと思えるようになりました。増川菓子店のあんこは美味しいです!父のあんこを食べると両親は僕を大切に育ててくれたんだな、ありがとうとしみじみします。 インフォメーション:ナルコレプシー 過眠症のひとつ。罹患率は 1万人あたり 3~18人、発病年齢は10歳代で特に中学・高校生に集中している。ナルコレプシーの主症状は、日に何度も繰り返す居眠りが、ほとんど毎日何年間にもわたって継続すること。通常10分~20分ほど居眠りをすると、目が覚め非常にさっぱりすることが特徴。健康な人なら緊張していて眠る事などないような場面で突然眠ってしまう睡眠発作や、感情が動いた時、面白い時などに突然体が脱力状態になる情動発作を起こす場合もある。 WRAP WRAPは「Wellness Recovery Action Plan」の頭文字をとったリカバリー(回復)システム。1989年頃にアメリカの精神病の当事者によってなされた調査が元になっている。1997年に共にリカバリーに取り組む人たちの手により、現在の「WRAP」となる。日本では2005年に翻訳作業がはじまり、2007年頃から本格的に展開されるようになる。現在、世界的にメンタルヘルスの領域において、急速に普及してきている。 (撮影)多田裕美子

  • 仲間たちと観光農園でイチゴ狩り。イチゴの赤が見えるのが嬉しい。

    【第5回】視力を失ったから気づけた、誰かの役に立てる喜び。“生かされた人生”、そして妻に心の底から「ありがとう」

    宮田新一さん プロフィール 大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。 🍀精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病 白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。 ———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか?  左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。 ———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか?  51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。 絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」 ———重症だったのでしょうか?  はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。体中管だらけで絶対安静の状態だった。 🍀奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」 ———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。  医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。 その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。 ———それで頑張ってその1年後に会社に復帰できたのですね。  はい。ところが1年後に目の炎症がおきました。角膜穿孔寸前まで炎症がひどくなり、さらに真菌におかされたのです。その結果一時期は全盲状態となり、目の病院に入院しました。ほんの少し改善しましたが、加齢による重度の乱視の進行は防げず 最初は一つの物が3~4つぐらいに見えていたものが、今はシャンデリア状態で数が数えられないほどです。だんだん高級なシャンデリアになりました。(笑) 仕事のほうは乱視が次第にひどくなり、とうとう電気回路図が読めなくなった。「薄皮をはぐように良くなる」という言葉があるけれど、私の目はその逆で、「薄皮が増すように」見えなくなる。「昨日まで見えていたあれが見えないこれも見えなくなった…」と。さすがに落ち込みました。結局、会社は退職することになりました。 ———そうでしたか。  そんな時、獨協大学の眼科ロービジョン外来の主治医に『ロービジョン友の会アリス』を勧められたのです。気の進まないまま参加してみて…衝撃でした。全く見えない参加者が明るく笑っている。「えっ何で?」って。そして「会に電気関係の事の分かる人がいないの。電気メーカに勤務していたのなら担当になってくれない?」と頼まれたのです。「まだ人の役に立つ?えっもしかして俺って…生かされているんだ!」と気づいた瞬間でした。これを機に「ロービジョン者として生きて行こう」と決めたのです。「俺、これから別の人生を歩める。他の人の経験できないような人生、これもまた楽しいじゃん」と。 異国の人になったみたいな気分になりました。 「誰かの役に立てる」ことを気づかせてくれた、視覚障害を持った仲間たち。 🍀私たちが笑顔で出歩けるのが、誰にとっても暮らしやすい社会 ———実際に患者会に入ってみてどうでしたか?  仕事では主にビデオ機器の修理をしていたので、パソコンや音声機器関係のことではもちろんお手伝いできました。しかしそれ以上に約30年間、サービスマンとしていろいろなお宅を訪問し、お客様とコミュニケーションしてきた営業マン的な経験が役立ちました。 ———患者会活動ではどんなことをするのですか?  たくさんの遊びを企画しています。楽しいことなら何でもです。私のように人生後半に目が不自由になるいわゆる中途失明は衝撃が大きく、多くの人たちが絶望したまま引きこもりがちなのです。視覚障害者とはつまり移動障害者のことなんです。見えづらさを抱えた人々がもう一回外に出られるようにしたい。白杖の人たちが大勢で人ごみに繰り出して楽しそうに街を闊歩する。電車やバスに乗る、レストランやカフェに入る。映画や演劇を見に劇場に行く、トイレを使う…。そして周囲の人に少し手助けをお願いする。 ———視覚障害者の存在を世間の人に知ってもらうということですね  そうです。白杖を持った私たちが笑顔でいるのを見れば、健常者の人も「もし自分が見えづらくなっても大丈夫なんだ」と感じるでしょう。障害や弱さをもった人が楽しく過ごせるところは、誰にとっても暮らしやすい社会なんです。 花見、イチゴ狩り、料理教室、ビール工場見学、飲み会…楽しいことは何でも一緒に。 🍀「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった 福祉イベントで小学生にパソコンの音声読み上げについて教えることもある ———生活上では何か変化がありましたか?  一番の変化は感謝の気持の深さですね。以前はなんとなく社交辞令とか挨拶みたいに言っていた「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった。それを自覚したのは、当時外来に行くために病院の前の横断歩道で信号待ちをしていた時です。福祉の授業を受けたばかりらしい小学校4年生くらいの男の子が近づいてきて「おじさん信号青だよ、渡れるよ」と声をかけてくれたのです。私はこの子のひと言が嬉しくて、感情がこみ上げて病院の入り口でぼろぼろ泣き出しちゃった。感謝の気持が体の深いところからわき上がってくる体験でした。 ———いろいろな方と支え合っていると思いますが身近で一番感謝したい人は?  アリスの会や虹の会の仲間達、お医者さん、街ですれ違う人、そう。みんなだよね。でもやっぱり一番は女房だね。女房は私が倒れた時にもすごい頑張った。私が入院していた時は、親父も入院中、妹も看病疲れて具合が悪くて入院しちゃった。3人の病人を同時に見ていてくれた。本当に強いのにいつも淡々としている。感謝の言葉ってなかなか言えるような場面がないけど、本当は心の底からありがとうって思っているんだよね。ちょっと照れくさいけどね。手紙を書いてみました。 お酒が好きなのでボトルのデザインに感謝を込めて。 「こちらこそこれからもよろしくお願いします」と奥様の和子さん。 インフォメーション:ロービジョン ロービジョンとは視機能が弱く、矯正もできない状態をいいます。それにより日常生活や就労などの場で不自由を強いられます。従来は弱視、または低視力と呼ばれた状態です。調査によると日本はロービジョンの人は約144万いて、視力が0.01以下の「失明者」は18万8000人います。視覚障害の主な原因となるのは緑内障、糖尿病性網膜症、網膜色素変性症、黄斑変性症などです。病名に関わらず、見えづらくなると移動の不安や情報伝達の困難などから精神的にも不安を感じることが多くなります。 患者会情報●ロービジョン友の会アリス http://lowvision-aris.jimdo.com/●草加 視覚障がい者 虹の会 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/index.html (撮影)多田裕美子

  • 浅井美衣さん

    【第4回】病気になる前よりも今が幸せ。「いるだけでいい」ことを教えてくれた“ミー君”に「ありがとう」

    浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。  発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか?  銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう?  血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。  検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。  でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。  すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか?  具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫力が落ちるので無菌室に1か月半入院するのですが、1年治療を続けても結果が現れず、私も落ち込み始めました。医師からもギリギリの選択として、移植の提案が出るところまで悪化していました。お先真っ暗で光も何もない、完全な鬱状態。精神科の薬も飲んでいましたね。 ———骨髄移植という選択は無かったのですか?  一般にあまり知られていないと思いますが、骨髄移植は生存率が5年と言われています。治療中に凄まじい痛みや吐き気といった辛さがありますし、移植が無事済んだ場合でも後遺症が出る事が少なくありません。移植後の拒否反応の激しさも見聞きしたので、移植は選択しないつもりでした。 カフェでゆったり過ごすのも大切な時間 ———ご家族にはどのように伝えましたか?  実は、家族には心配をかけたくないのであまり詳しい話をしていません。通院も一人でしています。医師にも「私の事なのですべて私に話してください」と言ってあります。 ———ご自身の状態はどう捉えていましたか?  当時は、私が生きているだけで家族にも社会にも迷惑がかかってしまうと感じていました。稼ぐこともできない。独身ゆえに面倒をみるべき守るべき家族もいない。しかも、輸血で人の血をいただきながらしか生きることができない…。役割を失いお荷物になってしまったと感じ、「朝目覚めたら、天国でありますように」と願いながら眠りにつくような毎日でした。 🍀ただ「ここにいる」ことを必要としてくれる誰かがいる 地元商店街に夕食の買い物に行きます ———どのように再起を果たしたのでしょうか?  病院の中に難病の方がいて、NPOで働くという選択肢があること、「障害者雇用」というものがあることを教えてくれました。障害者雇用を推進している現在の会社の社長と面接する機会を得た際、私が自分の病気について話し終わると、社長が「ぜひうちで働いていただけませんか?」とおっしゃったのです。  その時はビックリし過ぎて、まともに返事ができませんでした。病気になってから誰かに「ぜひ」と言われたのは、初めてのことです。明日の命さえわからない自分を雇ってくださるとは…。不思議なことにその言葉をきっかけに、私の症状はゆっくりとですが安定してきました。 ———今はとてもお元気そうに見えます。奇跡の回復を果たしたのですね?  みんなによくそう言われますが、実は検査数値を見ると状態は決して良くないんです。今も免疫抑制剤を一日10錠程度服用しています。疲れやすいし、体力も落ちました。息切れがひどいですね。  それに男性ホルモンの入った薬の副作用で声がハスキーになったんです。すでに薬はやめていますが結局声は戻らなかった。声帯が変化しちゃったんですね。だから自分の声には今も違和感があるかな。このように回復したわけではなく病気とともに生きています。  でも、私病気になる前より自分は幸せって思えるんですよ。 ———病気を抱えていても今のほうがいいのですか?本当に?  そうです。私の周囲の環境も変わりました。以前仕事をしていた時には成果主義、減点主義の世界で生きてきたんですね。今周りにいる人たちは価値観が違う。そこが居心地がよいと思っています。  そのことを教えてくれたのはペットの猫かもしれない。それまでの私は誰かの役に立たないと自分の価値を確認できなかった。そんな私が一時期は寝たきりになっちゃった。そして人の血液を週に1回の頻度で輸血していただかないと生きていられないということを受け入れなくてはならなかった。そんな時私は病気になる前から飼っていたミー君(猫)を見て思ったんです。猫って、何にも役に立たないでしょ。でも本当にそこにいて、「ニャーご飯ちょうだい」っていうだけで私を幸せな気持ちにしてくれるなと。猫に触れていたら「あっ私、いるだけでいいんだ」って思った。今まで気づかなかったことを病気が教えてくれた。そういうことがなければ今ここにいないかもしれないと思うんです。 商店街の魚屋さん。猫のミー君の御馳走あるかな? 🍀病を得て見えてきた新しい価値観 ———食べることがお好きなんですね。  はい。おいしいものを食べた時の喜びがとても大きいですね。私が「おいしい!」と感じる基準は、それを料理する人が心を込めて作っていて、食べる人に「喜んでもらいたい」って思っているかどうかですね。 ———旅行や山登りも趣味とお聞きしましたが。  病気になる前の私は、自然になんて全然興味がなく仕事に熱中していました。今は自然の中に行くことがとても大切な時間に思えるようになりました。主治医の先生は私のことをちゃんとわかってくれているみたいで、内緒で旅行の計画を立てていたりすると診察の時に「いつ山に行くの?」なんて尋ねられたりして驚きます。先生は私がどんなことをしても絶対に全否定はしないですね。「治癒しますよ」とも言わないし、「骨髄移植しなさい」とも言わない。ただそっと寄り添っていつも支えてくれているんです。私ってとても幸せ者です。 お気に入りの地元のカレー屋さんベジフルスパイス。真心込めて作られたおいしい料理。盛りつけも美しい 上高地の幻想的な草原を訪れ、美しさに息をのみました 戸隠神社奥社で。自然はでっか〜い ———今の状態について誰かに「ありがとう」を言うとしたら?  うーん。1人は選べないです。私を雇ってくれた会社の社長、献血をしてくれた会ったこともない人々、主治医の先生、母や弟やお嫁さんや姪っ子、家族のみんな…周りの人本当にみんな!「もう感謝しかないよ」なんて言ったら昔の友達はひくかもしれないなあ。でもそれでもいいと思っているんです。だからみんなへの感謝の代表として、ふふふっ 字は読めないけど私に「生きてそこにいるだけでいいんだよ」って教えてくれた猫のミー君に手紙書きますね。これは出さない手紙だけど。みんな、そしてミー君 いつもありがとう! インフォメーション:再生不良性貧血 再生不良性貧血は血液中の白血球、赤血球、血小板のすべてが減少する疾患です。これらの血球は骨髄で作られますが、この病気にかかった人の骨髄を調べると、骨髄組織が多くの場合脂肪に置き換わっており、血球が作られていません。そのために貧血症状、感染による発熱、出血などが起こります。この病気は難病に指定されており、患者さんの70%は原因不明といわれています。2006年の調査では、全国の患者数は約11,159人で、新たに発生する患者さんの数は100万人あたり6人前後とされています。赤血球、好中球、血小板の減少によって、めまい、頭痛、身体がだるくなる、疲れやすい、狭心症のような胸痛、息切れ、動悸などさまざまな症状が起こります。 (撮影)多田裕美子

  • おばあちゃんと日曜日の公園へ。うまく木登りできるかな?

    【第3回】結婚、子育て、そして患者会の運営。おいしい手料理で支えてくれるお母さんに「ありがとう」

    竹井京子さん プロフィール 1968年 東京都出身大学の英文科を卒業して1990年に旅行会社に就職。入社8年目、激務のストレスが原因で潰瘍性大腸炎を発症。転職して財団法人に再就職し、現在に至る。潰瘍性大腸炎の患者会「ちばIBD」副代表。 🍀子育て、家事、仕事、そして患者会。毎日がフル回転で過ぎて行きます。 平日は保育園、休日は自然の中で子どもと遊びます ———今お子さんが3歳。子育ても大変な時期、忙しそうですね。どんな毎日ですか?  はい!私は10時から16時半まで事務の仕事をしています。起床は6時。朝のうちに朝食とお昼のお弁当の準備。そして夕食の下ごしらえをすませます。9時に息子を保育園に預けて出勤です。夕方は子どもを迎えに行き、19時に帰宅ですね。ご飯を食べ、お風呂に入れて21時半頃までに絵本の読み聞かせをし、子どもを寝かしつけてから、洗濯をしてやっと一日が終わります。休日は患者会活動をしています。患者会がない週末は、子供と公園で遊びます。昼食を食べて一緒にお昼寝をし、家族で近所のスーパーに買い物に出掛けて、夕食です。その後、主人と子供が2人で遊んでいる間に掃除をして、お風呂と就寝…。やることいっぱいの毎日ですね(笑) 🍀旅行関係の超多忙な業務とストレスが原因で発症 ———活動的でお元気そうに見えますが、潰瘍性大腸炎という慢性疾患を抱えていらっしゃる。難病と聞いていますがどんな病気なのでしょうか?  潰瘍性大腸炎の特徴的な症状としては、下血を伴う下痢が起きたり、急に腹痛が起きることで、トイレに駆け込まなければならないことも少なくありません。と言っても私はそんなに重症なほうではなく、手術もしないで済んでいます。潰瘍がひどい場合は大腸を手術で切除しなければならないこともあります。 ———どんなきっかけで病気に気づいたのですか。  1990年に旅行会社に就職し、東京駅の支店でカウンター業務を経験後、内勤で国内や海外旅行の手配に従事しました。毎晩22時半くらいまで勤務をし、真夜中に自宅に帰宅する日々を送るうちに、次第にお腹の調子が悪い日が続くようになりました。最初は症状もなく、便をした後にお尻を拭くと小さな血がついているのをみててっきり「痔だ!」と思っていました。  そんなある日、職場の健康診断で便潜血検査をしました。その後レントゲンの検査があったのですが、最初に受診したお医者さんは、レントゲンに特別な異常はないと判断したようです。しかし、母が親戚などに大腸がんの人もいるため遺伝的なことを心配して、私に別の病院で再診断することを勧めてくれたのです。この時の先生がラッキーなことに潰瘍性大腸炎の専門医でした。この先生は最初の検査の時と同じレントゲン写真を見て「これは大変な状態になってしまっています。潰瘍性大腸炎という病気ですね」と告げられました。それでも比較的早期発見だったほうだと思っています。 ———発症当初はどんな症状があったのでしょうか?  当時はいつも疲労感が抜けず、仕事の忙しさから来る睡眠不足もあって生あくびが頻繁に出ていました。それからおならも我慢できなかったです。父には「年頃の女性が人前で、そんなにおならをするんだ。場所を考えろ」と叱られました。後でそれが病気の症状だと知った父は「かわいそうな事を言ってしまった」と言っていたそうです。  いつも気が張り詰めていて、自宅でお風呂に入っている間も仕事でやり忘れたことを思い出すというように、落ち着くことがありませんでした。お腹の調子がどんどん悪くなり、これ以上、旅行業界で働き続けるのは限界だと感じました。転職を決意し、財団法人である現在の職場の就職試験を受けたのです。 🍀誰かの役に立っているという思いが自分の病を受け入れる事につながった 自分だけはすぐ治してみせるなんて思っていました。 ———働く環境を変えたことでどんな変化がありましたか?  仕事を変えて忙しさからは解放されました。しかしいくら身体に負荷がかからないように大人しく生活していても、ストレスや疲れがあるとすぐに下痢や血便になってトイレに走る…「どうしたら元の生活に戻るのだろう」と当時はそればかり考えていました。風邪などの病気は、一定の期間が過ぎれば、治癒して元通りになるのにと、納得できずにいました。「私だけはこの病気を治して元気になってみせる」とさえ、思っていました。 🍀家族の理解と協力と患者会活動を支えに明るく楽しく前向きに ———患者会がスタートして10年になるそうですね。  はい最初のきっかけは、ネットで同じ病気の人の相談に乗り、症状が楽になった人達から「ありがとう」と言われたことでした。その時期に、ある保健師さんが、潰瘍性大腸炎の患者会を設立しようとしていて、「やってみない?」と声を掛けられたのです。患者会では患者さんやそのご家族から「同じ病気の人と話せる機会があって、安心した」「自分1人じゃないと思えた。同じ悩みを共有したり、相談したりできる場があって、本当によかった」と言われることにやり甲斐を感じています。また忙しい先生方はどうしても短時間診療になってしまいます。そんな時、不安を持った患者さんの疑問などに自分や他の患者さんの経験からお話することもしています。  活動を通して講演会に参加して主治医以外の話を聞いたり同じ病気の人の症状の相談にのっているうちに、私自身に変化がありました。「元通りの身体に治そうとするから精神的にもつらいんだ。難病と言われるからには治らないのだから、病気と付き合う方法を考えよう」と思えるようになったのです。 寝る前はパパと一緒に絵本を読むのが楽しみ ———愛情深いご家族に囲まれて幸せですね。  主人とは、患者会で知り合いました。同じ病気を持ち、彼は私より症状が重い状態を経験しています。このため私が食後にトイレに駆け込む姿を見ては、「今は、あまり状態がよくないようだから、無理をしないで」と声を掛けてくれます。また、彼はお料理が趣味で得意なので、休日の昼食と夕食は、彼が手料理をご馳走してくれるんですよ。 🍀頑張っている先輩を見て出産も子育ても大丈夫だと思た ———出産、子育てはなかなか大変なことですよね。  はい。3年前に妊娠が分かった時、一番喜んで応援してくれたのは母でした。病気を持ちながらの出産は不安なことも多かったですが、同じ病気の先輩方が何人も出産していたので、自分も大丈夫だろうと思えました。また、自分の出産で、他の患者さんへ勇気を与えることができたら素敵だと考え、妊娠中もワクワクしていました。  そして無事出産できて、大変ながらも無理をせず順調に子育てをしていたのですが、子供が2歳になって間もなく、たまっていた疲労から熱を出し、病気が悪化し、下痢と血便が止まらなくなりました。 1日20回以上の便意に襲われ、トイレから離れられず、トイレで寝たいと思う状態でした。  最後は水を飲んでもトイレに駆け込むようになり、とうとう入院しました。このため実家の父母に息子を1週間預けることになりました。母と息子が毎日病院へお見舞いに来てくれて、帰りは泣かずに元気に「バイバイ〜」と帰って行くのですが、夜になると「かあさん。かあさん」と泣きじゃくっていると聞いて、こんな小さな子に負担をかけて申し訳ないと涙が出ました。 🍀頑張りすぎず、無理はせず、でもできることをきちんと おばあちゃんの手料理。孫の優志君の大好物の天ぷらとカツ。 ———今一番大切にしているのはどんなことですか?  仕事と家事&育児と患者会活動の両立ですね。どれも自分にとって欠かせないものなので、頑張りすぎずに、無理な時は無理してやらない・・。できることを1つずつやる、というスタンスで楽しむようにしています。職場の方たちは私の状態などからすでに病気のことは知っていると思いますが、あえて病名などを尋ねられたことはありません。私も自然体で無理をせず、でも仕事はきちんとこなすということで周囲には理解してもらえていると感じています。 ———ご家族がとてもさりげなく日常を支援してくださっているのですね。  同じ病気を持つ主人と結婚することを決めた時、父母は「何かあったら、助けてあげるから、やるだけやってみなさい」と背中を押してくれました。後から話を聞くと、父母も同じように不安だったそうです。両親は今も、主人の身体のことも心配し、私たち家族のために家事や育児を手伝ってくれます。  私が実家に帰ると、自宅に戻る日に必ず、母が大量の料理を作ってもたせてくれるんです。私が仕事と育児で疲れて病気が悪化しないようにとあらゆる面で、サポートしてくれています。仕事と育児と患者会運営を両立できているのは、本当に母のおかげです。感謝しています。  これからも負担を掛けてしまうことが多いと思うけど、長生きをして、太陽のような微笑みで周りを照らし続けてください。 郊外に引っ越したことをきっかけに57歳で自動車免許を取得したというお母さん。公園にはお母さんの運転で。 旅行が大好き。笑顔が素敵なお母さん。 インフォメーション:潰瘍性大腸炎とは? 潰瘍性大腸炎は大腸の粘膜の内側の層にびらんや潰瘍ができる病気です。潰瘍性大腸炎の患者数は133,543人(平成23年度特定疾患医療受給者証交付件数より)人口10万人あたり100人程度といわれていますが、食生活の欧米化とともに増加しています。特徴的な症状としては、下痢が頻回になることや下血、そしてよく起こる腹痛です。潰瘍の病変は直腸から連続的に、そして食道側にまで広がる性質があります。基本的には良性の病気で、ほとんどは適切な内科的治療により普通の生活が送れるようになりますが、中には腸管が広がってしまう中毒性巨大結腸症や腸の壁に孔があく穿孔となる場合など、病気が悪化するケースもあります。 千葉のIBD患者会 ちばIBD http://www.chiba-ibd.com難病情報センター http://www.nanbyou.or.jp/entry/62 (撮影)多田裕美子

  • 近所のお店で、支えてくれたお父さんと二人、お茶を飲む石村さん

    【第2回】再就職して8年目、もうすぐ結婚。働き続ける勇気をくれた父へ「ありがとう」

    石村徹さん プロフィール 1965年東京都出身 オンライン情報処理技術者大学院でコンピュータシステム開発の研究をし、卒業後、鉄鋼会社に入社。約20年前に躁うつ病との診断を受け、9年後退社するも、現在の旅行会社に就職。 🍀激務から発症するも、精神疾患への偏見から、受診を避けた日々 「発症するまでは、体の丈夫さに自信がありましたが……」と石村さん ――躁うつ病が発症した頃、どのように過ごされていましたか。  大学院を卒業した1990年頃、大手鉄鋼会社にSEとして就職しました。社員寮から通勤していましたが、その頃は景気が非常に良く、毎日4時間しか寝ずに一週間仕事をするような激務です。慣れない顧客との関わりも多く、心身共にすり減らして働いていたんだと思います。  入社3年目くらいから、顧客と同僚につじつまの合わないことを言うなど、だんだん周囲から「少しおかしいよ?」と言われるようになりました。そのため、上司に受診を促されました。  最初は体の病気の検査をしましたが、問題は見当たりません。「もしかして心の病気?」と思ったのですが、精神病への偏見もありましたし、認めたくなくて……カウンセリングに半年ほど通いましたが、全く良くなりませんでした。 🍀父の発病にショックを受け、自宅で一人きり昏倒 ――躁うつ病は、状態を自覚して診断されるまでが難しいと言われていますが、石村さんが精神の疾患として受診しようと思ったのは、どのようなことがきっかけですか。  不安を抱えながら、社員寮から実家に引っ越した頃、父が狭心症の手術をすることになりました。頼りにしていた父がまさか病気になるなんてと、自分が背負わねばならないものがとてつもなく大きく感じ、ものすごいストレスがかかったんだと思います。自宅の和室で一人きりになった時、倒れこんでしまったのです。10分ほどでしたが、その時はっきりと「自分は精神の病気なんだ。このことに耐えられないんだ」と自覚し、「もうどうにでもなれ」と開き直って、受診を決意しました。  幸いなことに父の手術は成功して回復し、私が当時の会社の産業医を受診するのに付き添ってくれました。そこでやっと、躁うつ病だと診断されたのです。 🍀人を厳しく批判してします躁状態と、足がすくんで出勤できないうつ状態 ――石村さんが躁の状態、うつの状態の時は、それぞれどうなりますか。  僕が躁の時は、傍目には元気でエネルギッシュに見えるようですが、些細なことで「あいつはここがダメだ」と、きつく人を批判してしまうんです。だから、躁状態がコントロールできなかった頃は、周りの人もビックリしていたと思います。  自分はその時「調子がいいぞ」といい気分なので、周囲の人の声が拾えなくなっています。でもその後、ひどい自己嫌悪に陥ります。躁の時に高揚が高いほど反動は大きく、その後辛く長いうつ状態が続くのです。  うつの時には、スーツに着替えたのに家から出る力が出ない、頭はぐるぐるいいわけで回っていて、足は動かない、という状態がよくおこります。 🍀障がい者枠で再雇用が決定。病気をオープンにして、症状コントロール。 近所の公園の緑を抜けて通勤 休日のうち1日は意識的に休息。自宅で猫とくつろぐことも。 ――精神障がいを抱えることになった後、お仕事や環境はどう変化しましたか。  発病9年後に最初の会社を退職しました。しかしちょうど障がい者の法定雇用率に精神障がい者が組み入れられるタイミングでした。今度は精神障がい者として再スタートする覚悟を決めた私は、ハローワークをたずね、退職から約1年後、現在の旅行会社に再就職できたのです。  今は障がいをオープンにしているので、休息の時間など、ハローワークが僕の立場から上司と話し合い、配慮してくれます。同僚も、私との協働について話し合ってくれたらしく、今でも年に1回くらいは躁状態が出てしまうのですが、「しかたないよね」と理解してもらえます。  躁を早い段階で止めれば、反動のうつも食い止めることができますから、今は、躁状態が出かかった時に「ちょっとおかしいよ!」と率直に言ってくれる人を大切にしています。 でももっと大切なのは、躁にならないようにコントロールすること。薬の進歩もありますが、意識的に休息をとったり、上司が私に仕事を振りすぎないよう配慮してくれるなど、自分の努力も周囲のサポートもあり、今は以前より全般的に症状が軽くなっているように思います。 🍀男二人、晩ご飯を食べるときに交わされる、父との対話 ――精神障がいを抱えながら仕事を続ける中、支えになったのはどんなことですか。  病気との闘いを、父はずっと支えてくれました。特に仕事について、発病してすぐ、父に「サラリーマンは座っているだけでも仕事なんだ」と言われました。当時はよくわかりませんでしたが、現在の会社に入ると上司もそう言うのです。上司は、仕事を調整しながら、私の手が空いていればちゃんと仕事を回してくれます。その状況になってやっと、父の言葉の本当の意味がわかってきたのです。  昔はあまり相談することはなかったんですが、発病後は父といろいろ話すようになりました。母が趣味の旅行に出かけ、自宅で男二人きり、晩ご飯を食べている時、父がぼそっと「最近、先生(かかりつけ医師)はなんて言っている?」と聞いてきます。そんなところから、将来的なお金の設計のことや、最近は彼女との結婚に関することなど、暮らしに関わるさまざまなことを話します。 「父がそっと応援し続けてくれたことが、精神的な支えになりました。」 🍀ともに障がいを抱えるカップルだからこそ、お互いを把握し支え合う 川津桜を見に、婚約者とふたり伊豆旅行へ ――現在、ご結婚を控えていらっしゃるんですね。  ええ。患者会で知り合った彼女も統合失調症の疾患を持っています。仕事の帰り道に、婚約者が毎日メールをくれます。お互い支え合うために、自分の情報や状態をなるべく彼女に知ってもらうようにしているんです。私が調子が悪くて「今ダメなんだ。ごめん」とデートをキャンセルしたときも「ウン、わかった」と、とても優しく言ってくれました。  私も彼女の調子はできるだけ把握したいと、顔色をうかがっています(笑)例えば、彼女の調子が悪いときは、声が細く弱くなります。気遣い合うことで、自分が支えられていることを強く感じます。 🍀失敗しながら一緒に働いていける社会を 「最近、私の会社にさらに少しいい条件で精神障がい者が入職しました。私が働いた8年、無駄ではなかったかな。」 ――精神障がいを抱えながら再就職ができたのは、素晴らしいですね。  法律改正のタイミングもよく、自分でも思いきって障がい者としてアプローチして、再就職が果たせました。その時、精神障がい者が社会の中で働いていくことを広く認めてもらうために、自分がいるのかな、と思えたんです。  こんなふうに働き続けてこられたのは、自分が失敗から学んでこられたからです。そして、調子の悪いときには父をはじめとする家族や婚約者、周囲の方々がそれを気づかせてくれ、良いときにはさりげなく気遣い見守ってくれて、失敗しても大丈夫な雰囲気にしてくれた周囲の優しさのおかげだと感謝しています。  このようなほどよい距離感で精神障がい者をサポートし、失敗しながらも一緒に働いていける社会になるといいなと思っています。 カードを受け取るお父さん。「息子の結婚が決まって、私もホッとしました。」 インフォメーション:躁うつ病とは? 躁うつ病は双極性障害と呼ばれ、「ハイ」になる躁状態と、気分が沈むうつ状態が出現する病気です。心身に受ける大きなストレスによって発症、再発することも多くあります。躁状態の時は気分が爽快で楽しくて仕方がなく、夜は寝なくても平気で、疲れを知らずに活動します。多弁で早口になり、豊かなアイデアがわき、浪費が始まることも。自分を有能で素晴らしい人間だと感じ、最初のうちは、仕事がむしろはかどります。しかし、さまざまな考えが次々浮かぶため、気が散り集中できなくなります。短期間のうちに悪化し、感情が高ぶって怒りやすくなります。この躁状態のあとには大抵、うつ状態が続き、今度は活動ができない時期がやってきます。双極性障害の治療で最も大切なのは、再発予防です。再発をくり返すことで社会的な信頼を損ねるなどのハンディを負うことがあります。治療法は少し前までは薬物療法が中心でしたが、認知行動療法などリハビリテーションの方法も進歩し、薬なしで生活できるようになる方もいます。 (撮影)宍戸友美  (撮影協力)三軒茶屋 ミシン

  • お客さんとコミュニケーションしながら、焼きそばを鮮やかに調理する神田さん

    【第1回】30年ぶりのお客様を見送り、涙。支えてくれる全ての人へ「ありがとう」

    神田菊子さん プロフィール 1945年 千葉県出身1965年より浅草寺横でお好み焼き店「つくし」を開業。旦那様を早くになくし、息子さんを3人育て上げ、現在は一人暮らし。14年ほど前に糖尿病との診断を受ける。  「おいしいんだから!待っててね!」鉄板に立ち上る湯気の向こうで、焼きそばを勢いよくさばく神田さんは、創業49年、浅草の老舗お好み焼き店のおかみさん。明るい人柄に惹かれたお客さんで、お店はいつも満員!  元気な神田さんですが、実は慢性の糖尿病を抱えています。 🍀二坪から始めたお店を切り盛り……あるきっかけで暴飲暴食の生活に 「昔はビール4~5本くいくい飲みました……」と菊子さん ――浅草でお店を始めたのはいつですか?  昭和41年の20歳の時、今年で49年目です。当時、会社を興したばかりの主人を経済的に助けようと、自分でできるお好み焼き屋を始めたんです。三人の息子の子育てしながら、商売していました。  少し余裕もでてきた10年目ころ、主人が病気で亡くなりました。そのころから夜飲みに行ったり、外食したりが増えていったんです。仕事があがった夜12時から2~3時まで、スナックで飲んだりゴーゴーを踊りにいったりね。楽しかったです。でも、50歳まで20年もそんな生活を続ければ、具合も悪くなるわよねえ。 🍀だるくて風邪を引きやすい……「えっ!あたし糖尿になるの?」 ――糖尿病に気づいたきっかけは何だったのでしょう?  55歳くらいの頃、なんだかちょっとだるいなとか、疲れがとれず風邪を引きやすい感じがあったんです。それで区の定期健診に行ったら、「糖尿病です」って。「え?あたし糖尿になるの?」ってショックでしたけど、「飲み過ぎ、食べ過ぎですよ」ってお医者さんが言うのに納得してしまいました。  実際には痛くもかゆくもないから、始めは血糖値に気をつけなかったんです。でも、足がだるかったり、頻繁にトイレに行きたくなったりしているうちに、だんだん血糖値が下がらなくなり……ついに慢性で薬が必要と言われ観念しました。 3週間に一度もらう薬は、きちんと管理し欠かさず服用します 🍀「食べたい自分」との葛藤の日々…受け入れられたのは年齢のおかげ  始めは自分だけ美味しいものを食べられないとか、お酒が飲めないとか、空腹を我慢しなければならないことを全然受け入れられなかった。数値は上がるし、もう「食べたい自分」との葛藤! すごく落ち込んで…。 ――どうやって受け入れる事ができたのですか?  年齢のせいもあるかなと思います。体が暴飲暴食を求めなくなってきた感じ。おいしい物をちょっとでいい。70歳の声を聞いて腹五分目が平気になって、やっとこれでいい子になりました(笑) それから一緒に遊んでいたお友達が倒れたり亡くなったりということもあります。長生きしているのはお酒のまない人ばかり。飲む相手がいなければいかないよ。 🍀野菜たっぷり&手作りで、忙しくても毎食定時に食べるコツ ごぼう・レンコンetc…たっぷり温野菜サラダのモーニング 手近な野菜でジュース きな粉がおいしさのポイント ――いま食生活はどんな風になりましたか?  朝7時に喫茶店で、野菜がたっぷり入ったサラダつきモーニングを食べています。昼は1時ころ。  夕飯は7時と決めています。この時間に仕事が忙しく座って食べられない時には、調理場で豆腐などカロリーの低そうなものを少しずつバランスよく選び一口ずつゆっくり噛んで食べて夕食にします。それ以外は間食しません。お菓子をもらっても食事の時までしまっておき、お菓子+ご飯で腹七分目を考えて食べます。  カロリー計算は苦手なので自分の感覚でバランス良く考えて、1食に20品目くらいは採れるようにします。味付けはだしをうまく使って薄味に。砂糖の替わりにみりんやはちみつを使い工夫します。 🍀息子の犬を借りて散歩&フィットネスで、「体を動かす」を毎日の習慣に  朝5時には目がさめて、6時半からは息子の家の犬と40分間散歩です。深呼吸をしたり、足をもちあげたり、股関節をひろげたり。  毎日午後3時になると、近所のフィットネスに行きます。ヨガなどの運動に参加したり、無理ならお風呂だけ行って戻り、昼寝したり家事をしたり。7時までは、二階でくつろいでいます。  夜はお店が忙しそうなら手伝い、暇なら外食に出ます。夜9時には夜の部、2回目の犬の散歩に行きます! 雷門が毎日のコース 犬と一緒に浅草寺界隈を散歩&軽く運動が日課に 🍀自分の体を守っていると、全てのひとに「ありがとう」と言いたくなる 「病気があっても元気。自然とありがとうって優しい気持ちになります」  自分の体のことをちゃんとやっていると、家族やスタッフ、友達、お店のお客様、すべての人に支えられているって感じます。  10年ぶり、30年ぶりに尋ねてきてくれるお客さんもいて、涙が出ちゃいますよ。元気に店を続けていたから会いに来ていただけたのよ。そんな時、外まで見送って「ありがとう」っていいます。  一緒にご飯を食べる、お友達になってもらう、旅行にいってもらう。これもね、相手が嫌だったら行ってくれないです。だからね、自分もみんなが大好き。愛しているから愛されるのね。息子たち、お嫁さん、孫、スタッフ、お客さん、浅草の友人、すべての方にありがとう。そういう気持ちでいると優しくなれるものなんですよね。 管理栄養士のワンポイントアドバイス 神田さんは糖尿病という病気をきちんと受け入れて、自分の体を愛し大切に管理し、とてもよい食生活を送っていますね。実は糖尿病食というのは、一般の方にとっても理想の食生活なのです。神田さんは食事の時間も7時、13時、7時と6時間ずつあけ規則正しくしていますね。多品目の食材を薄味で調理していること、よく噛んで食べている点もいいですね。ただ少し気になるのは、必要なエネルギーがきちんと摂れているかどうかです。機会があれば一度病院の管理栄養士に食事量を確認してもらうとよいでしょう。また、運動は食後が理想です。朝食前の散歩の時には空腹による低血糖状態になってしまうことを避けるために、昼の野菜ジュースを散歩の前に飲んだり、ビスケットや小さなおにぎりなどを少し食べてから散歩に出ることをお勧めします。 【(公社)東京都栄養士会 管理栄養士 長田史恵】

  • 打ち合わせで訪れる事の多い築地のがんセンターのフリースペースで

    【第16回】苦しい闘病生活を支えたくれただけでなく、がんの患者会活動をいつも大きな心で見守ってくれている夫にありがとう

    三好綾さん プロフィール 1975年鹿児島県生まれ長崎大学教育学部卒業 元乳がん体験者の会「つどいいずみ」副会長一般社団法人全国がん患者団体連合会事務局長NPO法人がんサポートかごしま理事長第2期厚生労働省「がん対策推進協議会」委員鹿児島県「がん対策推進協議会」委員 🍀27歳の新米ママに突然くだされた乳がんの告知 ———三好さんは今日も鹿児島から東京へご出張ということですね。大変お元気そうに見えますが乳がんの手術をなさってどのくらいになりますか?  14年経ちました。今回は横浜で開催される癌治療学会PALプログラムの打ち合わせのために東京へ来ました。月に2、3回は厚生労働省や東京築地のがんセンターなどに来るほか、県外の講演に行く事もあります。このため時々ダンナさんに「また出張!?」と文句を言われます。 ———大変活動的ですよね。普通はどんな日常を過ごしていらっしゃるのですか?  フルタイムで患者会の仕事をしています。月水金は事務作業で、火木はがん患者さんがサロンを訪れお話をしたり、お茶を飲んだりします。夕方6~7時に仕事を終え買い物をして夕食の支度ですね。食後は中学生の息子と自宅カラオケで唄ったりします。 ———乳がんの手術をしたことで日常生活に不自由なことなどはありますか?  乳房の手術に伴ってリンパを切除しています。このため年に一回くらい蜂窩織炎が起きて熱が出ます。その時は右腕の表面が腫れて真っ赤になります。またスーツケースなど重い物を長時間持つと腕が腫れます。洗濯物を干す時も量が多いと右腕が痛くなってしまうんです。 ———ご主人とは学生時代からのおつきあいだそうですね。  私は大学で教育学部の教員養成課程の国語科を卒業したのですが、教員採用試験に落ちてしまい塾の講師をしていました。ダンナさんとは同級生で18歳からお付き合いしていました。当時彼は大学を中退し就職先を探していたのです。その時、種子島に単身赴任していた父の会社で人を募集しており、彼が1人で種子島に行きそこで就職しました。その後私も種子島に行き、2000年に結婚して、翌年に息子が生まれました。 ———乳がんが見つかったのはいつごろのことですか?  2002年です。私は27歳でした。息子の授乳をするのにおっぱいが出にくかったのですね。しこりをみつけたのはダンナさんです。自分でも触ったらしこりがありました。検査をすると胸と脇の下にもしこりがありエコーの結果明らかに腫瘍があると言われました。 ———すごく不安だったと思います。告知はどんな風にされたのですか。  最初の病院から紹介され鹿児島市内の病院で告知をされました。先生はがんという言葉を使わず説明しましたが、それが悪いものであり乳房は「全摘」しなければならないと理解しました。告知後、医師が部屋を出て診察室に一人になると激しい恐怖を感じました。そこに看護師さんが来て平然と「手術になるので入院ですね。持ち物は洗面器、バスタオル…」と説明を始めたのです。この時心の中で「病院を変えよう」と決めていました。 🍀一番大変なのが告知直後の抱え込みによる孤独 がんセンターに来たときには築地場外をぶらり散策 ———告知は大変な衝撃だと思います。どのように受け止めればいいと思いますか?  実は一番しんどい時が告知直後です。それ以降一瞬でも少なからず状況は良くなります。告知後は孤独で1人で闘うような気持ちになりがちですが、抱え込まない事が大事です。家族にも本音を言えず、友達との縁が少し遠のいてしまったりしがちですが、本音を言えて甘えられる人を1人でもいいから持つとよいと思います。患者会で経験者と話すのもよいです。 ———三好さんはどうやって情報を集め手術を受ける病院を決めたのですか?  まずインターネットで乳がんについて調べました。乳がん患者さんのメーリングリストの存在を知りすぐ入りました。それでMLに「今日乳がんを告知されました」と書くと、全国の乳がんの患者さんからメッセージが届きました。MLには助けられました。結局手術は3番目に行った乳がんの専門病院で受けました。理由は先生と相性が良かったからです。看護師さんも採血をしながら、「子どもさん小さいから不安ですよね」と声をかけてくれました。がんという病気は長くつきあうので、そこのお医者さんや看護師さんとの相性、寄り添ってくれる医療者と巡り合えることも大事ですね。 🍀夫の「よく頑張ったね!」の一言で緊張と喪失の苦しみが癒やされた瞬間 ———がんになったことで周囲の方達はどんな感じでしたか?  がんだと知るといろいろな人が心配して健康食品や水などをくれたりします。また食生活について意見する人もいます。善意だと思いますがこういう意見は本人にとって案外しんどく辛いものなんです。 ———乳がんの手術を受けて一番つらかったのはどんなことですか?  手術自体の恐怖に加え、胸がなくなる事が怖かったです。授乳は生後8カ月の息子とのコミュニケーションだったので、息子に悪いなとも思いました。術後の胸がない姿を自分で見た時にはとてもショックでした。ダンナさんにも見せなきゃと思って、お風呂場に呼んで見せたのです。そうしたら傷をみた彼が「よく頑張ったね」と言ってくれました。このとき、本当にほっとしました。それまで抱えていた緊張がこの一言で解けたのです。術後の乳房再建はうまくいかず、右の乳房はありません。今も乳房喪失感だけはクリアできていません。女性の乳房は特別なもので単に「手術した」というのではなく、失った「喪失感」として感じるということをドクターには知ってほしいと思います。 手術後に家族で行ったディズニーランド 🍀「私が死んだら再婚していいからね」の言葉に怒る夫 ———治療のためにご実家近くに戻られたのですね  抗がん剤の治療を受けながらの育児は難しいと思いましたし、私が「死ぬなら自分の故郷で死にたい」と言ったので、夫は職場を退職し一家で種子島から実家のある川内へ移転しました。彼は書類の記入や通院の車の運転などをずっと助けてくれました。本当に感謝しています。でも当時の私は悲しくて寂しくて、息子を抱いてよく泣いていました。ダンナさんには「私が死んだら再婚していいからね」と言って何度も怒られたことを覚えています。 ———手術のあとは抗がん剤の治療もなさったのですね  はい。術後にCEFとタキソテールによる抗がん剤治療を行いました。抗がん剤の二本目が始まる時に、やはりどんどん髪の毛が抜けるので、ついに旦那さんに頼みバリカンで刈ってもらって坊主になって、すっきりしたのです。それでかつらを楽しもうと思いました。実はかつらって通販で買うとなかなかサイズが会わなかったりするのですけどね。髪の毛は化学療法の後、半年ぐらいで生えてきました。しばらくしたら元の髪に戻りましたが最初に生えて来たのは白髪とぐりぐりパーマみたいな毛でびっくりしました。 ———抗がん剤が終わってからはどんなことがありましたか?  私の場合はステージが3Aでした。抗がん剤が終わった時点で「再発しない限り、治療として行うべきことはありません」と言われたのです。手術や化学療法など長く苦しい治療を続けて来たがんの患者にとって治療の終わったこの時期が不安でつらいのです。先生にその不安を打ち明けたところ、気持ちが落ち着くならと「漢方薬」を処方してくれました。この薬をもらったことで随分気持ちがほっとしたことを覚えています。 築地場外のお店で乾物の試食を勧められて。店員さんが鹿児島出身と聞いて意気投合 🍀患者会のバスツアーで突然開けた自分の未来への希望 ———一般の患者さんだった三好さんが、なぜ支援する側の人になったのでしょう?  手術後、私がずっと家で塞ぎこんでいるのを見かねた母が、病院内患者会のバスツアーに申し込みをしたのです。私は嫌々参加しました。バスには乳がん患者さんの女性が30人位いて、自己紹介が始まったのです。すると「がんになっても私元気です」とか「失ったのはおっぱい1つだけです。後は何も失っていません」「私は私らしく生きています!」と次々にとびだす元気な言葉と笑顔に圧倒されました。「えーっこんなになれるの?すごいなー」とバスを降りる頃には「何か私も手伝えることありませんか?」って言っていたのです。(笑) ———ピアサポーターとして支援活動をすると元気になる方が多いですね  告知を受けた時、私は世間の迷惑になる人間で自分が生きている意味は無いのではと思いました。ところが、患者会には今乳がんの告知をされ赤ちゃんを抱えた若いお母さんが来たりします。私は「以前の自分みたい」と思って声をかけます。ゆっくり話を聞いて、「私も同じでしたよ」と伝えると、泣きだしそうだったその人が最後はちょっと笑顔になり「私、あなたみたいに元気になれるのですね」って。「うん。なれる」ってハグして「また来てね」って…。「自分の役割がある」と実感できる場が患者会です。その後ピンクリボン運動に関わり、東京でライトアップされた東京タワーを見て感動したあたりから、東京と鹿児島を往復する本格的な活動が始まっていったのです。 患者会活動の仲間たちと桜島にハイキング。リラックスできるひとときだ。 🍀術後5年目で吐露されたがん告知を受けた妻に対する夫の気持ち ———ご主人はアクティブになっていく三好さんをどう思っていたのでしょう?  手術後5年位たったある晩、私とダンナさんとウチの母と3人で飲み、少し酔っていた時のことです。「俺言いたいことがある」と彼が切り出しました。「あのお前さぁ乳がん5年経ったよね。あの時お前が死ぬと思ったから、好きなこと何でもやっていいと言ったんだよね」って言うのですね。「うん。ありがとう。感謝している」と私。「でもさぁ、そろそろ大丈夫なんだから患者会活動やめて家に戻ってもいいんじゃない」と彼。私はそれを聞いて「何言ってるの?」って…なんだかケンカみたいになりそうになった時に母が「そんな思いで5年間過ごしてくれたんだね」とホロホロ泣き出したのです。そんな様子を見て、家族それぞれにいろんな思いがあったこと、彼も5年経って初めて自分の気持ちを口に出せたのだな、ありがたいなとしみじみ思いました。その後ダンナさんはじょじょに私が患者会のことで飛び回る事を仕方ないと諦めていったみたいなのですけど(笑) ———NPO法人がんサポートかごしまはどのように誕生したのでしょうか?  『リレー・フォー・ライフ』というがん患者や家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベントがあるのですが、それと同様のものが2007年の9月に鹿児島で開催されました。これを機にサロンを鹿児島にも作りたいという要望が届きました。県知事にお話する機会もあり、県の協力を得て12月25日にがんサロンかごしまがオープンしました。ここは乳がんだけではなくて全部のがんに対応するサロンで、来年で開設9年になります。メンバーには医療者がいたりご遺族がいたりいろんな人がいます。 がんサポートかごしま。いろいろな人がやって来ていつも賑やか 🍀死を身近に感じた自分だからこそ子ども達に伝えたい「命」の話 子ども達に命の大切さを、熱く暖かく語ります。 ———小中学生に向けて命の授業もしているそうですね。  はい。最初はNHKの番組で大分の乳がんの方が「命の授業」をしていると言うのを見て感動し、鹿児島でもやりたいなと。子どもたちが虐待を受けたりいじめにあったり悲しいニュースがすごく多いです。私たちはがんを経験して「死にたくない。生きたい」と思いました。そして命について本当に考えた経験を通して命のことを子ども達に伝えたいと思い2010年に「命の授業」をスタートしました。昨年は32校回りまして、約2500人の小中学生に命の授業を届ける事ができました。 ———子ども達とはどんなコミュニケーションをするのでしょうか?  私は乳がんになり「自分はもう死んでしまう」と本気で思ったので「生きていること、普通の生活ができること」はすごくありがたいことです。同時に生きていくことってしんどいことでもあるので、しんどい時にどうするのかを伝えたいのです。それは人に助けを求めていい、自分らしく生きていいことなどです。「相性が悪くて仲良くなれない子がいることはしょうがないけど、いじめることだけはやめよう」ってそういうことを授業の中で、松岡修造並みに熱苦しく(笑)伝えています。 ———いろいろな活動をなさっていますがやはり愛情深いご家族の理解があるからですね。  そうですね、この活動をして行く中でさまざまな出会いがあり、皆さんに感謝しています。ダンナさんにも感謝しています。それからお空に旅立っていった仲間にもありがとうをいいたい人がたくさんいます。手術の時、乳児だった息子は15歳。私の活動を応援してくれてイベントの時は子ども実行委員長もしてくれました。息子とは仲良しで一緒に映画を観に行ったりもします。私がこの活動で家を開けているときに、ダンナさんは趣味のゴルフをしたり釣りに行ったりのびのび楽しんでいます。それぞれが自由な感じです。日頃はあまり意識しませんが、適度な距離感をもっていつも優しく見守ってくれているダンナさんと息子、そして両親、あたたかい家族に恵まれたことに改めて感謝したいと思います。 『がんサポートかごしま』のデザインシンボルである青空の封筒と大好きなプーさんのカードを選びました。ちょっと照れくさいけど「いつも支えてくれてありがとう」 インフォメーション:乳がん 日本では乳がんになる人は年々増加し、女性がかかるがんの第1位になっています。乳がんは30代後半から増えてきます。40歳をすぎたら自覚症状のない人でも2年に1回は乳がん検診を受ける事が推奨されています。乳がんは自分で発見できる数少ないがんの1つで、自己診断が重要です。自覚症状として一番多いのは、乳房のしこり、乳頭からの分泌物、乳房の痛み等です。症状がない場合や、検診で異常がないといわれた場合でも、定期的に自己検診を行い、必要に応じて医療機関を受診することが大切です。 <参考にしたサイト>国立がん研究センター がん情報サービス 冊子 乳がんhttp://ganjoho.jp/data/public/qa_links/brochure/odjrh3000000ul0q-att/144.pdf日本乳癌学会http://jbcs.gr.jp/guidline/p2016/use/u03/●がん患者さんとご家族の患者会NPO 法人 がんサポートかごしまhttp://www.gan-support-kagoshima.com (撮影)多田裕美子

  • 皮膚の状態は気候や疲れ方などその日のコンディションにより変化します

    【第15回】痒みで辛い時、落ち込んだ時、どんな時も変わらず笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    鮎川雄一さん プロフィール 東京都八王子市 1968年生まれファッションメーカーの営業マンを経て2013年に転職現在は介護老人保健施設に勤務する介護福祉士。『所沢ユニバーサルスポーツ応援団 団長』として障害者スポーツのイベントプロデュースも行う。 🍀季節やその日のコンディションで変化する痒みや炎症 地元所沢の航空公園ではお気に入りの場所。草原でジャンプ! ———鮎川さんは、介護老人保健施設で介護福祉士をしながら地元所沢で身体障害を持つ人のスポーツ競技を応援するイベントを運営したりしているのですね。  はい。その他に介護や健康をテーマにしたセミナーやイベントも行っています。 ———アトピー性皮膚炎の症状をずっと抱えておられるということですが。  はい。現在は安定していますが、30代の頃はひどかったですね。今でも悪化することがあり、そんな日は顔がムズムズして痒くなるんです。 ———慢性的な症状があるわけですね。皮膚科の受診は続けているのですか?  1年に8回ほど通院しています。今は主に保湿ワセリンと、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)という漢方の飲み薬を使っています。最近はそんなにひどくはならないので、ステロイドはどうしても必要な時だけ使う感じですね。 ———日頃の生活の中でどんな時に症状が悪化しやすいのでしょうか?  季節でいうと春は花粉症の刺激があり、汗をかく夏もつらいです。冬は乾燥がつらいので、秋だけ一息つける感じですね。介護老人保健施設での仕事は4交代制のシフトですので、夜勤明けで疲れた時などは痒みの兆候が顔にきますね。 ———どんな症状になりますか?  まず顔が熱くなる感じがあり、赤く腫れぼったく痒くなります、そして炎症が起きるとちょっと皮膚が硬くなります。その皮がむけてはがれ落ちると元に戻るというサイクルですね。 🍀高校時代のヘルペスから始まった皮膚の炎症との付き合い ———アトピーはいつごろ発症したのでしょうか?  最初は高校3年の時ヘルペスが唇の右側にできたことです。それを寝ている時に自分で潰してしまったのです。朝起きて「顔が腫れぼったいなぁ」と思い鏡を見て仰天。顔中にヘルペスのぶつぶつが広がっていたんです。母に車で皮膚科に連れて行ってもらいました。当時は病院前で車を降り、人に気付かれないように上着をかぶって顔を隠していました。しばらく皮膚科に通い最悪の状態は治ったのですが、それ以来皮膚のトラブルが常態化してしまいました。 ———そうでしたか。思春期は特に見た目のことが気になる時期ですね。  他人の視線が気になりましたが、友達には本当に恵まれていました。大学に進学してたまに友達の家に泊めてもらったりすると、借りた枕が顔の引っ搔き傷で血だらけになっちゃう。でも友達は「お前、また血出てるぜ」ってあっけらかんと笑いながら口に出してくれたので一緒に遊ぶ事が出来たんです。今思うと、そういう友達達じゃなかったら誰とも接点もなく家に籠ってたかもしれないですね。本当に友達には感謝してます。 ———お仕事についてからはいかがでしたか?  大学を卒業してファッション関係の会社に就職し営業職につきました。27歳で結婚し、仕事は数字に追われストレスも多くとても大変でした。また秋冬物を扱う時は繊維に触れると刺激があり顔が日焼けしたみたいに赤く腫れていました。婦人服の仕事でしたので、実は女性の視線も気になり、皮膚の調子が悪い時は営業で人前に出る事が嫌でストレスでした。 🍀夜中も全身をかきむしらずにはいられないほどの痒みに襲われて ———アトピーは病気としては生死に関わるようなものでもなく、他人にうつることもないわけですが、痒みに加え見た目のことでもストレスが大きいですね。  そうですね。僕も外からみるとあっけらかんとして何も気にしていない風を装っていましたが内心は毎日の皮膚の状態ですごく気持ちが左右されていました。また痒みがひどい時は夜、隣に寝ている妻が、僕が全身をかきむしっているバリバリという音で眠れなかったといいます。妻は、僕がこれ以上掻かないように、ポテトチップスの入っている筒の様な物(笑)を改造して両腕にはめてくれたりしました。当時は布団の中はかきむしった皮だらけだし、お風呂もそんな感じだった。 ———当時奥さんはアトピーについては何かおっしゃいましたか?  アトピーに効くという食事の本を読んだり、食生活に工夫をしていてくれたようです。でも皮膚の症状については、彼女は一言も何も言わないでくれた。ありがたかったです。もし彼女に何か言われたらとても傷ついたと思います。「心につき刺さる言葉」って覚えてるじゃないですか、そんな記憶はないので、きっと受け入れてくれてたんですね。一緒に寝ても皮がボロボロ落ちているわけですから、もしかしたら「うっ」て思ったかもしれない。そんな時も黙って掃除してくれていたのだと思います。ありがたいですね。 航空公園にある新鮮な無農薬野菜の料理が美味しいエコトコファーマーズカフェ。お気に入りの場所です 🍀医師との出会いによって変化したアトピーとのつきあい方 ———皮膚科はどのように利用していたのですか?  ステロイドには抵抗がありました。このためひどくなると皮膚科に通いステロイドを塗り、よくなるとやめてまた悪くなるというのを繰り返していました。そして最悪の状態となったのが、30歳の引っ越しの時。ハウスダストの刺激や段ボールを運んでいるうちに全身が痒くて眠れないほどになってしまったのです。そんな時妻が知人に聞いて今の皮膚科を見つけてくれました。 ———それまで通っていた皮膚科と何か違ったのですか?  ええ。先生が最悪の状態の僕を診察した後「必ず治るから大丈夫だよ」と力強く言ってくれた。すごくほっとしてこの時「ここで治そう」と思えたんです。 ———ステロイドを使ったのですか?  はい。まずかなり強力なステロイド軟膏が何種類か処方され、塗る場所を指示されました。言われたとおりに薬を塗り、自己判断で中止しないようにしたところ、1年足らずで信じられないくらい普通の肌が戻ってきました。症状が落ち着いた時点で、保湿剤のワセリンと漢方の飲み薬が処方されました。 ———症状が出た時に対処的にステロイド剤を使うのではなく、痒みが治まっても一定期間ステロイドを使い続け、医師の判断で徐々に減薬していく療法ですね。  はい。先生がいいと言うまで薬を塗りました。そして徐々に弱い薬と保湿剤のワセリンに替えていった。先生の指示を守り18年も同じ皮膚科に通っています。 🍀福祉の世界とのつながりは「あなたアトピーですか?」の一言から ———福祉を次の職業に選ぼうと思ったきっかけはなんですか?  きっかけは2011年の東日本大震災です。実は震災の2日まえの3月9日に勤めていた会社が事業廃止になり、突然職を失ったのです。失業と地震はダブルのショックでした。僕は落ち込み、ひきこもり状態になりました。そんな時、被災地で津波に遭い一命を取り留めた得意先の女性が泣きながら「鮎川さん何とか生きています」と電話をくれたのです。その声を聞いて「俺こんなことしてちゃダメだ!家もあるし家族もいるし五体満足だ!」と自分の中で何かが動き始めたのです。震災の衝撃もあり何か社会貢献を!と思い埼玉県の起業家セミナーを受講しました。 ———起業家セミナーではどんな経験をしたのですか?  セミナーの講師の1人が「僕がファッションで出来る社会貢献は何か?」と悩んでる時に「ファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのでは?」とアドバイスをくれました。そしてそのセミナーの懇親会で障害児の『放課後デイサービス』の事業を行ってるオーナーが僕に話しかけてきました。その最初の一言が「あなたアトピーですか?」でした。聞けばその方の娘さんも障害がありアトピーの持病もあるので、僕の顔を見て気になって声をかけてきたそうです。これをきっかけに障害を持つ方々と知り合うようになりました。アルバイトをしながら1年ほど、どうしたらファッションを使い高齢者や障害者の人たちを元気にできるのか障害者施設や老人施設などを見学し福祉の世界のヒアリングを続けました。そして一度福祉の現場で学ぼうと決意しヘルパー2級の資格をとり介護老人施設に勤務を始めたのです。 高校生の娘さんのお買い物にもつきあうファッション通の素敵なパパ  ———奥様は転職についてどんな風におしゃっていたのでしょうか?  内心は色々あったと思いますが新しい仕事に就くまでの間、妻は本当に何も言わず黙って見守ってくれました。ありがたいですね。もし当時彼女から「早く仕事探してよ」とか毎日のように言われてたら、何かを学び直そうなんて考えず今もファッション業界にいたと思います。 🍀皮膚のコンディションによって左右されない快適な日常 ———介護とファッション、何か共通点があるのですか?  僕がファッション業界でしてきた仕事は接客業です。ファッションを通じて御客様に気持ちを上げてもらうことを大切にしてきました。介護でも高齢者の方の気持ちをアップし一日を楽しく過ごしてもらいたい。気持ちを上げるためのコミュニケーションという点で介護とファッションには共通する部分があると思います。もちろん人生の終末期に関わるという意味では、重い仕事ですが、でもその一方で介護の仕事の魅力は声掛け一つで利用者さんの対応が明るくなったり笑顔になったり…特に認知症の方など結果がすぐに出ることもあります。 ———介護以外の活動もなさっているのですね。  休日を利用し「介護のイメージアップ」と「障害者スポーツ普及」の2つのプロジェクトに関わっています。特に2011年に初めて見た車いすラグビーの魅力に惹かれてユニバーサルスポーツバーなどのイベントを企画しています。ハンディを持つ人と接しているうちにいつの間にか、皮膚のコンディションによってふさぎ込んだりモチベーションが下がったりすることがなくなりました。 本物の飛行機が展示されている所沢航空公園。広大な園内でスポーツイベントも企画する。 航空公園内のカフェをスポーツバ―にして楽しむイベント 🍀アトピーや障害のこともお互い口に出せる率直なコミュニケーション ———障害のある方と接する時にはどんな態度がいいのでしょうか?  これは賛否両論ありますが、僕は「あなたも障害があって大変でしょうけど、健常者だっていろいろ大変なんだよ」と口に出しちゃいます。だって生きるって本当に大変ですから。また、僕はアトピーで顔が傷だらけで酷いときに他人から「異質な人」と見られる視線を感じて生きてきました。だからこそ大学時代の友人が昔そうしてくれたように「お前アトピーって?」って聞いてもいいと思う。そして「うん。アトピー」ってさらりと口に出す。こだわりをなくして素直になると互いの壁がパッと消えるんですよね。そのことを僕は経験的に知っているので障害がある方とも同様なコミュニケーションを取ります。 2016年10月のサッカー興奮のアジア最終予選日本×イラク戦を、障害をもつ友人と観戦。  ———辛かった経験が福祉の世界の活動に生きているのですね。いつもアクティブに飛び回っている鮎川さんを支える原動力はなんでしょう。  やっぱりウチの奥さんですね。彼女のおかげで本当に僕は好きなように動けています。失業して落ち込んでいた時も「どこ行っているの?」なんてあまり尋ねなかった。内心は心配だったろうしイライラする事もあったでしょうが、妻がいつも見守ってくれたから新しい自分の境地を開けたんです。仕事を変えて本当によかった。今の自分が好きだし今の僕でいられるのは、うちの奥さんがいて、家庭や子ども達をいっしょに守り大切にしてくれているからです。 心から彼女に感謝しています。 インフォメーション:アトピー性皮膚炎 アレルギーを起こしやすい体質の人や、皮膚の「バリア機能」が弱い人に多く見られる皮膚の炎症を伴う病気です。主な症状は「湿疹」と「かゆみ」で、良くなったり悪くなったりを繰り返し治りにくいことが特徴です。アトピー性皮膚炎では、本来皮膚にそなわっている「バリア機能」が弱まっているため、外からの異物が容易に皮膚の中まで入りこみやすい状態になっています。皮膚を引っかいたりこすったりといった物理的な刺激や、汗、石鹸、化粧品、紫外線などに影響を受けます。またアトピー性皮膚炎の人は皮膚が弱いため、単純ヘルペスウイルスに比較的簡単に感染しやすいです。感染すると顔や身体などの広範囲に水ぶくれが現れ、ただれたような状態になります。特に初感染の場合は、ウイルスに対する免疫がないため重症化する場合があります。  アトピー性皮膚炎の治療法としてはステロイド剤の塗布が一般的です。一般に症状が出たらステロイドをしっかり塗り、良くなったら塗らないという治療法が行われています。この一方で、患者に自覚症状がないときにもステロイドを一定期間塗り続けることで、肌の良好な状態を維持し、医師の症状が治まったという判断のもとで、ステロイドの減量をはじめる治療法も注目されています。また体質を改善し、アトピーを根本から解決していく治療方法として漢方薬も用いられています。皮膚の赤味、かゆみを押さえる、治頭瘡一方(ぢずそういっぽう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)、消風散(しょうふうさん)などが処方されています。 (撮影)多田裕美子

  • 武藤匠子さん

    【第14回】眼が見えなくなったからこそ見えてくるものもあります どんな時でも変わらずにいてくれる賑やかな家族に「ありがとう」

    武藤匠子さん プロフィール 1958年生まれ 埼玉県草加市出身32歳の時、糖尿病を発症する。48歳のある日突然、糖尿病網膜症となり一日にして視力を失う。7年間のひきこもり生活を経て復帰。現在は視覚障害者の患者会『虹の会』に所属。卓球、ヨガ、フォークダンス、オカリナなどを楽しむ活動的な毎日を送る。 今は安全を考えて必ずガイドヘルパーさんと外出。見えない事を示すためにも白杖は大切な道具です。 ———武藤さんは、糖尿病網膜症で眼が不自由だということですが全く見えないのでしょうか?  はい。眼はあいているので見えていると勘違いされることもあるのですが、中心部が全く見えない中心暗点という状態です。周囲は暗いですがわずかに見えます。色は今着ているピンクのような明るい色が少し認識できる程度です。 ———網膜症の原因である糖尿病を発症した経緯をお話しいただけますか?  私が初めて糖尿病と診断されたのは32歳の時です。当時の私は14歳、13歳の娘と7歳の息子の3人の子どもを育てながら働く主婦でした。近所に両親もいて子育ては手伝ってもらい、スーパーで働いたり、車での配達など活動的に過ごしていました。実は父が糖尿病でした。疲れがひどいなと思った時、もしかしたら私も?という思いがあり受診したのです。その結果、やはり糖尿病だと診断されてしまいました。でもその時は「軽いので生活習慣に気をつけて薬を飲めば大丈夫ですよ」と言われました。実際生活習慣を変えたところすぐに体重も減り、血糖値も安定しました。このように最初に簡単にコントロールできたために、かえって糖尿病を軽く考えてしまった部分があります。その後も薬は適当に飲むという感じでした。子どもたちの受験もあり多忙な時期でしたから、自分の身体のことなんてかまいもせず、働き続けていたのです。 ———糖尿病の合併症である眼の問題が起きたのはいつ頃のころですか?  子どもたちも学校を卒業し、「これで一息かな」と思った48歳の時でした。もともと私は近眼でしたが視力が下がった感じがあり「新しい眼鏡を作らなければ」と主人と話していました。その頃夕方になると身体のむくみもありました。 🍀糖尿病網膜症の「まだ大丈夫」は「もう遅い」です。必ず眼の検診を! ———では糖尿病の影響で視力がゆっくりと低下していったわけですね?  それが失明は突然のことなのです。その日いつものように仕事を終え車で帰宅し、夕食の支度をして主人とテレビを見ていたんです。ところがなぜかテレビがすごく見づらい、真ん中のところだけが暗いのです。有名な芸能人が出ているはずなのになぜか顔がわからない。それで「おとうさん悪いんだけど、ちょっと変な顔してみて?」と頼み、主人の顔を見たんですけど、見えないんです。「えっ!私ひょっとしたらおとうさんの顔が見えなくなっちゃったよ!」と… 武藤さんの見え方は右側の写真のように真ん中が見えない中心暗点と呼ばれる状態です。 ———そんなに突然なんて…事故のようですね。どんなにショックだったことでしょう。  何が起きたのかもよくわからず、翌日眼科に行きました。すると「ひどい眼底出血を起こしていますから元のように見えるようになるのはむずかしいかもしれません」とその場で宣告を受けました。レーザー治療を勧められたのでやってみましたが、私には効きませんでした。 ———糖尿病の合併症を表す「しめじ」という言葉がありますね。し「神経」め「眼」じ「腎臓」に注意ということですが、眼について予防はしていなかったのですね。  そうですね。眼にくるのなんて糖尿病の最終段階だと勝手に思っていました。もし初期から、先生が糖尿病網膜症について、定期的な眼の検査が必要だと教えてくれていたらだいぶ違ったと思うので、それは残念です。糖尿病の人にとって「まだ大丈夫」は「もう遅い」なのです。糖尿病の方は軽症でも早めに眼の定期検査を受けてください。 どんな料理がどこにあるのかを説明するのもガイドヘルパーさんの仕事。何を食べるのかがあらかじめわかるからこそ食事の楽しさが感じられるのです。 🍀見えないことを受け容れ心の回復までにかかった7年という時間 ———突然失明に近い状態になられて精神的にも大変な衝撃だったと思います。  そうですね。先生から「また眼底出血が起きるといけないのでなるべく安静な生活を」と言われたことをきっかけに、ここから約7年間のひきこもり生活が始まりました。仕事も出来ず、好きだった車の運転も、自転車も乗れない。切符も自分で買えないんです。考えることは「このままどうなるのだろう。死んじゃいたいなー」ってことばかりでした。当時初孫は5歳になっていましたが、その頃次に生まれた孫の顔が見られないこともショックでした。とにかくどうやっても見えない事にイライラするんです。唯一テレビは、中心部は見えないけど周囲が少し見えるので、毎日ぼーっとテレビばかり見ていました。 ———出来る事をすべて奪われたような感じは、大変なストレスだったと思います。  主人が休みの時に外へ連れだしてくれる事だけが楽しみでした。時々都合が悪く外出できないと「どこにも連れてってくれない!」と主人に八つ当たりしました。ところがそのうち「私が何かしたいというと、実はいろんな人に迷惑をかけるんだな。わがまま言っちゃいけないんだな」と気付いたんです。その頃から黙って留守番をするようになりました。でも時々「私なんて連れて行きたくないでしょう!そのほうがみんな楽じゃない」といじけたりしていましたね…。そんな時でも主人は一言も言い返したりしませんでした。 バスや電車に乗って、ガイドヘルパーさんと一緒にどこへでも出かけていきます。 ———白杖を持つようになったのはいつ頃ですか?  見えなくなって1年後に障害者手帳を取りました。障害は2級です。初めて白杖を持った時は嬉しかったです。杖を持つ前は主人が危ないから私の腕をとって歩いてくれていたのです。でもそれを見るとからかわれるんです。「あら、いい年して仲いいね!」って。「これからは白杖があるから堂々と腕組んで歩けるね」と主人は笑っていました。 ———優しいご主人ですね。でも白杖があってもご家族の介助なしでは今のように外出はできなかったのですね。  そうなんです。でも、ひきこもって6年目あたりから、「私ってこのままじゃいけないんじゃないかな?見えなくても参加できるものがあったら行きたいなあ」と思い始めたんですね。その頃、留守番中の話し相手だった飼い犬が亡くなったことも影響していますね。今思うと当時から市の福祉課には障害者のための福祉サービスがあったわけですが、そんなことを役所に尋ねるなんて思いもよらなかったのです。 🍀同じ視覚障害者の一言から突然開いたリカバリーの扉 ———今はガイドヘルパーさん(視覚障害者移動支援従業者)と一緒にどこへでも外出なさっていますが、このサービスを知るきっかけになったのは何だったのでしょう?  ある日病院の眼科の待合室で私と看護師さんのやり取りを聞いていたらしいひとりの男性が話しかけて来たんです、それで「私は眼が見えないんです」と言ったら、「僕もですよ」というのです。それまで同じ見えない人と話した事もなかったので驚きました。その人に「私はタクシーで病院と家をやっと往復してるんです。あなたはどうやってここに来たのですか」と尋ねたら、その人は「私はいつもガイドヘルパーさんと来ますよ」というのです。そしてその場で、『虹の会』という視覚障害者患者会の会長さんに電話してくれたんですね。電話の途中で受話器を渡されました。するとその会長さんが電話の向こうで「ガイドヘルパーさんの頼み方は事業所に連絡をするんです。みんなでカラオケやお花見や旅行にもいきますよ。カラオケの歌詞はヘルパーさんに読んでもらえますよ。是非一度会にきてください」と明るく元気な声で話しかけて来たわけです。「え~っ何これ?」って本当にびっくりしました。 虹の会のメンバーとみんなで卓球後のランチを楽しみます。 外に出る事って本当に自由で気持ちのよいこと。ガイドヘルパーさんが歩行の誘導に加えて景色や周囲の状況を説明してくれます。 ———すごいですね。眼科の待合室の見えない方との出会いで突然世界が開けたんですね。  はい。当時の私はテレビで盲目の障害者が水泳で優勝したとか、登山に成功したという話を聞いて「フンっ!そんなの嘘だ、見えなきゃ何も面白いはずないじゃないの~」くらいに思っていたのです。だけど『虹の会』に入会しガイドヘルパーさんと一緒に外に出たときに、はっきりわかりました。自分が何かできる感動や喜びは眼が見えなくても皮膚とか耳とかでちゃんと感じられるということ。そして家族に負担をかけずに好きな事をする自由が戻って来た喜び。主人は何も言わないけど私が自由になったことで、彼がどんなに喜んでいるかがひしひしと伝わってきました。 ———自分らしさを回復なさったのですね。今はどんな毎日なのでしょうか?  糖尿病の体調管理のためにも運動が必要なので、フォークダンスやヨガやウォーキングもしています。『虹の会』の卓球も始めました。卓球はピンポン球の中に音の出る粒が入っているものを使います。ボールをバウンドさせて打つのではなく、ラケットに当てて台の上を転がす特別なルールの卓球です。私は少し玉が見える時がありますが、音と気配で打ち返します。結構ハードなスポーツなんですよ。 視覚障害者の卓球は専用の台で行う。ボールは打たずに転がす。音のでるボールなので見えなくても音を聞いて打つ。 ———運動以外にはどんなイベントがあるのですか?  はい。季節ごとに花見やイチゴ狩りや、ぶどう狩りにも行くしコンサートや落語鑑賞などもあります。食事会や飲み会も…みんないつでも楽しい事ばっかり企画しています。中でも私が今一番頑張っているのはオカリナです。今度コンサートもあるんです。楽譜が読めないので娘が大きな字でカタカナの楽譜を書いてくれます。これを使って暗譜していきます。今オカリナを吹いていている時が1番楽しいですね。 オカリナとコカリナ。娘さんが書いてくれた楽譜でロシア民謡を練習中 🍀透析になる日を少しでも遅らせ活動的な時間を精一杯楽しみたい ———糖尿病のほうはいかがですか?  1年前に腎臓の数値が悪いために透析設備のある病院に転院したほうがいいと言われて腎臓内科のある病院に通うようになりました。毎日インスリンの自己注射に加えて腎臓の薬を飲んでいます。昨年、もしも数値が急に悪くなった時にすぐ透析ができるようにと透析に必要な血管をつなぐためにシャントの手術をしました。その時に活性炭の薬を処方されたのですが、その薬が私に合ったようで、飲み始めるとすぐに数値が良くなり、透析が回避できたんです。活性炭は食後2時間後に飲むと余分な毒素を排出して腎臓の負担を減らしてくれるのです。1年間飲み続けています。とはいえ私の腎臓はもう元へは戻らないです。だから今を楽しみたいのです。日中は卓球やヨガやオカリナやいろいろな行事に参加します。娘家族と暮らしているので家事はかなり娘がしてくれますが、孫に頼まれた料理を作る事もあります。料理も昔作った物は覚えているからその通りにやれば変わらず出来ます。息子は「料理の味は見えなくてもちっとも変わらない!美味しい」って言ってくれるんですよ。 🍀いろいろなことをワイワイ話しながらみんなで囲む楽しい食卓 ———とても幸せそうですね。ご家族と優しいご主人のおかげですね  そうですね。子ども達は結婚後もみんな近所に住んでいます。そして1番感謝してるのは、やっぱり私をいつも黙って見守ってくれている主人ですね。昔から主人は物静かで何でもやってくれる人です。私のそばにいつでも「添うて」くれています。 同居している娘の家族もいろいろ厳しい文句を言いながらも助けてくれています。ウチの家族ってやっぱり普通なんですよ。私が眼が見えなくなる前と後とさほど変わっていない。いろんなことをずけずけ言い合いますよ。 ———ずけずけですか?  主人は食事中にオカズをお皿にとってくれたり細やかに私を助けてくれます。例えば焼き魚を食べていると骨をとって私のご飯の上に魚の身をのせてくれたりするんです。だけど「私はご飯に魚をのせるのは嫌い!味が混ざるからいや~」とか言いたい事を言うんです。そんなやり取りを見て娘は「どうせお母さん文句言うんだから自分でやれば~」とワイワイ。時には見えない私がちょっと失敗すると「見えないの~?」って怒るしね!面白いでしょう。誰も優しくしてくれないんですよ(笑) このごろ私、「見えなくてもいいのかも」って思うようになりました。見えなくなったおかげで今のガイドヘルパーさんをお願いしている事務所『フィールド』の社長とも知り合えたし、友達もたくさんできたしね。でもね私、もし透析になったら今みたいな自由はなくなるとわかっているのです。だからこそ今ね、本当に今出来る事を楽しみたいなって思うんです。 「プーさんはおとうさんに似ているでしょ」と匠子さん。娘さん夫婦とお孫さん、ご主人に囲まれ幸せいっぱいです。 インフォメーション:糖尿病網膜症 糖尿病が原因となって網膜に起こる障害をいいます。糖尿病の眼の合併症としては角膜障害、白内障などもありますが特に日本では成人の失明原因の2位となっています。糖尿病網膜症は単純網膜症、前増殖網膜症、増殖網膜症の3段階を経て進行します。さらに進行すると眼の中に新生血管が発生し、網膜剥離や硝子体出血をおこし、失明にもつながります。糖尿病網膜症はかなり病状が進行しないと自覚症状が現われて来ない事が特徴です。このため気付いた時には重症化している事が多いのです。糖尿病と診断されたら、定期的に内科を受診するだけでなく必ず眼科も定期受診する事が大切です。 ガイドヘルパー(視覚障害者移動支援従業者)眼の不自由な方の外出や活動をお手伝いする資格をもった支援者です。 埼玉県 草加 視覚障がい者 虹の会http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/matinonakade.html (撮影)多田裕美子

  • 元の職場に復帰して経理を担当。会社で仲間と一緒にいることを改めて楽しいと感じる毎日

    【第13回】つらい時も元気な時もいつも笑顔で支えてくれる妻にありがとう

    中島純さん プロフィール 1949年 北海道足寄町生まれ信用金庫勤務の後、映像関係の会社で財務と経理を担当する。2014年7月突然会社で脳梗塞を発症し救急搬送される。半年間の治療とリハビリを経て回復し、会社に復帰。週末には趣味の釣りとゴルフを楽しむ。 🍀夏の暑い日に突然脳梗塞の発作に襲われて 会社で同僚とランチタイム、この日は和食でヘルシーに いくつかの幸運がかさなり早く治療ができました ———中島さんは、お元気そうですね。かなり早くお仕事に復帰することができたということですが、脳梗塞はいつごろどんな状況で起きたのでしょうか?  発症したのは約2年前2014年7月10日です。あの日は会社で昼食から戻り、自分のデスクに座ったのですがその前から少し風邪気味で、デスクでゴホゴホッと咳をしたんです。咳が出たところまでは覚えていますが、そこで意識がなくなりました。僕はいつも職場で冗談を言ったりするほうなので、一瞬会社のみんなは、僕がふざけて倒れたふりをしていると思ったらしいんです。でも何か様子が変だとすぐ気付いたみたいで救急車を呼んでくれたのです。 ———それで救急車はすぐに来たのですね。  はい。ラッキーな事に会社は赤坂にあり、虎ノ門病院のすぐ近くだったので、わずか10分程度で病院に搬送されました。後から聞きましたが、その時救急車に、同僚が同乗してくれました。同時に会社では緊急連絡簿を使って妻に連絡をとってくれていたそうです。 ———社内の連携がよかった感じですね。  はい。10分足らずで入院でき、すぐ医師が脳梗塞と診断したそうです。医師は「脳梗塞の症状の原因となっている血栓を溶かすための薬が有効だが、強い薬なので家族の同意が緊急に必要です」と同僚に話したようです。たまたま、同僚のお母さんが脳梗塞の経験者で治療に関する知識があり「すぐ奥さんが到着しますが、その薬をお願いすることになると思います」と医師にあらかじめ話をしてくれたそうです。ほどなく妻が駆けつけて、妻は気も動転していましたが、すぐ差し出された治療同意書にサインしました。おかげで血栓を溶かすための点滴を早い段階で受けることができました。 ———ところで中島さんはもともと持病などはなかったのでしょうか?  病気になる前はタバコを吸っていましたし、お酒も好きで結構飲んでいました。このため生活習慣病的な要素はなくはなかったと思いますが、特に健康診断で引っかかったり何かの病名がついていると言うことはなかったです。 🍀予兆だったかもしれない前日の熱中症のような症状 ———発症する前後に何か予兆のようなものはありましたか?  特に身体に感じる異変というのはなかったと思います。ただ2年前の夏もとても暑い日が続いていて、当時会社では機材倉庫の物件を探していました。経理部としても下見が必要ということで、倒れる前日に炎天下の猛暑の中、江東区辰巳の倉庫街に行き、そこで道に迷ってしまい長時間外を歩き周りました。その時すでに、熱中症っぽい感じがあったのかもしれません。倒れた当日の朝は、妻の話によると、出掛けにいつになく機嫌が悪かったそうです。 ———熱中症にも気をつけないといけないですね。倒れてから救急車に乗っている時は、意識はあったのですか?  よく覚えていませんが、誰かにずっと名前を呼ばれていた気がします。次に気がついた時には病院のベッドの上でした。すぐMRIを撮ってもらい集中治療室みたいな部屋に入りました。駆けつけた妻の顔を見て「俺倒れたの?」と不思議そうに何回も聞いたそうです。 ———直接の原因は咳こんだことだったのでしょうか?  はい。特に血圧やコレステロールの治療をしていたわけではないですが、やはりタバコも吸っていましたし、実は父や妹も心臓の不整脈があるんですね。だから遺伝的には不整脈になる傾向があったのではと思っています。不整脈があると心臓の中に血の固まりが出来やすいらしいです。それが血管の中ではがれて脳の動脈の方に流れていって、そのせいで、脳の血管がつまってしまうことがあるそうです。私の場合、咳が出た瞬間にその衝撃で血管の中の固まりがはがれ、右側の脳に詰まった様子です。 🍀早期治療のあとに早めに開始したリハビリ訓練 ———かなり治療が早かったので後遺症も少なくてよかったですね。  はい。その血栓を溶かす薬を点滴で入れて翌日には集中治療室みたいな部屋から出て一般病棟へ移ることができました。結局意識が回復してからリハビリをしながら7月29日まで、約2週間ちょっと虎ノ門病院に入院していました。 ———最初はどんなリハビリをしたのでしょうか?  最初は車椅子に乗りかなりぼーっとした感じでした。看護師さんが私にしょっちゅう「お名前を言って下さい」「今どこにいますか」と聞くのです。それから紐を両手でピンっと張って目の前に見せられ、真ん中をつまんでくださいと言われるんですね。簡単なことのはずなのにそれがあんまりできていなかったです。血栓が詰まった場所が右側で、反対の左側に影響がありました。左目が見えていない感じがあり、看護師さんに左の足をつねられてもあまり痛くなかった。妻に後から聞いたのですが両腕を前に上げるように言われ支えてもらっても、左手だけはすぐふにゃーっと下に降りてしまっていた。歩いている時でも、左側の距離感などが掴めないので、すぐ人とぶつかってしまいそうな感じでかなり危なそうに見えていたようです。 🍀深刻に考え過ぎずにありのままを受け容れる 「つい心配になって身の回りのことを手伝ってしまうんです」と妻の悦子さん ———最初は左半身が麻痺するのではないかと不安な状況だったと思いますが。  そうですね。僕は短気なところがあるので少しイライラはしていました。でもその一方で置かれた状況はそのまま受け容れるほうなんですね。いつ退院できるのかは気になったし、「これからどうなるんだろう?」という不安はありました。闘病中にうつっぽくなってしまう人も少なくないそうです。でも僕は、「あーっできないことが多すぎるな、これはあまり真剣に考えてもしょうがない」って感じでした。 ———その後2週間あまりで別のリハビリ病院に転院したわけですね。  20日後の7月29日に墨田区の東京都リハビリテーション病院に転院となりました。ここで最初の3週間ぐらいは車椅子だったんですが、じょじょに車いすから歩行器みたいなものになり、杖になり、なんとか歩けるようになってきました。歩行訓練のほか理学療法などをやりました。周囲の患者さんの中には自主的にリハビリにすごく時間をかけ頑張る人もいましたが、僕は回復が比較的順調だという思いもあり、決められたプログラムに従い後はのんびりテレビを見たりして過ごしていました。その頃から左側の感覚もかなり戻ってきました。早めに処置をしたことがよかったと思いますし、早くから言葉の練習などをしたことも、今思うとよかったのだろうなと思います。 🍀酒席の回数が減って増えた妻と過ごす時間 地元両国国技館前で妻との散歩を楽しみます 両国の安田庭園は日本庭園が美しい静かな散策コース ———結局、後遺症のようなものは残らずにすんだのでしょうか?  大きな後遺症はないですが左足の違和感は今も続いています。このため歩くのは結構疲れます。またそのために自転車のペダルが左足でこげなくなり、自転車はもう乗れない感じですね。自転車であちこちに行くのが好きだったので、これは残念です。また左足は靴が上手く履けないので妻に手伝ってもらっていますし、ズボンのベルト通しなども左側がやりにくいので手伝ってもらうことが多いです。細かく見るといろいろ出来なくなったことがあるのですが、まあそこはあまり深刻に考えないようにしています ———病院を退院なさって何か生活に変化はありましたか?  リハビリテーション病院には約5ヶ月間いました。この間、病院ではタバコが吸えないので必然的に禁煙しました。それまで何回か禁煙パッチを貼ったりしてトライしても出来なかったのですが、あれを機会にタバコは自然にやめる事になりました。以前はお酒も誘われれば朝まで飲むようなことがあったのですが、飲みに行く頻度も減りました。会社の帰りには、仕事をしている妻と駅で待ち合わせをして、食事したり一緒に家に帰ることが増えました。 ———再発予防のためにいろいろ努力していらっしゃるのですね。  うーん。といっても努力のしようもないというか…病院で知り合った方の中には脳梗塞を二度三度と再発している方もおられるんですね。院内の食堂などでご一緒した時に、いろいろなお話を伺ったのですが、具体的に何をしたら再発しないのかはよくわからないんです。私自身はお酒も減らしていますが、運動などももっとしたほうがいいのでしょうが…。左足の調子が悪いので疲れやすく運動もそんなにできないですね。「再発が怖い」という漠然としたイメージだけは持っていますが、運動や減量を継続することはなかなか難しいですね。 🍀仕事も趣味も当たり前に続けられる幸せ ———勤務のほうはどのようにしていますか?  退院後に会社からは「週3日間勤務で復帰」という条件で声をかけてもらいました。このため契約上の勤務は週3日間ですが、あと2日間は自分の希望で出ていますので会社には週5日9時~5時に出社しています。退院した時点で、左足が少し不自由な意外は前と変わっていないんです。病院でも最初は自宅療養をと言われたのですが、実は家にいてもすることがないんですね。僕、家事は苦手でまったくできないし…。妻もフルタイムで働いていますから、家に僕を1人残しているほうが「かえって心配!」というのが妻の本音のようでした。僕も自宅に1人でいるよりは会社にいてみんなと話すのが好きですしね。ただ年齢的にはもう、財務の交渉ごとの現場にいる歳ではないので、仕事はできるだけ若い人に引き継いでいくようにと意識しています。 ———以前と同じようにゴルフや釣りなどの趣味も再開されているそうですね。  はい。地元墨田区両国の町内会の人たちとは親しくしています。それで一緒に楽しく気兼ねなくいろいろな遊びを続けています。ゴルフは病気になる前も上手だったわけではないのですが、病気の後は身体の感覚が変わってボールがクラブによくあたりません。でもいいんです。スコアより皆とわいわい行くのが楽しいんです。 町内会のみんなとワイワイ笑顔でゴルフをするのが楽しい ———病気の体験を振り返ってどんな事を思いますか?  あの経験以来、妻と話し合って、もしどこかでお互いに何かあった時には、すぐ連絡がつくように工夫しています。携帯電話の連絡先には名前の後に(妻)(夫)などを書き入れましたし、自分や家族の連絡先がわかる名刺やメモを財布の中にいつも入れるようにしています。こんな風に備えるのは大切だと思うのです。ただ「この先どうなるのか?」とか、わからないことをあまり考え込んだりはしないようにしているんです。2年前の出来事は幸い倒れた場所が会社で、後遺症も少なかったことは本当によかったと思うのです。そして今、仕事も趣味もほとんど元通りの生活ができているのは、やはり支えてくれた妻のおかげです。退院後は妻との時間を以前より大切にするようになりましたね。会社も復帰の時に快く受け容れてくれたし、大変な経験でしたがいろいろなことが本当にラッキーだったなと思っています。妻には家事や身の回りのことだけでなく気持ちの面でもいつも支えてもらっています。実は「ありがとう」なんて言ったことはないですけど、心の中でいつも感謝しています。 インフォメーション:脳梗塞 脳卒中は脳に血液が流れなくなることにより脳の神経細胞が壊死し、障害が起きる病気全般を示します。「脳梗塞」は「脳出血」、「くも膜下出血」、「一過性脳虚血発作」などとともにこの脳卒中の原因とされる病気の1つで、脳の血管に血栓という固まりが詰まっておこる状態です。脳梗塞が起きた場には、右半身か左半身のいずれかに運動麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりします。治療後も後遺症が残ることも多く、日常生活に手助けが必要になることも少なくありません。もし、脳梗塞が疑われる症状が起きたら、直ちに救急車で脳卒中専門の病院を受診しましょう。病院では、脳梗塞が起こってから4~5時間以内に血栓(血のかたまり)を溶かす血栓溶解療法により血管の詰まりの改善を目指します。また早期のリハビリも有効です。再発防止のためには血液をサラサラにするお薬で血栓をできにくくする治療法もあります。 脳梗塞を避けるには、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの危険因子をしっかり管理し、禁煙や体重管理、運動など生活習慣の改善が大切です。また日常から充分な水分補給をすることが重要です。水分補給により脱水症状が緩和され、血流もよくなります。 (撮影)多田裕美子

  • 浅草雷門から近い『鈴楼』は真っ赤な内装が印象的なバー。愛犬トモと一緒に立ち寄る馴染みのお店

    【第12回】大好きな町で愛犬と共に暮らす。幼なじみの友達と浅草の人情にありがとう

    戸山純子さん プロフィール 1952年 東京都台東区出身 ウェブデザイナー30代まで小劇場の女優として活動。32歳の時、銀座でコーヒー専門店を開店し8年間オーナーとして運営を行う。その後、友人の依頼でカウンターバーの開店を手伝い13年間運営に従事。52歳のころリウマチと診断されるが治療により現在はほぼ寛解状態にある。フリーランスのウェブデザイナーとして企業のサイトの画像処理やシステムづくりを担当する。 🍀介護、仕事で忙しい毎日を突然襲った関節の腫れと痛み 着物を日常着として楽しみたい。季節のタケノコをあしらった帯は江戸っ子らしい粋な着こなし ———戸山さんはお元気そうですが関節リウマチ(以下リウマチ)という持病をお持ちなのですね。  はい。現在は痛みもなく安定した状態ですが、約10年前の52歳の時にリウマチを発症しました。それ以前から関節痛のため整形外科を受診していたのですが…ある朝目覚めたら、手首と足首が腫れて、膝もぷっくりとボールのようで…大変な痛みでした。かかっていた整形外科でリウマチと診断され、リウマトレックスという抗リウマチ薬の飲み薬を処方され約1年間治療しました。 ———リウマチは痛みの他に全身倦怠感がひどいそうですね  はい。関節の痛みの他に熱が出る事もありました。リウマチの薬に加え炎症を抑えるためのステロイドの錠剤と点滴を1週間に一度打っていました。ステロイドを使うと顔がむくみ気分が悪くなるときもありますが、関節の痛みはすぐ引くんです。ただ、その効果は長続きしないので困りました。 ———大変でしたね。当時体調をくずす原因となるようなことはありましたか?  女優時代はかなり不規則な生活でしたね。32歳の時、銀行から3000万円を借金して銀座にコーヒー専門店を開店し8年続けました。業績は好調で借金も返済しましたが、事情がありお店は閉店しました。ほどなく友人が数寄屋橋でカウンターバーを開くというので、その企画から参加し運営を13年間手伝ってきました。仕事は多忙でしたね。その当時私は上野で一人暮らしをしていましたが父が亡くなって実家のある竹の塚(浅草から移り住んだ)に戻り、母と二人の暮らしが始まりました。母は抑うつ状態で、だんだん介護が必要な状態になっていきました。母は依頼心が強く1人では何も決断しないけれど、結構頑固で言い出したら聞かないタイプですから介護は大変でした。 ———リウマチのような免疫系の病気になる方は、それ以前にご本人が意識しなくても何らかのストレスがかかっている場合も少なくないと聞きます。  そうですか。当時、家族関係も大変でしたし、更年期で急に身体が熱くなり汗が噴き出すような症状も体験していました。特に原因は思い当たりませんが 仕事と介護が重なり気付かないうちに身体に負担をかけていたかもしれませんね。手足の関節にいくつもサポーターを付けて仕事に行っていました。 ———その後の経過はいかがでしたか?  私の場合は最初に通院した整形外科でもリウマチと診断され治療していましたが、約1年通っても症状が治まらなかったので、先生が荒川区の東京女子医大東医療センターのリウマチ科を紹介して下さいました。発症から1年後に生物学的製剤を使った本格的なリウマチの治療を始めました。私のように整形外科にかかっていても症状が長引く場合は、リウマチ専門医を早めに受診し、治療法について相談したほうがいいと思います。 🍀登場した新しいリウマチの治療薬に救われて ———そこではどんな治療をしたのでしょうか?  私が今使っているリウマチの薬、生物学的製剤は、当時まだ出たばかりでした。「生物学的製剤というのは遺伝子組み換え技術によってできたもので、リウマチの原因となる炎症蛋白を直接的に抑え込むお薬のことです」と先生に説明されました。1ヶ月4万円以上の治療費がかかると知り大変驚きましたが、治りたい一心で使う決心をしました。最初はレミケードという生物学的製剤を試しました。半日かけて病院で点滴を受けるのですが、これが私の身体に合わなくて、発熱したり口の中に湿疹がでたりして大変でした。熱が上がると点滴できずに「熱が下がるまで待ちましょう」と言われ、朝10時に病院に行って終わるのが夜8時になんてこともありました。体質に合わなかったけれどリウマチ自体はこのお薬で良くなったんです。2ヶ月に1度、6、7回は点滴を続けたと思います。 ———今もそのお薬を続けているのですか?  いいえ。 「 つらくて我慢できない 」 と先生に訴えたところ別の生物学的製剤のヒュミラという薬に変更しますと言われました。こちらは点滴ではなく注射をするタイプです。最初は病院に注射のために通っていたのですが、自分でできるようになったので今では自己注射をしています。 よく立ち寄るホットケーキで有名な喫茶『天国』のオーナーと ———自分で注射するなんて怖くないですか?  お腹に注射するので、もちろん痛いけど、病院で看護師さんが打つのとは違い自分のペースでできるので痛みは少ないですよ。自分なら液をゆっくり入れられますから。2週間に一度木曜日にお風呂上がりに打つと決めているので、入浴前に冷蔵庫からお薬を出し常温にしてから打つとあまり痛くないんです。私はこの自己注射のおかげで楽しく生活できています。ただリウマチの治療はどの薬が効くかも効果もかなり個人差があるようです。 ———その自己注射だけで体調を管理できているのですか?  自己注射に加えて、最初の整形外科で処方されたのと同じ飲み薬のリウマトレックスとステロイド剤のプレドニンも一緒に使っています。一時期、肝機能がだいぶ悪くなったことがあり6錠飲んでいたリウマトレックスを4錠に減らしたら、約3ヶ月くらいで肝臓の値は平常値に戻りました。毎月のお薬代が高いのが悩みですが、それでも早期治療により関節の変形が防げるそうなので、あの時迷わず決断してよかったと思います。おかげで関節の変形はありません。 🍀リウマチの痛みを忘れさせてくれた愛犬トモは人生のパートナー ———当時、リウマチの症状を抱えながらお母様の介護もなさっていたのですね。  はい。母にはヘルパーさんが来てくれていましたが、私も関節が痛くて動けなくなり寝込むこともありました。私は不満や愚痴を言い続ける母と2人でいることに疲れ、パグの赤ちゃん「トモ」を飼うことにしました。当時の私には生活のスパイスみたいなものが必要だったのですね。その母が9年前に亡くなり独り身になった時、トモと一緒に竹の塚から生まれ故郷の浅草に再び戻ってこようと決めたのです。トモは私の大切なパートナーです。当時は体調が悪くトモを散歩に連れ出せない私を心配して姪の娘たちも自宅によく来てくれました。今は中1と高1になりましたが孫のように可愛いです。 チンドン屋さんと遭遇。この町ならではの突然出現する異空間に紛れ込む楽しさ ———今マンションでの一人暮らし、毎日どんな風に過ごしていますか?  朝7時頃に起きて朝ご飯を食べ、まず犬の散歩をします。今は主にウェブデザインの仕事をしています。パソコンは得意で銀座のお店をやっている時に独学で覚えたんですよ。だいたい午前中から4時ころまでパソコンで作業します。フリーランスですから時間の使い方は自由ですが規則正しく生活しています。ほかに依頼があるとレンタル衣装屋さんで着付けのお仕事もしています。一番頑張っているのが週2回ストレッチ体操に通うことです。お料理は得意ですね。なるべく野菜を多めに、タンパク質もとるよう栄養には気を使っています。でも夕方街を散歩していて誰かに誘われれば飲みにいったりすることもありますね。 観光客の方の着付けも楽しい仕事です 観光スポットの中心にある行きつけの銭湯 蛇骨湯 ———今気をつけているのはどんなことでしょうか?  そうですね。冷えると関節が痛みますので身体を冷やさない事ですね。リウマチの症状というよりも、年齢的な問題で身体の衰えが心配です。身体が痛いのかもしれないのですがリウマチの痛みとして強く感じないのは、もしかしたら慣れてしまって元の状態を覚えていないせいかもしれません。トモの朝晩の散歩もトモのためだけでなく自分のために身体を動かしたいという気持ちで続けています。 ———他に健康法で実践している事はありますか?  お風呂に入る事ですね。一番症状がひどかった時は身体が痛くて自宅の湯船に入る事すら大変だったのですが、そんな時でもひたすらお湯につかって身体を温めるとずいぶん楽になりました。今は時々銭湯 『蛇骨湯』にも行きます。 🍀病気になって気づいた弱さや生きづらさを抱えた人の気持ち ———病気をしてから変わった事はありますか?  はい。なんだか人に寛容になりましたね。母も看取りましたしね。私自身は元気で活動的なタイプでしたので、昔は具合が悪いという人がいても、実は内心「大したことないのでは?さぼってるのでは?」という見方をしがちだったのです。このため「心が衰える」ということが実感としてよくわからなかったんです。でも自分がリウマチになって、毎日あちこちが痛く、なかなか治療法も定まらず、いろいろな事が自分の思い通りにならないというのを始めて体験して、弱さを持った人に優しくしようと思うようになりました。 ———感じ方が変化したのですね  そうですね。とはいっても、私は以前も今も1人でいることが苦痛ではないんです。べったり甘えあうような距離が近すぎる関係って苦手です。シンプルで普通の暮らしを淡々と送るのが自分らしいと思っています。今は規則正しい生活で薬もきちんと注射していますし体調に不安はないのですが、やはり地元に浅草の友達や幼なじみのみんながいることは心強く感じますね。 レンタル着物屋さんの社長とカフェバー『鈴楼』のスタッフ。浅草の若いお友達です ———地元の方っていいですね。  ええ、私より若い世代の浅草の友達といっしょに過ごすのも刺激があり楽しいです。それから同級生も多いです。雷門通りの鞄屋さんとか、橋場で大工やっている子、お豆腐屋さんとかね。商売していた人もみんな子どもが独り立ちしてもうのんびりしています。みんなどこか具合悪いとこがあるから病気の話もしますよ。血圧自慢になったりね。銀座のバー時代のお客さんも浅草にくれば声をかけてくれます。私にいろんな事を相談してくる人も多いんですよ。昔の友達に会えば一緒に過ごしてきた昔の時間に戻り、温かい気持ちになれます。「アタシ誰の世話にもならないわって!」なんてこっそり言うんですけど、やっぱり浅草は私の故郷。友達が近くにいることに「ありがとう」と言いたいです。 インフォメーション:関節リウマチ 関節リウマチは自己免疫疾患の一つで、全国に70万〜80万人の患者がいると考えられています。病気の男女比は1対4と女性に多く、高齢者の病気のような印象ですが実は働き盛りの30~50歳代がかかりやすい病気です。免疫の異常により関節の滑膜という組織に炎症が生じます。関節痛に加え、全身倦怠感や疲れやすさが特徴的です。手の指や足の指などの小さい関節の痛みで発症に気付く場合が多いですが膝などの大きな関節が侵されることもあります。全身の関節に進行していく病型の患者さんの場合、指や手首の関節が破壊され、指が短くなったり、関節が脱臼して強く変形することがあります。また背骨の変形などにより脊髄が圧迫され、手足が麻痺したり、呼吸がしにくくなる場合もあります。リウマチの経過にはいくつかのパターンがあると考えられており、病気の発症後短期間で多くの関節の破壊が進む患者さんもいれば、初期だけ症状があり1−2年で自然と寛解にいたる患者さんもいます。最近は生物学的製剤などの治療薬の進歩により、早期に診断して治療を開始できれば、病気の進行を最小限に食い止められるようになってきています。 (撮影)多田裕美子 取材協力:カフェバー『鈴楼』  珈琲ホットケーキ『天国』  レンタル着物『浅草衣匠 弥姫乎』

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    【第11回】認知症になっても希望と尊厳を持って生活できる社会をつくるために活動したい。いつも助けてくれる弟に「ありがとう」

    佐藤雅彦さん プロフィール 954年岐阜県出身名古屋・名城大学理工学部数学科を卒業後、中学の数学の教師として勤務。その後民間のコンピューター会社のシステムエンジニアに転職。2005年51歳でアルツハイマー型認知症と診断される。「認知症であっても不便だが不幸ではない」と全国で自身の体験を語る講演を行う。「認知症とともに歩む本人の会」(埼玉県川口市)を主催。日本認知症ワーキンググループ共同代表。 🍀認知症は不便だけど工夫いっぱいの明るい一人暮らし 著書『認知症になった私が伝えたいこと』(大月書店刊)は2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞しました。 歩き慣れた道を散歩し、お気に入りの喫茶店にも1人でいきます ———佐藤さんは51歳で認知症と診断されてから11年間も一人暮らしをされているということですね。  そうです。ただ食事の支度が負担になってきたので、昨年6月にケアハウスに引っ越しました。ここでは食事のほかに風呂の準備もしてくれるので助かっています。 ———毎日どんな風に生活していらっしゃるのでしょうか?  日曜日は教会の礼拝、月曜日はヘルパーさんがきて掃除をしてくれます。水曜日は聖書の勉強会、週末は認知症について講演会の講師をすることもあり、地方出張や行楽地にも行きます。朝は6時に起き、調子のいい時は散歩に出ます。朝食後はFacebookの更新をしたりパソコンでその日のスケジュールを確認します。 ———本の出版もなさっていますし、こうしてお話していても記憶障害があるようには見えないのですが。  よくそう言われたりしますが、実際には直近の記憶が保てないのです。例えば私は糖尿病で自己注射をしていますがインシュリン注射を打った事を3分も覚えていられないんです。電話で人と約束をしても、何日の約束かをすぐ忘れてしまうからiPadに記録したり、お話は録音したりしているのです。前日に何を食べたかも記憶はできないので、食事も写真でiPadに記録しています。そして食事の写真を見れば食べたものを思い出せますから。 ———佐藤さんから見える世界ってどのような感じなのでしょうか教えて下さい。  例えば普通の人は町を歩いているとそれをムービーのように覚えるんだけど、私は風景をコマ写真のようにぽつぽつとしか覚えていない。だけど「町の中にあるランドマークの前をいくつか通りすぎれば目的地に着くでしょう」という感覚で捉えています。 🍀「記憶する」の代わりに「記録する」必要に迫られて覚えたiPad 取材の様子も忘れないうちにさっそくFacebookにアップ ———いつもiPadをお持ちですが認知症になってから使い方を覚えたそうですね。  そうです。自分の暮らしに「これがあったら便利だな」というのを気づいたらいつでも忘れる前にiPadに入力するようにしています。設定は詳しい人にお願いしました。「記憶が悪いのでメモしておくためにぜひ使いたい」と必要に迫られればiPadは誰でもできるようになると思います。 ———物をなくしたり忘れたりする失敗もあると思いますが大丈夫なのでしょうか?  財布や携帯を忘れたりすることはよくあります。対策として出かけるグッズを一カ所にまとめたり玄関のドアに持ち物確認リストを貼るなど工夫をしています。大切なものを失くした時は焦って探すとよけいに混乱するので出てくるまで待つようにします。鍵やSuicaなどは予備をもっています。携帯電話も連絡先など大切なデータはバックアップを用意しています。 🍀記憶障害により次第に仕事が出来なくなって行くつらい日々 ———若い頃はシステムエンジニアとして忙しくお仕事をなさっていたのですね。  はい。仕事一辺倒の人生を送っていました、性格は真面目でもの静かなほうでした。忙しい時には仕事をよく家に持ち帰っていましたね。当時体調を崩したこともあり人生の目的を求めて、キリスト教の教会に通うようになりました。39歳で洗礼を受けました。 ———認知症の兆候はどんなことだったのでしょう?  アルツハイマー型認知症と診断されたのは51歳の時です。45歳ころに課内会議の議事録が書けないなど仕事がこなせなくなり、2年間休職しました。復職後は配送係に配置転換されましたが、次第に配送先の場所を探すのに時間がかかるようになりました。 ———それで受診されたわけですね。医師からはどんな説明を受けましたか?  精神科を受診して、問診の後CTを取り、脳に萎縮がみられるとのことで、アルツハイマー型認知症と診断されました。病気に関する説明もいっさいなくショックで思考停止状態に陥り、会社を3か月欠勤した後、退職しました。 ———診断により、精神的にひどいダメージを受けたわけですね。  はい。その後、本で調べると「考えることが出来なくなる」「多くの場合は6年から10年で全介護になる」とあり絶望を感じました。知識が増えるほど、気力を失う地獄のような毎日でした。食事を作る気力もなくやせて動けなくなっていました。弟が岐阜の兄の家で静養する手配をしてくれまして、岐阜に戻り50日の間、兄嫁に毎日食事を作ってもらいました。 🍀「私が耐えられる試練を与えられたのだ」と信じること ———そんな状態だったのに岐阜で50日間過ごした後再びご自宅のある埼玉に戻れたのはなぜですか?  次のような聖書の言葉に支えられ教会に行きたいと思う一心で埼玉へ戻ってきたのです。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント10:13)  この聖書の言葉を読み「自分の命は自分のものではない。神から与えられたものだから大切にしなければいけない」と思いました。これが立ち直るための力となりました。 「与えられた命を大切にしなければ」と気づき立ち直りました。 ——— 一人暮らしを続けるには気持ちにプラスしてどんな具体的支援が必要でしたか?  介護保険を申請し、配食サービス、ヘルパーさんを頼むなど制度を利用することにしました。手続きをしてくれたのは弟です。弟は最初の診断にも同席し「私が一緒に住んで面倒をみます」と言ってくれました。今もパソコンの設定を手伝ってもらったり、弟にはとても感謝しています。 🍀「出来ない事」ではなく「出来る事」に着目し新しい人生を生きる ———認知症の診断を受けて落ち込んでいるご本人は事態をどのように考えればいいのでしょう?  まず、認知症と診断されても何も出来なくなるわけではないということを知ってください。是非、まずは同じ病気の仲間の発信する意見に耳を傾けてください。インターネット上にたくさんあります。読んでいただけば、「自分だけではない」と気づき元気をもらうことができるはずです。生活していく上でのヒントもたくさんみつかります。 兵庫県三田ハニーFMラジオに出演し認知症の偏見をなくすための話をしました。 当事者の発信する情報を是非みてほしいです ———お医者さんについてはどのように考えればよいでしょう?  私の精神科クリニックの先生は非常に良い先生ですね。いい先生は患者の意向を汲んで必要な提案をしてくれます。患者から学ぼうというような気持ちがみじんもない医師は困ります。良くない医師なら転院も考えていいと思います。それから、できるだけいい診察を受けるために、私は診察前に聞きたい事はメモして行くように工夫しています。 ———診断に対してご家族など周囲の人はどんな態度をとればよいですか?  周囲の人は「本人が元気になるのを信じて待つ」という態度で接してください。多くの認知症のご本人は「自分の状態は言っても伝わらないだろう」と思って言わない可能性があります。「本人には出来ない」と思われたほうが家族関係はスムーズに行くと思っている。あるいは前向きな思いはあるが、それを適切な表現にして表す能力が失われている可能性もあります。例えば料理ができないという場合でも、切る、煮る、味付けなど調理には行程がたくさんあります。よく調べて「出来ない」という状態を分析し、その部分だけを支援すれば「出来る」になるかもしれません。 ———偏見は当事者の方自身の中にもあると思うのですが?  それはまず疑って自分で検証してみることです。たとえば「何も考えられなくなるって真実なの?」と常識を見直す。「それは誰が証明したの?」と冷静に考える。私は検証しながら自分の偏見を変えたので、今、私の中に認知症に対する偏見はないです。世間の偏見については時間がかかっても、私は一つずつ身を持ってなくしていこうと考えています。 🍀自分に素直になる。正直になる。謙虚になる。 ———佐藤さんはどうしてそんなに諦めないで頑張れるのですか?  それは新しい人生を始めたいからです。「認知症の人がこうすれば充実した人生を送れる」ということを、身をもって示したいのです。当事者の方は自分の能力を低く見積もらないことです。家族や社会に対して小さくともできることをする。「自分は社会のお荷物ではない」と考える事が大切です。私はそのためにいつも自分の「出来る事リスト」を作って更新しています。支援を求めるカードも作ってみました。 認知症であることを公表する手作りのカード 2月の出来る事リストの一例 ・ 近所に一人で、散歩に行くことができる。・ 取材で自分の言いたいことが、伝えられる。・ 定時に血糖値を測定することができる。・ 頭痛もなく、風邪もひかず毎日おいしく食事がとれる・ 困りごとの対策を考えることができる。・ 認知症の仲間を勇気づけることができる。・ 認知症の人の支援者を元気づけ逆支援することができる 支援者の友人と新宿御苑で散歩を楽しみます 佐藤さんが臨床美術という会に参加し描いたスーパームーンの絵 ———とても活動的で週末は講演の他にいろいろお出かけもしているのですね。同行してくれる方募集などもしているそうですね。  はい。一度Facebookに「ミュージカルを見に行きたい」と書いたら、友人の1人が「佐藤さんと一緒に芝居を見に言ってくれる人いませんか?」と周囲に聞いてくれてその方の知り合いから申し出があり、『ライオンキング』を観に行くことができました。恥ずかしがらずに素直に助けを求め、助けてもらった事に感謝することも大切です。 ———充実した暮らしを維持することができていて素敵ですね。  はい。失われた能力に嘆くのではなく今あるすべての物に感謝しています。素直になり、正直になり、謙虚になることです。発症時の一番大変な時を支えてくれ、今も日常を助けてくれる弟の晴紀さんに「ありがとう」と言いたいです。認知症は不便ですが不幸ではありません。そして困難は人生を豊かにするための糧です。試練には必ず脱出の道があります。認知症になっても将来に希望を持ち、残された能力に感謝して、精一杯生きていきたいです。 インフォメーション:アルツハイマー型認知症 アルツハイマー型認知症は、脳にアミロイドβやタウと呼ばれる特殊なたんぱく質が溜まり、神経細胞が減っていくために、記憶障害が起きたり、情報を伝える事が出来なくなる病気と考えられています。国は2015年に認知症の総合施策を策定し、その中で早期診断・早期対応の支援体制を打ち出しました。従来は症状が悪化してから始めていた支援を、認知症の疑いが出たときから看護師や医師、介護福祉士などの専門家の初期集中支援チームで支援するものです。チームのメンバーが本人の悩みや不安を聞き取り、医療や介護など適切な支援につなげる取り組みが始まっています。 ■認知症とともに歩む本人の会佐藤さんが主催する川口市を拠点とした当事者会http://www.sato-masahiko.com ■3つの会@web「つたえる」「つくる」「つながる」3つの「つ」を通して認知症の方々が参加するWEBサイトコミュニティですhttp://www.3tsu.jp (撮影)多田裕美子   取材協力:カフェまどか(埼玉県川口市)

  • 山下公園は海の広がる景色を楽しむお気に入りの場所

    【第10回】過去のがんによる痛み、苦しみさえも癒してくれた。素直な自分のままでいさせてくれる夫に「ありがとう」

    多和田奈津子さん プロフィール 1972年 神奈川県横浜市出身悪性リンパ腫患者会 一般社団法人 グループ・ネクサス 理事東洋英和女学院短期大学保育科卒。16歳で甲状腺がんの手術を受ける。1995年より朝日新聞社東京本社出版局に契約社員として勤務。在職中に悪性リンパ腫を発病。著書に闘病生活を綴った『へこんでも 25歳ナツコの明るいガン闘病記』(新潮社刊)がある。現在、患者会理事として相談者への対応や広報などを担当する。 🍀活発で元気な女の子に2回もふりかかった「がん」という試練 横浜ホテルニューグランドのティールームで ———多和田さんは大変明るくお元気そうに見えますが、実は16歳と25歳の2回も異なるがんになった経験をお持ちなのですね。  はい。1回目は16歳の時の甲状腺がん。そして2回目は、会社員だった25歳の時、副鼻腔にできた悪性リンパ腫という血液がんを経験しています。 ———闘病後に悪性リンパ腫の闘病記『へこんでも 25歳ナツコの明るい闘病記』を出版し壮絶なガン治療体験を若い女性の瑞々しい感性でユーモアも交えて書いていますね。出版から約15年がたちますが現在の体調はいかがですか?  再発もなく元気に過ごしています。ただ鼻にできたガンを放射線治療した影響で目が涙目になりやすいこと、嗅覚がほとんどないなどの後遺症があります。 🍀10代後半で向き合った「生きる事」「死ぬ事」 ———がんの発症と治療についてお話しいただけますか?  16歳のある日、右下の首の付け根にしこりが見つかりました。細胞検査の結果、甲状腺がんでした。「すぐ手術を」と勧められ高校1年生で手術をしました。 ———多感な高校時代にほかの人とは違う大変な経験をしたのですね。  手術の経験を通して生きる事と死ぬ事について考えました。当時母には何でも話せていたのですが、「私なぜがんになったのかな、死ぬってどんな感じなの?」などと死について話すと母がとても悲しそうな顔をするので、あまりその話題はできなくなったのです。そんなこともあり、手術後、登校した時に病気のことをその人に話せるかどうかで、私の中で友人について1つの基準みたいなものができた気がします。人とは違う経験を持つお友達と深い感情でつながることを16歳で体験しました。 がんはもちろん好きになれない病だけれど、経験を通して成長の機会も得ました 🍀楽しいOL生活を襲った「悪性リンパ腫」 ———25歳の時に、甲状腺のがんが再発してしまったのですか?  いいえ。甲状腺のがんとはまったく別の悪性リンパ腫という血液のがんです。21歳の時に甲状腺機能を整えるためにアイソトープ治療を行いました。体調がとてもよくなり、仕事の後のスポーツジム、スキーや海外旅行と充実した楽しい日々を送っていた頃でした。 ———病気になる前には何か前兆のようなものはありましたか?  25歳の秋に、風邪がずっと治らない感じになりました。朝は微熱があり出勤すると一日中くしゃみと空咳、鼻水が止まらず、午後2時頃になると背中に漬物石が乗ったようにだるくてたまりません。見かねた上司の勧めで耳鼻科を受診しました。初診で鼻の中に腫瘍があると診断され、すぐ大学病院での検査となりました。検査の結果、悪性リンパ腫と診断されたのです。 中華街のブティックROUROUで。明るくてきれいな色の服を着ると元気が出ます。 🍀放射線治療に続いて過酷な抗がん剤治療に耐える日々 ———いきなり悪性リンパ腫との診断、ショックだったことでしょう。治療は、手術ではなく放射線治療と化学療法(抗がん剤治療)の両方を行ったのですね。  はい。鼻の腫瘍の部分に毎日1分間程度の放射線照射を20回しました。放射線治療は午前中に放射線を照射すると、昼は食欲が減退し、午後2時くらいになるとさらに気持ちが悪くなり、ベッドで雑誌を読む事すら出来ない感じです。放射線でがんを小さくした後は、転院し自家末梢血肝細胞移植という治療法を選択しました。これは致死量に近い大量の抗がん剤を点滴で入れて癌を徹底的に叩く治療法です。抗がん剤の大量投与による吐き気は本当に激しいものでした。白血球の減少のため後半は無菌室での治療となりました。闘病中は会社時代の友人や小学校時代の友人が次々にお見舞いにきてくれました。中でも心の支えとなったのは小学校時代からの親友の存在です。いつもずっと変わらない態度で接してくれる大好きな友人です。 ———治療はどのくらい続きましたか?  1997年の10月に告知を受けてから放射線治療を受け、それが終了したのが12月末、その後抗がん剤の治療が年明けから5月末まで続きました。 ———約7ヶ月におよぶ、壮絶な治療をやっと終えられたのですね。  はい。でも実は、がんの治療を終了した時が私にとっては精神的に一番つらい時期でした。「医療的にはできることはやり尽くした。でもいつ再発するかもわからない」という不安な状態での自宅療養で、早く元気にならなければと焦っていました。そんな時、家族が言ってくれた「あなたの好きなように生きなさい」の一言。急に気持ちがラクになったことを覚えています。 🍀心の中の言葉を紡いで書いた友に捧げる闘病記 著書の「へこんでも」新潮社刊コンニャロー☆の帯が印象的。 ———闘病記はどんな風に書いていったのでしょうか?  最初は知人の勧めで書き始めました。お見舞いに来てくださった方のことを書いた私の日記、気持ちを綴っていた母の日記、治療経過を記録していた父の日記、そして医師の言葉や治療のこと。私の心の中に記録していたものを再現しながら自分の体験を物語にすることで、私は自分を取り戻していきました。もう一つ描きたかったのが、同じ病院で闘病生活を送った同年代の友人のこと。彼女は残念ながら亡くなりました。ユーモアがありいつも明るく笑い支え合っていたかけがえのない友人です。彼女がこの本の中、そして読んでくださった方の心の中でずっと生き続けてくれることを願いながら書きました。 ———つらい体験を語る闘病記でもいつも明るく元気なのはどうしてですか?  実家、多和田家での育て方がどうやら「よりよく生きる」のようなんです(笑)母や妹から「なってしまったものはしょうがない。どうせ同じ時間を過ごすなら泣いてすごすより笑って楽しく過ごそうよ」と言われます。父は言葉では何も言いませんが、その意見に賛成のようです。 🍀闘病記出版は「終わり」ではなく「始まり」 患者会の活動で友人とよく立ち寄る中華街の関帝廟で。 食べることが大好き。ここ中華街には夫婦でよく来ます。 ———闘病記からさらに患者会活動へと発展していったのはなぜでしょう。  当初は闘病記を書いて「これで終わり」と思っていたのです。でもいろいろな反響があり、「もしかしてこれが始まり?」って。いわゆる普通の女の子だった私ですが「がんになるってどんなことなのか」を皆さんにお伝えしたいと思うようになりました。闘病記を出版社の元上司に送ったことがきっかけで、現在の悪性リンパ腫の患者会グループ・ネクサスを紹介されました。 ———患者会で、多和田さんはどのような活動をしていますか?  現在、私は講演でお話をしたり、お茶会の司会のほか、本を通じて知り合ったマスコミの方などに対して患者会の広報的な仕事をしています。抗がん剤治療による美容上のお悩みのある方を対象にしたビューティ−セミナー、治療法の選択などで悩んでいる患者さんと一緒に問題を整理するお手伝いをするというスタンスで相談業務にも関わっています。 ———がんの患者会の活動をともにしているネクサスの代表 天野慎介さんと昨年ご結婚なさったのですね。おめでとうございます。  ここ横浜のホテルニューグランドは結婚式を挙げた思い出の場所です。彼は同じ悪性リンパ腫の闘病経験を持つ患者です。以前からともに活動してきました。彼が会員さんのために、事務所に仮眠用ベッドを持ち込んでまで仕事をしている姿を見て、その活動をずっとそばで支えていきたいと思いました。 横浜ホテルニューグランドは結婚式をあげた思い出の場所 🍀生きながら死に近づいていることを素直に受け入れられた ———幸せいっぱいの多和田さんですが、昨年突然小脳梗塞になられたんですね。  そうなんです。患者交流会の司会中にめまいとひどい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれました。幸い血栓を溶かす点滴治療で助かりました。歩行訓練などのリハビリを行った結果回復し、ほぼ日常生活に支障はなくなりました。 ———一番幸せな時期に、突然の病気はかなりショックだったことと思います。  そうですね。でも脳梗塞で入院した時に過去の闘病生活にはなかった安心感を抱きました。これまでももちろん家族や友達などに支えられてきました。でも本当の私はどこか孤独で「不安な気持ちは自分の中にとどめておかなければいけない」と頑張っていた。でも今回、私は何も心配せず素直な自分のままでいられたのです。それは夫がいてすごく支えてくれているから。ありがとうってあらためて口に出してはいませんが…。体調のことで落ち込む事はあったけれど、死への恐怖が今までとは違ったのです。もちろん死ぬのは怖いですよ。でも人って生きながら死へも近づいているのだなという事実を素直に受け容れられたんですね。脳梗塞になったことさえも、それだけ長く生きられた結果なんだなって…いつのまにか私の中で過去のがんの痛みや苦しみさえも癒されているということに気づいたのです。 そばにいてくれる夫に「いつもありがとう」の言葉を伝えたいです。 ———今一番したいことは何でしょうか?  彼と旅行に行ってみたいですね。25歳の時に海外旅行に行って以来、海外旅行はしていないのです。新婚旅行も行きたいな。これから彼と一緒に違った世界を見てみたいなって思います。 インフォメーション:c 悪性リンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れて、腫瘤ができる病気です。リンパ腫はリンパ節以外の部位も含めてからだのさまざまな部位に発生する場合があります。有効な治療法には、放射線療法、抗がん剤による化学療法などがあり、血液内科など血液疾患に詳しい医師による治療が勧められます。 一般社団法人 グループ・ネクサス・ジャパン悪性リンパ腫の患者会。会員約1300名。2001年設立。悪性リンパ腫の患者さんやその家族への情報と交流の場の提供と共に、疾患に関する普及啓発に努めています。調査研究や政策提言など悪性リンパ腫を取り巻く環境の改善に尽力する団体です。http://group-nexus.jp/nexus/ (撮影)多田裕美子

  • 石井匡さん

    【第9回】見守る、許す、助けてもらうことを恐れなくていい。分かち合える幸せをくれた妻に「ありがとう」

    石井匡さん プロフィール 看護師 病院勤務1978年生まれ 埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)出身 看護師歴16年。最初に勤務した病院では外科・内科混合病棟に勤務。その後総合病院に転職し現在は消化器外科病棟の看護師として勤務する。29歳の時、離婚問題が原因でうつ状態となる。職場の理解や友人のサポート、鍼灸治療により回復し健康を取り戻す。その後再婚し新しい家庭生活をスタート。病棟の看護師としてマネージメントや後輩の教育など、管理職としても活躍中。 🍀幸せだったはずの家庭が突然崩壊しはじめた衝撃 ———看護師さんのお仕事は夜勤もあり、かなり激務というイメージがありますが。  そうですね。もう慣れていますが、平均して1か月に5~6回の夜勤がありますし、定期的なシフトではないので体調管理のリズムは作りにくいかもしれません。たまに寝不足でイライラする事はありますが、この仕事を選んだ以上それは当然のことだと思っています。 ———まだ男性看護師さんは少数派ですか?  はい。男性看護師は増えてきていますが圧倒的に女性の職場ですね。看護学校を卒業した時、同級生の中で男性は二人でした。でも職場では性別に関係なく誠実に接していれば患者さんは受け容れてくれますし「男の看護師さんってやさしいよね」とこっそり言われる事もあるんですよ。 ———不規則な勤務体制や職場のストレスから深刻な抑うつ状態になられたということですか?  うつ状態になった直接の原因は、仕事ではなく家庭生活のほうでした。23歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ家庭を大切にしていたつもりですが、20代前半はどうしても仕事に集中しなければならない時期が続きました。29歳になってやっと仕事にも余裕が生まれ家庭も楽しむことができそうという感じになってきた時、妻による精神的な攻撃が始まったのです。 ———精神的な攻撃とはどんなことなのでしょう?  突然、妻が私の一挙一動や過去のことを徹底的に批判し始めたのです。私は仕事にもポジティブに取り組むほうですし、いろいろなことに正面から向きあい努力するタイプで、問題があっても話し合いで妥協点をみつけてきました。しかし、人からあれほどまでに攻撃的な言動をぶつけられた経験はありませんでしたし、ずっと一緒に暮らしてきた妻の態度だけに衝撃を受けました。 あらゆることに文句を言われ、否定され「離婚したい、出て行ってほしい」といった言葉の暴力が約3ヶ月続いたことで私は次第に自信を失い、何事にもビクビクするようになっていきました。 🍀友人からの指摘に「そうか、これがうつなのか」 専門知識はあっても殻に閉じこもってしまうと自分の状態に気づけなくなる ———どんな症状になったのでしょうか?  本当に、全然眠れないのです。「よく寝たな」と思って目が覚めて時計を見ても長くて2時間しか眠れていません。心配した友人が飲みに行こうと誘ってくれるのですが「こんな状況で飲み会にお金を使っていいのか?」と、それも不安になる感じで、1人で家でぼーっとしている事が増えました。食べ物が何も喉を通らなくなって、もともと60kgだった体重は52kgになっていました。約4ヶ月くらいはまともな食事を取れなかったですね。 ———そのような精神状態で看護師のお仕事は大丈夫だったのでしょうか?  幸い職場が病院で、メンタルヘルスに理解のある仕事場だったので、上司に事情を話し1週間休ませてもらいました。その後出勤してもいつも通りの仕事はできない状態でしたが「仕事には来なさい」と言っていただけたことが幸いでした。 ———医療者としてうつに関する知識は持っていたのですか?  仕事がら知識はあります。しかしこれが自分に起きた時には、いま抱えている問題のほうに意識が向いているので、自己修復はなかなか難しい。自分でもおかしいなと何となく気づいてはいるのですが人にはなかなか相談しづらく、次第に殻に閉じこもっていきました。 ある日誘われたお酒の席で友人の1人が「こりゃあ、うつだろう」と言ったんですね。その時初めて「そうか、これがうつなのか」と。 ———精神科などは受診はしたのですか?  完全な抑うつ状態だったと思いますが、うつに対する薬が自分の今の状態に効くのかどうか疑問があり、職場の医師に睡眠薬だけを処方してもらっていました。看護師をしていますが、私自身は薬はいろいろある選択肢の1つと考えています。薬で症状を抑え、その薬で出てしまった副作用をまた別の薬で抑えるというような、過剰に薬に頼るやり方には疑問を感じていました。ただ、食べられないし眠れない状態だけは何とかしなくてはと思い、男性看護師の先輩で、現在は鍼灸師をしている草間健二さんに、鍼でなんとかならないか相談しました。 🍀「言い出す勇気」から動き始めた回復への道 ———鍼灸師の草間さんはどんな治療をしたのでしょうか?  草間さんは照明を落とした静かな施術室で、私の話に相づちを打ちながらお腹や足に鍼をさしていきました。遠赤外線でお腹もぽかぽかとあたたまってきて、自分が久しぶりにリラックスしていることを感じました。10本目くらいだったと思いますが、お腹に打った鍼を草間さんが手で軽く回した瞬間に、ズッコーンと体の中に響く感じがしました。胃が刺激されたのかキューンと動き、ググーッとお腹がなったのです。4ヶ月ぶりに空腹を感じた自分に驚きました。施術のあと本当に強い空腹を感じたので、そのまま草間さんと鍼灸院の向かいにあるステーキハウスに行ってステーキを食べました。 鍼治療にくわえて先輩のカウンセリングの効果も大きかった。現在も疲れると鍼治療をしてもらう。 ———鍼ってそんなに即効性があるものなのでしょうか?  鍼だけの効果ではなかったと思いますが、この事が僕の転機になったことは確かです。まず状況を分かってくれていて信頼できる友人(草間さん)に助けてほしいと「言い出す勇気」を出せたこと。それから、問題が発覚してからずっと緊張状態でいたことを受け止めてもらえた感じがして、ふっと緊張がほどけた。「手当て」と言う言葉がありますが、鍼を打つ際に手で体に触れてもらったことの安心感も大きいと思いますね。 ———そこからどうやって本格的な回復に向かったのでしょうか?  まず日常に戻るために、食事を定期的に食べるように意識しました。食べられればお腹がいっぱいになり眠気もきます。睡眠薬を使って強制的に眠るのではなく、自然に近い流れの中で眠れるように変えていきました。眠る事、食べる事ができるようになり、少しずつ本来の自分を取り戻して行きました。 しかし、そんな時、妻の私に対する攻撃的な言葉や態度、離婚を望む理由が、私の問題ではなく、実は妻の不倫であることが分かったのです。はっきりとそれを知った時には、裏切られた思いからそのままふうっと電車に飛び込むことも考えました。そんな様子を見た友人が腕をつかんで「今死ぬ気でしょ」と言ってくれたのです。その言葉で我に返った瞬間「ああ、彼女との修復のためにできることはすべてやり切った。離婚しよう」と決心がついたのです。その後約3年がかりで裁判をし、離婚が成立しました。 🍀人を信頼し、頼る事で生まれた新しい関係性と働き方 車での移動時間は仕事・家庭の切り替えを行う大切な時間 ———うつ状態から脱出する為にはどんな事が必要なのでしょう。  僕の場合は家族関係で起きたことですが、他人から繰り返し執拗な攻撃を受けた場合、日頃ポジティブで真面目に物事に取り組む人ほどダメージが大きいような気がします。自分の殻に閉じこもってしまわないように、日頃から相談できる相手を持っておく事が大切だと思いますね。飲み友達、仕事のことを議論できる人、その人といるだけで笑いたくなる人など、いろいろなタイプの人がいるといいです。それから、いろいろなことをリセットしなければならない場面でも、何か1つは前の生活と変わらないことを維持するのも大切だと思います。 僕の場合は仕事や住むところ、車での通勤を維持し続けることでした。 行きつけの飲み屋もある住み慣れた自宅近くの商店街。 ———それまではあまり人に頼らず頑張るタイプだったのですね。  はい、それまでは仕事の場面でもどこかで「自分がやらなきゃ」と思っていました。しかし、思い通りに働けなくなる状態を経験してみて、自分がそこまでがつがつしなくても仕事が回ることを発見しましたし、リーダーとして後輩を育てる場合も、見守る・許す・助けてもらう事を恐れなくていいと思うようになりました。自分自身の考えがガラッと変わりましたね。出来ない後輩がいても、そのうち出来るようになるから安全だけは気をつけて見守るということができるようになった。 ———その後今の奥様と出会ってご結婚なさったのですね。  はい。妻は同業者で看護師ですが、とてもゆったりとした穏やかな人柄です。優しく私に歩調をあわせてくれる。仕事の忙しさも理解してくれるので自分の納得できる仕事を彼女に気を使わずにやらせてもらうことができています。 ———奥様初め、ずいぶんいろいろな方に助けていただいたのですね  そうですね。僕の状態に理解を示してくれた上司、職場の同僚たち、自殺しそうな時に腕をつかんで止めてくれた友人、鍼灸師の草間さん。みんなに感謝しています。でも誰か一人をと言われたら、再婚した今の妻に感謝したいです。 妻の前では職場で感じたことなどを安心して話す事ができます。彼女は私の話をまず受け止めてくれます。そして感じた事を全部話したあと、妻の考えを聞くと、私と驚くほど価値観が似ていることが少なくありません。だから彼女に一回話してみることで、自分を一度リセットして、そのことをもう一度客観的に積極的に考える事ができるのです。家庭でも妻と仕事の話を分かち合えることが本当に幸せだと思っています。 インフォメーション:気を整える事でメンタルを改善する 石井さんは、もともとは元気で発散系のタイプの人ですが、当時はその発散するエネルギーがなくなるほど体が衰弱しきっており、これ以上悪くなると入院が必要という状態でした。そこで、まず食べられる状態にすることで、睡眠がとれるようになることを目指し治療しました。あの時は治療した私自身が驚くほどの効果が出ました。腹と足の指に鍼を刺して胃を刺激することが改善のきっかけとなったと思います。鍼をつぼに打つ事で気のバランスを整える効果もありますが、安心できる場所で施術しながら同時にカウンセリング的な対話をしたことで、数ヶ月続いた緊張から解き放たれた部分も大きいと思います。鍼灸は体全体のバランスを整えるもので、体の気の下がっているところを持ち上げていくという感覚で施術を行います。 草間健二さん 鍼灸 健美・大山 院長鍼灸師・看護師 (撮影)多田裕美子

  • 親子で岡山から新幹線で上京。六本木から霞ヶ関までパレードしました。

    【第8回】普通の人生ではありえなかったつながりをもたらしてくれた宝物。娘が私を選んで生まれてきてくれたことに「ありがとう」

    川井千鶴さん プロフィール 1975年生まれ 岡山県出身聴覚障害をもつ両親の元に生まれる。2004年の風疹大流行時に自身が風疹にかかり、その後長女七海ちゃんを出産。現在11歳になる七海ちゃんは先天性風疹症候群と診断され、難聴、肺動脈狭窄症、てんかん、知的障害などさまざまな障害が重複している。 全国組織 『 風疹をなくそうの会 hand in hand 』 岡山支部代表として活動中。パート従業員。趣味はカラオケなど 🍀知らされなかった「妊娠中に風疹にかかること」の危険性 「知らなかった」ことで誰かに同じ後悔をしてほしくない。 ———川井さんがお子さんの七海ちゃんを出産なさったのは2004年ですね。  はい。28歳で妊娠し29歳の時に七海が生まれました。2004年は風疹が大流行した年でした。 ———七海ちゃんは現在11歳。障害があるということですが…。  聴覚障害のほかに、自閉症、てんかん、肺動脈狭窄症状があり、知能は2歳程度と言われています。 ———風疹というのは子どもだけの病気ではなく大人もかかるんですね。  そうです。妊婦さんが風疹になると、お腹の中の赤ちゃんに影響し、障害が残ることが多いといわれています。妊娠中に母親が風疹にかかりその影響を受けた子どもの状態を先天性風疹症候群(CRS)といいます。 ———風疹の予防法として予防接種があるそうですが、川井さんご自身は、風疹の予防接種をしていたのでしょうか?  私は学校で集団接種で受けているはずの年代と言われていますが、記憶はありませんし、自分で医者にいって接種した覚えはないです。 ———産婦人科では風疹について説明がありましたか?  妊娠して6週目、産婦人科で検査を受けた際に「風疹の抗体がついてないね」と言われています。その後2週間くらいの間に、私は風疹にかかりました。 ———「抗体がない」と言われた時どうしようと思いましたか?  当時はまったく知識がなかったのです。そう言われても何をどうしたらいいのかという説明もありませんでした。 🍀産科医から「ここでは産めない」と言われる衝撃 ———風疹にかかったとわかった時、お腹の赤ちゃんへの影響については説明されましたか?  医師からは「奇形児が生まれる」と中絶を勧められました。「ここでは産めない。産むんだったら、紹介状を書くから」と。 最初は理解ができず、時間がたつにつれて涙がでてきました。実は体調の面で、もう妊娠できないかもしれないと言われていた時にやっとできた赤ちゃんです。それなのに…。母親にも相談しました。私の母は聴覚障害者ですが、「風疹の影響で障害児になるかもしれない」と言われ、母にも出産を反対され号泣しました。さんざん泣いたあとで「この子は自分のところに降りてきた子だから、私がしっかり守ってやろう」と決めたんです。 ———とにかくお子さんを守るのだと言う母の決意ですね。  はい。それで紹介された産婦人科に行くと、産科、小児科の先生が何時間もかけて説明してくれました。それでも私の産みたいという気持ちは変わりませんでした。先生は私たちの表情をみて、「協力する」と言ってくれました。唯一私を救ってくれたのが私の担当になってくださった産科医の女医の先生です。 🍀赤ちゃんに次々と現れた風疹症候群のおそろしい影響 保育器の中の七海ちゃん。1688gで誕生。 七海ちゃん1歳のころ。 ———それで出産に臨まれたのですね。  はい。七海は未熟児だったので保育器に入る必要がありましたが、その時点では小さいと言うだけで、問題がないように思えました。 ———いつごろから、症状が現れたのでしょうか?  保育器の外側をコツコツ叩いても反応がないので「この子は耳が聴こえてないんだな」と感じとりました。でも私の場合は、両親が聴覚障害者で、聾者の環境で育っているので耳のことは違和感なく受け止められたのです。 でもそれだけでは済みませんでした。心臓の検査の結果、肺動脈狭窄という病気があり血管が細いと言われ、さらに5カ月目にてんかんの発作が起きました。 その後も3歳くらいから、知的障害と多動、自閉症、そして小学校に上がる前頃からは睡眠障害が出てきました。細かく言えば他にもいろいろあります。 🍀コミュニケーションと身の回りの自立、どちらに特化した教育を選ぶべきか ———現在の七海ちゃんの状況はいかがですか?  ほとんど一日中見ていないといけない状態で、ひとりには絶対させられません。七海は学校から自宅まで送迎してもらっているので、私は夕方までの仕事を終えるととにかく急いで帰宅します。食事、入浴、そして薬を飲ませなければいけません。 2歳の頃 乳幼児教室で。ブランコが大好き。 ———七海ちゃんの人生を考えて、どのような学校を選ぶか悩まれたそうですね。  岡山にある聾学校は耳の教育が専門なんですが、最近は重複障害も受け入れるという体制にかわってきています。聾学校の隣に知的障害専門の学校もありますが、聴覚に関する教育を優先するのか、身の回りの自立を優先して教育するかで悩みました。その結果、人とのコミュニケーションを第一にと考え聾学校を選びました。 聾学校を選択し手話や指文字などコミュニケーション教育に力を入れることを決心 ———そろそろ思春期に入るころですが難しいことも増えてきますね。  そうですね。実は自傷行為が出ているのです。これは原因がわからなくて。第二次性徴期に入っているので、ホルモンバランスの関係も影響してくるようです。また耳が聞こえないため自分が伝えたいのに伝わらないなど、いろいろなことが重なっていると思います。 🍀妊婦だけではなく、働き盛りの男性にこそ予防接種を受けてほしい ———ご自身の体験から 『 風疹をなくそうの会 hand in hand (HP:http://stopfuushin.jimdo.com/)』 を始められたのは、正しい情報を世間に伝えたいということでしょうか。  そうです。妊娠20週までの女性が風疹に感染した場合、流産につながったり、七海のように胎児にも感染し、眼や心臓、耳などに障害を持つ子どもが生まれる場合があるということをみなさんにきちんと知らせたいです。 ———風疹は妊婦さんに感染すると、赤ちゃんの一生を左右する大病なんですね。  はい。夫がかかって妊娠中の奥さんや職場の女性にうつることも考えられます。例えば今から2年前2013年の流行の中心は成人男性で、女性の約3倍の人がかかったそうです。特に男性は昭和37年~平成元年生まれ、女性は昭和54年度~平成元年度生まれの方が多くかかったそうです。男女問わず予防接種が有効なのです。 ———どうして男女でかかりやすい年代が違うのですか?  風疹の予防接種制度が男女別、年代別で異なっているのが理由のようです。過去に風疹にかかっていれば抗体がありますが、風疹の予防接種については私のように記録や記憶も曖昧な方がほとんどなのが現状です。専門家によると20代から40代の女性にも抗体が低い、もしくは無い女性がいます。 ———妊娠可能性のある年代の女性だけが予防接種を受ければいいのでしょうか?  いいえ。男性も、年齢は問わず社会の人みんなが予防接種を受け、抗体をもって欲しい。そうすれば感染が広がることはなく、流行はなくなるんです。 親子で岡山から新幹線で上京。六本木から霞ヶ関までパレードしました。 ———風疹のことをもっとみんなに知ってもらう為のパレードにも参加しているのですね。  今年も7月2日に東京の六本木から霞ヶ関の厚生労働省までみんなでパレードしました。小児科医の先生もたくさん参加してくれて、厚生労働省で記者会見もしました。 七海は会見中に記者の人や厚生労働省の方などのところに行って1人ずつにハイタッチをして歩きました。彼女なりのコミュニケーションなのだと思います。シーンとした会議中ですから親としてはちょっとヒヤヒヤで恐縮しているのですが、会場の雰囲気が七海の動きによってちょっと和やかになっているのも確かなので…。 ハイタッチで会議室を何週もする七海ちゃん。厚労省にて。 ———さまざまな活動の成果はどうでしょう。  成果は感じられます。少しずつですが、男性でもワクチンを受けにきてくれる人が増えてきたという情報もあります。活動を続けてきてよかったなと思います。 🍀大変なことも多いけれど、たくさんのつながりに囲まれた幸せな毎日 昨年の運動会。母娘で頑張りました 夏の日比谷公園で。風疹の予防接種の大切さを訴えるパレードをおえて。 ———川井さんはお母さんとしてそして社会的な活動でも本当に頑張っていますね。  障害を持つお子さんを育てている人なら私以上に頑張っている人はたくさんいます。これも私の宿命です。そこから逃げようとは思いません。 現在入院中の私の祖母が、以前私に一度だけ「生んで後悔していないの?」と聞いたことがあります。私は「してないよ」と即答しました。私の母は赤ちゃんの時の高熱によって難聴になったそうですが、祖母はいつも泣いて母にゴメンネと言っていたようです。障害のある子どもを育てるという意味で私と祖母は同じ立場にいるのです。でもね、私より七海本人が一番大変なんです。風疹症候群は次に何がおこるか分からないので、いつも覚悟していなければいけません。 ———七海ちゃんの成長を感じるのはどんな場面ですか?  今は指文字と手話とジェスチャーでいろいろ話しています。それからもう少しでトイレの自立ができそうなんです。これはあきらめなくてよかったです。本当に少しずつですが、ちゃんと成長しています。 ———子育てを楽しんでいますね。  はい。とても。大変な事も多いけれど七海は幸せだと思います。 『 風疹をなくそうの会 』 では、みんなが親戚みたいに温かく接してくれます。本当に多くの小児科の先生が応援してくれて皆さんとつながっている。岡山でも行政の方や議員さん、大学の先生、みんなが七海を思ってくれる。普通の人生にはあり得ないような経験だなって思います。 七海がYouTube等を見て「お母さん一緒に踊ろう」と誘ってきたりするとうれしいです。運動神経がいいみたいで音は全く聞こえていないのに…いつも踊っています。いろんな表情をしてくれるし、毎日楽しいですよ。七海は私の宝物です。 インフォメーション:先天性風疹症候群 2012年度に実施された厚生労働省の調査によると、風疹の免疫を持たない人(1~49歳)は618万人(男性476万人、女性142万人)と推計される。このうち成人は475万人。職場などでの風疹の大流行はいつ起きてもおかしくない状況だ。風疹にかかると発熱や発疹、リンパ節の膨張がある。治療法は特にない。予防接種制度がなかったために風疹にかかりやすいのは2015年4月1日時点で36歳以上の男性と53歳以上の女性だ。妊娠20週目までの女性が風疹にかかると胎児が先天性風疹症候群になる可能性がある。風疹の抗体価の低い人は性別・年齢に関わらず予防接種を受ける事が推奨されている。特に海外で風疹が流行している地域に行く場合はワクチンを打って出かけたほうがよい。風疹をなくそうの会 HP http://stopfuushin.jimdo.com (撮影)多田裕美子

  • 「手術で胸骨を開いたため、いまも8本の針金で骨を止めている」と話す斉藤さん

    【第7回】自然、生命を尊ぶ生き方をいっそう大切にする転機となった闘病生活 支えてくれた誰ひとり漏らさずに伝えたい「ありがとう」

    斉藤裕樹さん プロフィール 1966年生まれ 東京都目黒区出身建築専門学校を卒業後、建築関係の会社を経て、1991年に斉藤企画を立ち上げ、建築金物設計や施工に携わる。2011年の東日本大震災をきっかけに食べ物や自然エネルギー、社会問題に関心を持ち、循環型社会のための活動に携わる。 2014年5月に僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断され、同年9月に手術。現在、病気療養中。 🍀年齢のせいにしていた「だるさ、疲れやすさ」が大病発覚のきっかけ 建築の現場でずっとアルミなど金属を扱う仕事に携わってきた。 毎朝食卓に採りたての野菜が並ぶ ———心臓の病気で手術をされたそうですが、最初に体の不調に気づいたのは?  2013年頃から体がだるく、疲れやすくなっていました。僕は自営業で、ベランダに手すりやもの干し等、雑金物をつけたりする仕事をしており、体力には自信があったので、まさか心臓に病気があるとは思ってもみませんでした。自分では「歳かな」「運動不足かな」と思っていたくらいで。 2012年までは自治体の定期健診を受けていたのですが、2013年は公私ともに忙しく、気づいたら健診の日にちが過ぎていたのです。1年間、だましだまし仕事をしていましたが、ずっとだるさが続いていたので「一度、検査してもらおう」と近所の病院を受診しました。そのときの診察で「循環器に問題がある」といわれ、順天堂大学医学部附属練馬病院(以下・順天堂医大練馬病院)を紹介されたのです。そこで初めて「心臓の弁がおかしい。2〜3年のうちに手術した方がいい」と診断されました。 ———心臓の弁がおかしいというのはどんな病気なのでしょうか?  病名は僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症というものです。心臓は右側に三尖弁、左側に僧帽弁があって、血を送り出す方の弁の僧帽弁がちぎれていたのです。実際に映像を見たのですが、血をギュッと送り込むときに、弁がひらひらと動いてしまう。 心臓がきちんと血を送り出せないので、もっとがんばらなくてはと心臓が倍ぐらいの大きさになっていました。そんな状態だったので、運動をしたわけでもないのに体がだるく、疲れやすかったのです。 原因は不明だと言われました。僕の身内にも心臓に病気を持っている人はいないし、まさに青天の霹靂というほかありませんでしたね。 ———病名がわかったのは、いつ頃ですか?  2014年の5月のことです。主治医から「もっといい先生がいるから行ってみなさい」と聖路加国際病院を紹介されました。転院して執刀医になった先生は国内でも5本の指に入る心臓手術の名医といわれる方でした。 その先生に「今年中に手術した方がいい」と言われたのです。これには本当に驚きました。手術までの約4ヶ月で、仕事先へ挨拶に行ったり、アパートを引き払って近くの実家に戻ったり、術前検査と、とても慌ただしく過ごしました。 奥様の野香さんと。実家の屋上にはお父さんが育てる農園があり、様々な野菜がなっている 🍀「このまま死んでも何もわからない」…不安を和らげたのはひとつひとつの励ましの言葉 ———手術をすることになり、斉藤さんご自身や周囲の人の反応はどうでしたか?  手術前はとても不安でした。全身麻酔も初めてだったので、もしこのまま死んでも何もわからないのだと思うと、本当に怖かった。ただ、ありがたかったのは、家族や仲間からの励ましです。友人からは「今、心臓の手術といってもそんなに大変じゃないみたいだよ」仕事先の人からは「あとのことは心配しないで。いつでも待っているからゆっくり休んできて」などと声をかけてもらいました。メール1つ、電話1本でもすごく嬉しかったですね。 ———手術も入院も初めての経験ということですが、どうでしたか?  手術当日は、朝9時頃、手術室に入って全身麻酔で意識がなくなり、目が覚めたら、ちょうど夜の9時でした。全身が管でつながれていたので、まったく身動きが取れず、喉が異常に渇いていました。といっても、水を飲むことはできず、氷をもらってしのぎました。手術の翌日には無理矢理、両側を看護師さんに支えられて立たされるんです。回復のために立たないといけないそうなのですが、それが辛かったですね。なにしろ、胸骨を縦に切って、心臓を取りだして悪いところを切り取り、縫い付けているわけですからね。痛いですよ。 予定では1~2週間の入院だったのですが、僕の場合、肺がつぶれたり、不整脈が止まらなかったりして、結局、20日間入院しました。 🍀手術後初めて風に当たると、理由のわからない涙が 退院後人体の構造に興味がわき、ネットで購入した模型 ———入院中、医療に関して疑問に思うようなことはありましたか?  僕は運がよかったというか、最初の病院から順天堂医大練馬病院、聖路加国際病院と転院がとてもスムーズでした。送り出す方も、受け入れる方も、どちらも感じがよく、イヤな思いをしたことはありません。執刀医の先生は東京と大阪を行き来しながら、後進の指導もしていました。患者さんの命を守るために、休みなく働いていて本当に頭が下がります。看護師さんもよくケアしてくれて、特に看護師長さんには時には「ダメじゃない、斉藤さん」と叱られることもありましたが、いつも優しく接してもらったりしました。安心して入院していられましたね。 ———入院中はどんなことを考えていましたか?  手術後、初めて病院の屋上の庭園に行き、木々を見て風に当たったときには、急に涙があふれ出て、5分以上、ボロ泣きしてしまいました。自分でも理由がわかりませんでしたが、それだけ気を張っていたのだと思います。 入院中は時間がたっぷりあったので、西洋医学や東洋医学などの医療のことや、ケアしてくれるお医者さんや看護師さんへの感謝の気持ち、退院した後のことなど、いろいろな思いが頭を巡っていましたね。退院してからさっそく人体模型を買ってきて、体ってこうなっているんだと改めてしみじみ生物の体のスゴさを感じました。 🍀手術を経て、「壊す」より「再生する」ことを大切にするライフスタイルへ ———退院後はどのような生活をしているのですか?  退院してしばらくは歩くのにもハァハァと息切れし、あまり長く歩くことができませんでした。とくに咳やくしゃみをすると、体の中からドーンと叩かれるような強い痛みがあってすごく苦しかった。いまでも痛みはありますが、以前ほどではなくなりました。いまは普通に歩けるし、車の運転もできますが、走ったり、重いものを持ち上げるなど、心臓に負担になることは禁止されています。ただ、散歩はいいといわれているので、近所の川沿いを歩いたり、趣味のギターを弾いてみたりしています。 「夜中なのについ夢中になり『近所迷惑だ』と妻に叱られます(笑)」 ———仕事復帰はいつ頃になりそうですか?  まだリハビリの最中なので、しばらく時間がかかりそうです。といっても、同じ仕事をするかどうか、いま気持ちが揺れています。病気になってから、自分の仕事に対して違和感を覚えるようになったからです。ベランダの手すりはアルミでできているのですが、金属ではなく、木のぬくもりに心が惹かれるんですよね。以前から古い建物を壊して新しい建物をどんどん建てることに疑問を持ってはいたのですが、病気を契機にそのことをもっと強く感じるようになりました。今後できれば、古民家を再生するなど、環境に優しい仕事がしたい。木にまつわる仕事がしたいと思うようになっています。 木のぬくもりに心が惹かれる。時々大きな幹に抱きつきたくなる アタッシュケース型ソーラー蓄電池。非常時にみんなの携帯やパソコンを充電できる。 ———もともと環境問題に関心があったのですか?  実は2011年の3月の東日本大震災の福島原発事故がきっかけで、自分たちの口に入るものや暮らし方を見直すようになったのです。電気にしても自然エネルギーによる発電がいいのではないかと、太陽光ソーラーパネルの設置の資格も取りました。実際に、組み立て式の太陽光パネルで自家発電するセミナーを仲間と企画して、その縁で東久留米市の環境グループに加わることになったのですが、そこが平成26年度の地球温暖化防止活動環境大臣賞(対策活動実践・普及部門)を取ったんですよ。うれしかったですね。 心臓の手術を経験したことで、より一層、生命や自然の大切さに気持ちが向くようになりました。自然を破壊しない、環境に優しい循環型の社会になればいいなあと思っています。 🍀励まし支えてくれた、どんなさりげない関わりにも感謝を伝えたい ———入院中は奥様がずっとそばにつきそってくれたそうですが、「ありがとう」という言葉はやはり奥様に伝えたいですか?  もちろん、妻や両親にはとても感謝しています。妻は本当に毎日寄り添って支えてくれました。本当に感謝しています。 ただ、だれか特定な人にだけ「ありがとう」というのはちょっと違う。病院で出会ったお医者さんや看護師さん、友人や仕事の仲間、みんなに「ありがとう」と言いたいのです。1日だけ来てくれた看護師さんは、病院の向かいにある看護学校の生徒さんだったのですが、別の日に僕を見かけて「斉藤さん、ここまで回復したんですか。よかったですね」と声をかけてくれた。そんな言葉がすごくうれしくて、僕も「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えました。 本当に、僕に関わってくれたすべての皆さんに感謝したい。「ありがとう」と伝えたいと思っています。 インフォメーション:僧帽弁閉鎖不全症 僧帽弁というのは、心臓の左心房と左心室の間にある大きな2枚の弁のことで、その形が僧帽というカトリックの司祭がかぶる菱形の帽子に似ていることから名づけられました。僧帽弁閉鎖不全症とは、この僧帽弁の閉じる機能が悪くなり、本来の血液の流れとは逆に、左心室から左心房に血液が逆流してしまう状態をいいます。初期の段階では症状がなく、進行して心臓や肺に負担がかかると、息切れ、呼吸困難、むくみなどの症状が現れます。 (撮影)多田裕美子

  • アドバンストレベルWRAP ファシリテーターとして全国でワークショップを開催する

    【第6回】人はどんな状態になっても いつからでもリカバリーできる。わだかまりも葛藤も含め、僕の“背骨”である家族への「ありがとう」

    増川ねてるさん プロフィール 1974年生まれ 新潟県小千谷市出身 詩人を目指し上京した大学時代にナルコレプシーと診断される。様々な職を経て広告代理店に勤めるが、処方された薬剤へ依存が酷くなり失業。後に薬物中毒となり、7年間生活保護を受ける。自力で断薬を実行した後、研修のファシリテーターとして社会復帰。福祉施設の職員をしながら、講演活動なども行う。 現在 アドバンスレベルWRAPファシリテーター地域活動支援センターはるえ野 センター長(東京都江戸川区)NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ理事 🍀「ちょっと限界、ここで休憩」講師が眠ってしまう!ワークショップ 実家が老舗の和菓子さんなので、スイーツと言えばあんこが好き ———増川さんは研修の講師として全   国を飛び回っていると聞いています。  健康そうに見えるかと思いますが、僕はナルコレプシー(過眠症)という睡眠障害を抱えています。十分に眠った場合でも、持続的な覚醒は3時間が限界です。15~20分寝さえすればクリアな意識に戻ってくるのですが… ———ではその研修中に講師である増川さんが眠くなってしまうこともあるわけですね。  その時は「休憩です。僕は限界なので寝ますね」といってその辺に横になります。僕が講師をしているのは「WRAP」(ラップ)という、日本では「元気回復行動プラン」と訳されている研修プログラムです。参加者が自分自身と向き合い弱みもオープンにし、“実体験の中から”生きて行く方法を学ぶというコンセプト。だから進行役の僕が寝ちゃう事も、参加者は僕のキャラクターとして受け入れてくれます。「ねてるがねてる」って写メを撮られますよ。 ねてるねてる 東京駅の床で撮影。(実際に駅で眠くなった時には休めるところを駅員さんに案内してもらっています) ———ねてるさんと言う名前はペンネームですよね。  はい。新聞などにもこの名前で出ています。初対面の人にも名刺を渡すタイミングで病気の説明が出来るようになり、弱点を自分の特性に変えるきっかけとなりました。 🍀医療への不信感と憤りを抱え上京するも、眠気に全て奪われていく日々 ———睡眠障害はいつから始まったのでしょうか?  高校時代ですね。例えば本を読んでいて「そういう話か」と思っていると、それは夢なんです。「あっ寝ていたのか」と思いまた読み始めると、それも夢。全然進まないんです。起きていられた授業なんてほとんどなく、大学受験にも失敗。浪人生のころ「おかしい」と思い、病院に行きました。 ———受診して何かわかったのですか?  子どもの頃からぜんそくの薬を飲んでいたのですが、直接医師に聞いてみると、「これはてんかんの薬です」と。僕はそれまで自分がてんかんだなんて聞いた事もなく、すごい衝撃でした。僕が子どもの頃高熱を出した時ひきつけ(熱性けいれん)を起こし、それで心配した親が、予防的にてんかんの薬を飲ませていたらしいのです。  親に対して不信感と憤りを感じました。眠いせいで色々うまくいかないのに、飲んでいた薬に関係があるかもしれない!と考え、荒れました。実家は老舗の和菓子屋で跡取りとして大事に育てられたのですが、周囲の目がとても気になっていて、それもプレッシャーで…田舎を離れれば変な症状もなくなると思い、以前から夢だった詩人になるために東京の大学に出てきました。 おきてるねてる眠気と共存できるようになり、このパンダの枕といつも一緒に旅します。 ———上京してからはいかがでしたか?  やはり眠くてどうにもならず…大学は中退しました。受診した病院でやっと「ナルコレプシー」の診断がつき、リタリンという薬を処方されました。しかし変な夢と眠気は消えない。詩はどうやっても売れないし、仕事もうまくいかず、生活はどんどんすさみ、妻とも離婚…。新潟を出て10年以上経った頃でしたが、今更実家には戻れない。「自分の人生終わった」と思いました。 🍀薬による依存症、抜け出すための壮絶な闘い  それからは、治療と平行して経済基盤をなんとかするため必死でした。障害年金申請のために必死に資料集めをし、交渉をするために起きていたいのでかなりハードに薬を使い、そうすると今度は鬱状態になり抗鬱薬が処方され・・・妄想もあったので統合失調症の薬も出され、多い時で一日20錠も飲んでいました。「なぜ医者はこんな処方をしたんだ?」と思っていた時期もありました。でも、よく考えると「もっと薬をくれ」と言っていたのは自分でした。足りないなら、足さなきゃと…。生活保護を受けながらひきこもりを続けていました。 ———現在もその薬を飲んでいるのでしょうか?  2006年頃、薬は完全に止めました。薬を飲まないと体が動かなくなったんです。2年くらいかけて徐々に減薬していきましたが、頭に鉄の棒を入れられて掻き回される感じがしたり、ベランダから飛び出したい衝動がすごくなるので、体を抑える為に針金で自分の体を縛ったりして…幻覚が続き、生活のリズムもめちゃくちゃでした。病院でもうまく減薬はできず、1人自宅で耐えるしかなかったです。 🍀「世界で自分だけの苦しみ」を初めてわかり合えた仲間たち ———どうやってそこから抜け出したのですか?  地域のソーシャルワーカーの交渉で、ヘルパーさんが家に来てくれるようになったんです。定期的に家に来て、温かい食事を作ってくれた。それで、なんだかホッとしたんです。「生活」が帰ってきたというか。 その方に、精神科に通う人たちが日中集まる福祉施設を教えて貰ったんです。最後の望み、みたいな感じで出かけていったその場所で、自分と同じように治療中の人に薬の事を話してみたら「あ、それ分かる」と言ってくれまして。それまで「世界で自分だけの感覚だ、出来事だ」と思っていた症状や薬の副作用、体験してきたことなどを「わかるよ、俺もそういうことあったから」って。 研修で仲間たちの場を和ませるのにも使うシャボン玉。飛ばすと上を向いて笑いたくなる。 ———同じ体験を持つ仲間にそこで初めて出会ったわけですね  はい。それまで分かってもらえないための行き違いをなんとかするために使っていたエネルギーを、わかりあえる患者同士が一緒に活動する何かに使えないかなと思い始めました。 その頃に、アメリカの当事者(患者)が開発した「WRAP」の話を、日本で直接聞ける機会を得たのです。“病気を経験した当事者(患者)どうしが、回復のためのコツや工夫をシェアする” それは多くの人が実体験した回復の仕組みを、キーワードを基に系統だって見せてくれるプログラムでした。 研修中に寝てしまう伝説の!ファシリテーターとして全国で活動中  WRAPのファシリテーターという仕事は、薬を飲まなくても、眠くなったら寝て、責任を果たせます。それは症状ではなく「必要なことをしている」とみなされるのです。この仕事ならできるかもと思いました。それからファシリテーターとして経験を重ねて行き、2013年からはファシリテーターを養成する研修を開催するようになりました。WRAPは今年で導入から約10年になりますが、2015年現在500人以上のWRAPファシリテーターが誕生しています。 研修のために新幹線で京都に行き2日後にはそのまま札幌に向かう フィージーでもWRAPを開催。学生ボランティアのメリさんと 🍀ワークショップを通じて再発見した家業の“お菓子のちから” ———ワークショップは大人気ですぐ申込者がいっぱいになるそうですね。  全国各地から申し込みがあるのですが、参加者にはご当地の名物お菓子を持ってきてもらうようにお願いすることがあります。“お菓子の力”って面白いですよ。自己紹介の時にお菓子の話をしてもらうととたんに場の空気が和らぎます。土地の自慢だったり、個人の想い出だったり。そういう普通に生活の中あるものが人を元気づけているんだなと実感します。 看護雑誌でWRAPについて連載中 詩ではなくとも書いた文章が世に出ることは、嬉しい 増川菓子店 お父さんの作ったぶんぶく最中。「たぬき」のかたちがかわいい。 ———菓子職人は継がなかったけれど、違う形でお菓子に関わっていますね。  確かにそうですね。生活の中にあるちょっとしたもの…お菓子の魅力も自分の仕事の中で伝えていけたらいいと思います!そこには、それぞれの物語がありますしね。いろいろあって僕は両親とずっと疎遠でした。家業を継承せずに途絶えさせてしまったという負い目もありました。そんな僕が、今では研修の前に父に電話をして、「最中送って欲しいんだけれども、いいかな?」なんて言っています。  振り返ってみると薬も、両親は僕を大切にしたくて飲ませていたんだなと思えるようになりました。増川菓子店のあんこは美味しいです!父のあんこを食べると両親は僕を大切に育ててくれたんだな、ありがとうとしみじみします。 インフォメーション:ナルコレプシー 過眠症のひとつ。罹患率は 1万人あたり 3~18人、発病年齢は10歳代で特に中学・高校生に集中している。ナルコレプシーの主症状は、日に何度も繰り返す居眠りが、ほとんど毎日何年間にもわたって継続すること。通常10分~20分ほど居眠りをすると、目が覚め非常にさっぱりすることが特徴。健康な人なら緊張していて眠る事などないような場面で突然眠ってしまう睡眠発作や、感情が動いた時、面白い時などに突然体が脱力状態になる情動発作を起こす場合もある。 WRAP WRAPは「Wellness Recovery Action Plan」の頭文字をとったリカバリー(回復)システム。1989年頃にアメリカの精神病の当事者によってなされた調査が元になっている。1997年に共にリカバリーに取り組む人たちの手により、現在の「WRAP」となる。日本では2005年に翻訳作業がはじまり、2007年頃から本格的に展開されるようになる。現在、世界的にメンタルヘルスの領域において、急速に普及してきている。 (撮影)多田裕美子

  • 仲間たちと観光農園でイチゴ狩り。イチゴの赤が見えるのが嬉しい。

    【第5回】視力を失ったから気づけた、誰かの役に立てる喜び。“生かされた人生”、そして妻に心の底から「ありがとう」

    宮田新一さん プロフィール 大手電気会社の修理サービスマンとして約30年間勤続。51歳の時、脳幹出血に倒れるが奇跡の回復を果たす。後遺症により視覚に障害をもったことから、視覚障害者について啓発する患者会活動の企画、運営のリーダー的存在として活動中。 🍀精神的に過酷な時期、父の末期がんの告知を受けた日に発病 白い杖の先で前方の情報を読み取り、確認しながら歩いていく。 ———宮田さんは、白い杖をついてお一人でも歩いていますが、目はまったく見えない状態なのでしょうか?  左目は失明しています。右目は強度の乱視で物が重なって見えます。視覚障害には色が識別できなくなる症状もありますが、私の場合、幸い色は見えます。また脳幹出血の後遺症として片麻痺がありますので顔の右半分,首から下は左半身に麻痺が残っていて、温度や痛みを感じない状態なんです。 ———脳幹出血が起きたのはいつ頃ですか?  51歳の誕生日の翌日でしたから、もう18年前ですね。自宅で倒れました。実は当時はショックなことが続いていた時期でした。仲間がガンで亡くなり、いとこが亡くなって…。父も病気でした。その日は休暇をとり、父の主治医と会い、父が胃がんの末期だと告知されたのです。帰宅して途方に暮れていたのですが、午後から急にろれつが回らなくなり倒れました。幸い息子や隣家の方の助けがあって、すぐ専門病院に搬送され緊急入院しました。 絶対安静の中「実はキレイな看護師さんと旅行に行く夢を見ていたんですけどね(笑)」 ———重症だったのでしょうか?  はい。手術が不可能な部位の出血ということで、約2週間、脳出血を止める薬を投与したそうです。体中管だらけで絶対安静の状態だった。 🍀奇跡の回復も失職。失望の中出会った、他の誰にも歩めない「別の人生」 ———ここまでの回復は奇跡的だそうですね。  医師によると私と同じ病気の人57人のうち50人は亡くなり、あと数人は寝たきりだそうです。 その後リハビリ専門病院に転院して機能回復訓練などを経て退院しました。退院後散歩に行った近くの公園の傾斜地で偶然ドングリを1つ拾いました。「これで足腰を鍛えてみようかな」と思い立ち、春までにみかん箱4箱分のドングリを拾ったのです。この毎日の運動がリハビリとなったようで片麻痺はなんとか克服でき歩けるようになりました。 ———それで頑張ってその1年後に会社に復帰できたのですね。  はい。ところが1年後に目の炎症がおきました。角膜穿孔寸前まで炎症がひどくなり、さらに真菌におかされたのです。その結果一時期は全盲状態となり、目の病院に入院しました。ほんの少し改善しましたが、加齢による重度の乱視の進行は防げず 最初は一つの物が3~4つぐらいに見えていたものが、今はシャンデリア状態で数が数えられないほどです。だんだん高級なシャンデリアになりました。(笑) 仕事のほうは乱視が次第にひどくなり、とうとう電気回路図が読めなくなった。「薄皮をはぐように良くなる」という言葉があるけれど、私の目はその逆で、「薄皮が増すように」見えなくなる。「昨日まで見えていたあれが見えないこれも見えなくなった…」と。さすがに落ち込みました。結局、会社は退職することになりました。 ———そうでしたか。  そんな時、獨協大学の眼科ロービジョン外来の主治医に『ロービジョン友の会アリス』を勧められたのです。気の進まないまま参加してみて…衝撃でした。全く見えない参加者が明るく笑っている。「えっ何で?」って。そして「会に電気関係の事の分かる人がいないの。電気メーカに勤務していたのなら担当になってくれない?」と頼まれたのです。「まだ人の役に立つ?えっもしかして俺って…生かされているんだ!」と気づいた瞬間でした。これを機に「ロービジョン者として生きて行こう」と決めたのです。「俺、これから別の人生を歩める。他の人の経験できないような人生、これもまた楽しいじゃん」と。 異国の人になったみたいな気分になりました。 「誰かの役に立てる」ことを気づかせてくれた、視覚障害を持った仲間たち。 🍀私たちが笑顔で出歩けるのが、誰にとっても暮らしやすい社会 ———実際に患者会に入ってみてどうでしたか?  仕事では主にビデオ機器の修理をしていたので、パソコンや音声機器関係のことではもちろんお手伝いできました。しかしそれ以上に約30年間、サービスマンとしていろいろなお宅を訪問し、お客様とコミュニケーションしてきた営業マン的な経験が役立ちました。 ———患者会活動ではどんなことをするのですか?  たくさんの遊びを企画しています。楽しいことなら何でもです。私のように人生後半に目が不自由になるいわゆる中途失明は衝撃が大きく、多くの人たちが絶望したまま引きこもりがちなのです。視覚障害者とはつまり移動障害者のことなんです。見えづらさを抱えた人々がもう一回外に出られるようにしたい。白杖の人たちが大勢で人ごみに繰り出して楽しそうに街を闊歩する。電車やバスに乗る、レストランやカフェに入る。映画や演劇を見に劇場に行く、トイレを使う…。そして周囲の人に少し手助けをお願いする。 ———視覚障害者の存在を世間の人に知ってもらうということですね  そうです。白杖を持った私たちが笑顔でいるのを見れば、健常者の人も「もし自分が見えづらくなっても大丈夫なんだ」と感じるでしょう。障害や弱さをもった人が楽しく過ごせるところは、誰にとっても暮らしやすい社会なんです。 花見、イチゴ狩り、料理教室、ビール工場見学、飲み会…楽しいことは何でも一緒に。 🍀「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった 福祉イベントで小学生にパソコンの音声読み上げについて教えることもある ———生活上では何か変化がありましたか?  一番の変化は感謝の気持の深さですね。以前はなんとなく社交辞令とか挨拶みたいに言っていた「ありがとう」の言葉の意味が自分の中で変わった。それを自覚したのは、当時外来に行くために病院の前の横断歩道で信号待ちをしていた時です。福祉の授業を受けたばかりらしい小学校4年生くらいの男の子が近づいてきて「おじさん信号青だよ、渡れるよ」と声をかけてくれたのです。私はこの子のひと言が嬉しくて、感情がこみ上げて病院の入り口でぼろぼろ泣き出しちゃった。感謝の気持が体の深いところからわき上がってくる体験でした。 ———いろいろな方と支え合っていると思いますが身近で一番感謝したい人は?  アリスの会や虹の会の仲間達、お医者さん、街ですれ違う人、そう。みんなだよね。でもやっぱり一番は女房だね。女房は私が倒れた時にもすごい頑張った。私が入院していた時は、親父も入院中、妹も看病疲れて具合が悪くて入院しちゃった。3人の病人を同時に見ていてくれた。本当に強いのにいつも淡々としている。感謝の言葉ってなかなか言えるような場面がないけど、本当は心の底からありがとうって思っているんだよね。ちょっと照れくさいけどね。手紙を書いてみました。 お酒が好きなのでボトルのデザインに感謝を込めて。 「こちらこそこれからもよろしくお願いします」と奥様の和子さん。 インフォメーション:ロービジョン ロービジョンとは視機能が弱く、矯正もできない状態をいいます。それにより日常生活や就労などの場で不自由を強いられます。従来は弱視、または低視力と呼ばれた状態です。調査によると日本はロービジョンの人は約144万いて、視力が0.01以下の「失明者」は18万8000人います。視覚障害の主な原因となるのは緑内障、糖尿病性網膜症、網膜色素変性症、黄斑変性症などです。病名に関わらず、見えづらくなると移動の不安や情報伝達の困難などから精神的にも不安を感じることが多くなります。 患者会情報●ロービジョン友の会アリス http://lowvision-aris.jimdo.com/●草加 視覚障がい者 虹の会 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/souka/index.html (撮影)多田裕美子

  • 浅井美衣さん

    【第4回】病気になる前よりも今が幸せ。「いるだけでいい」ことを教えてくれた“ミー君”に「ありがとう」

    浅井美衣さん プロフィール 1971年生まれ 東京都出身大学卒業後、クレジット関係の会社で受付業務を行う。30歳でファイナンシャルプランナーなど金融関係の資格を取得し、保険会社、銀行などに勤務するが、突然、再生不良性貧血を発症し退職。現在は治療を続けながらIT関連企業に勤務する。 🍀働き盛りのキャリアウーマンを襲った突然の難病 以前はバリバリのキャリアウーマンで仕事に夢中でした。 ———浅井さんはお会いしたところとてもお元気で健康そうに見えますが、実は再生不良性貧血という大変な難病を抱えていらっしゃるのですね。  発症したのは2010年3月のことでした。その時点でステージ4といって重症の再生不良性貧血でした。現在は中程度まで回復はしています。 ———当時何か大きなストレスや前兆はありましたか?  銀行勤務ですからそれなりのストレスはあったと思います。しかしそれは仕事をする以上当たり前で、やりがいのあるものでした。発症の1週間前には軽井沢で春スキーをしていたんです。始まりはひどい肩こりでした。毎日マッサージに通いましたが回復しません。そのうちに手の甲に大きな痣のような内出血が現れたのです。上司に見せたら、すぐ病院に行けと言われました。 ———結果はどうだったのでしょう?  血小板の正常値は15万~35万ですが、私は7000しかありませんでした。赤血球が3週間、血小板は1週間でなくなってしまうという状況です。  検査結果があまりにも悪く、「すぐ入院が必要」と言われましたが、ベッドの空きがないため仕方なく外来で輸血をする治療が始まりました。  でも外来での治療方針に納得できずネットで患者会を探すと「すぐ病院を変えた方がいい」とアドバイスされ、別の病院に転院しました。 この時でも私はまだ楽観的に考えていて、きっと3か月もすれば治ると思い込んでいました。 🍀役割を失い「お荷物」になってしまった自分 ———そこではどんな治療をしたのでしょう。  すぐに入院し、1年がかりで行う化学療法を2年連続で行いましたが効果はなく、強い副作用だけが出てしまいました。それからは輸血をしながら命をつないでいましたが、今度は輸血のし過ぎで鉄過剰症となってしまい、なかなか治療は進みませんでした。 ———化学療法とはどんな治療をすることですか?  具体的には、服薬と点滴で薬を入れるだけの治療です。免疫力が落ちるので無菌室に1か月半入院するのですが、1年治療を続けても結果が現れず、私も落ち込み始めました。医師からもギリギリの選択として、移植の提案が出るところまで悪化していました。お先真っ暗で光も何もない、完全な鬱状態。精神科の薬も飲んでいましたね。 ———骨髄移植という選択は無かったのですか?  一般にあまり知られていないと思いますが、骨髄移植は生存率が5年と言われています。治療中に凄まじい痛みや吐き気といった辛さがありますし、移植が無事済んだ場合でも後遺症が出る事が少なくありません。移植後の拒否反応の激しさも見聞きしたので、移植は選択しないつもりでした。 カフェでゆったり過ごすのも大切な時間 ———ご家族にはどのように伝えましたか?  実は、家族には心配をかけたくないのであまり詳しい話をしていません。通院も一人でしています。医師にも「私の事なのですべて私に話してください」と言ってあります。 ———ご自身の状態はどう捉えていましたか?  当時は、私が生きているだけで家族にも社会にも迷惑がかかってしまうと感じていました。稼ぐこともできない。独身ゆえに面倒をみるべき守るべき家族もいない。しかも、輸血で人の血をいただきながらしか生きることができない…。役割を失いお荷物になってしまったと感じ、「朝目覚めたら、天国でありますように」と願いながら眠りにつくような毎日でした。 🍀ただ「ここにいる」ことを必要としてくれる誰かがいる 地元商店街に夕食の買い物に行きます ———どのように再起を果たしたのでしょうか?  病院の中に難病の方がいて、NPOで働くという選択肢があること、「障害者雇用」というものがあることを教えてくれました。障害者雇用を推進している現在の会社の社長と面接する機会を得た際、私が自分の病気について話し終わると、社長が「ぜひうちで働いていただけませんか?」とおっしゃったのです。  その時はビックリし過ぎて、まともに返事ができませんでした。病気になってから誰かに「ぜひ」と言われたのは、初めてのことです。明日の命さえわからない自分を雇ってくださるとは…。不思議なことにその言葉をきっかけに、私の症状はゆっくりとですが安定してきました。 ———今はとてもお元気そうに見えます。奇跡の回復を果たしたのですね?  みんなによくそう言われますが、実は検査数値を見ると状態は決して良くないんです。今も免疫抑制剤を一日10錠程度服用しています。疲れやすいし、体力も落ちました。息切れがひどいですね。  それに男性ホルモンの入った薬の副作用で声がハスキーになったんです。すでに薬はやめていますが結局声は戻らなかった。声帯が変化しちゃったんですね。だから自分の声には今も違和感があるかな。このように回復したわけではなく病気とともに生きています。  でも、私病気になる前より自分は幸せって思えるんですよ。 ———病気を抱えていても今のほうがいいのですか?本当に?  そうです。私の周囲の環境も変わりました。以前仕事をしていた時には成果主義、減点主義の世界で生きてきたんですね。今周りにいる人たちは価値観が違う。そこが居心地がよいと思っています。  そのことを教えてくれたのはペットの猫かもしれない。それまでの私は誰かの役に立たないと自分の価値を確認できなかった。そんな私が一時期は寝たきりになっちゃった。そして人の血液を週に1回の頻度で輸血していただかないと生きていられないということを受け入れなくてはならなかった。そんな時私は病気になる前から飼っていたミー君(猫)を見て思ったんです。猫って、何にも役に立たないでしょ。でも本当にそこにいて、「ニャーご飯ちょうだい」っていうだけで私を幸せな気持ちにしてくれるなと。猫に触れていたら「あっ私、いるだけでいいんだ」って思った。今まで気づかなかったことを病気が教えてくれた。そういうことがなければ今ここにいないかもしれないと思うんです。 商店街の魚屋さん。猫のミー君の御馳走あるかな? 🍀病を得て見えてきた新しい価値観 ———食べることがお好きなんですね。  はい。おいしいものを食べた時の喜びがとても大きいですね。私が「おいしい!」と感じる基準は、それを料理する人が心を込めて作っていて、食べる人に「喜んでもらいたい」って思っているかどうかですね。 ———旅行や山登りも趣味とお聞きしましたが。  病気になる前の私は、自然になんて全然興味がなく仕事に熱中していました。今は自然の中に行くことがとても大切な時間に思えるようになりました。主治医の先生は私のことをちゃんとわかってくれているみたいで、内緒で旅行の計画を立てていたりすると診察の時に「いつ山に行くの?」なんて尋ねられたりして驚きます。先生は私がどんなことをしても絶対に全否定はしないですね。「治癒しますよ」とも言わないし、「骨髄移植しなさい」とも言わない。ただそっと寄り添っていつも支えてくれているんです。私ってとても幸せ者です。 お気に入りの地元のカレー屋さんベジフルスパイス。真心込めて作られたおいしい料理。盛りつけも美しい 上高地の幻想的な草原を訪れ、美しさに息をのみました 戸隠神社奥社で。自然はでっか〜い ———今の状態について誰かに「ありがとう」を言うとしたら?  うーん。1人は選べないです。私を雇ってくれた会社の社長、献血をしてくれた会ったこともない人々、主治医の先生、母や弟やお嫁さんや姪っ子、家族のみんな…周りの人本当にみんな!「もう感謝しかないよ」なんて言ったら昔の友達はひくかもしれないなあ。でもそれでもいいと思っているんです。だからみんなへの感謝の代表として、ふふふっ 字は読めないけど私に「生きてそこにいるだけでいいんだよ」って教えてくれた猫のミー君に手紙書きますね。これは出さない手紙だけど。みんな、そしてミー君 いつもありがとう! インフォメーション:再生不良性貧血 再生不良性貧血は血液中の白血球、赤血球、血小板のすべてが減少する疾患です。これらの血球は骨髄で作られますが、この病気にかかった人の骨髄を調べると、骨髄組織が多くの場合脂肪に置き換わっており、血球が作られていません。そのために貧血症状、感染による発熱、出血などが起こります。この病気は難病に指定されており、患者さんの70%は原因不明といわれています。2006年の調査では、全国の患者数は約11,159人で、新たに発生する患者さんの数は100万人あたり6人前後とされています。赤血球、好中球、血小板の減少によって、めまい、頭痛、身体がだるくなる、疲れやすい、狭心症のような胸痛、息切れ、動悸などさまざまな症状が起こります。 (撮影)多田裕美子

  • おばあちゃんと日曜日の公園へ。うまく木登りできるかな?

    【第3回】結婚、子育て、そして患者会の運営。おいしい手料理で支えてくれるお母さんに「ありがとう」

    竹井京子さん プロフィール 1968年 東京都出身大学の英文科を卒業して1990年に旅行会社に就職。入社8年目、激務のストレスが原因で潰瘍性大腸炎を発症。転職して財団法人に再就職し、現在に至る。潰瘍性大腸炎の患者会「ちばIBD」副代表。 🍀子育て、家事、仕事、そして患者会。毎日がフル回転で過ぎて行きます。 平日は保育園、休日は自然の中で子どもと遊びます ———今お子さんが3歳。子育ても大変な時期、忙しそうですね。どんな毎日ですか?  はい!私は10時から16時半まで事務の仕事をしています。起床は6時。朝のうちに朝食とお昼のお弁当の準備。そして夕食の下ごしらえをすませます。9時に息子を保育園に預けて出勤です。夕方は子どもを迎えに行き、19時に帰宅ですね。ご飯を食べ、お風呂に入れて21時半頃までに絵本の読み聞かせをし、子どもを寝かしつけてから、洗濯をしてやっと一日が終わります。休日は患者会活動をしています。患者会がない週末は、子供と公園で遊びます。昼食を食べて一緒にお昼寝をし、家族で近所のスーパーに買い物に出掛けて、夕食です。その後、主人と子供が2人で遊んでいる間に掃除をして、お風呂と就寝…。やることいっぱいの毎日ですね(笑) 🍀旅行関係の超多忙な業務とストレスが原因で発症 ———活動的でお元気そうに見えますが、潰瘍性大腸炎という慢性疾患を抱えていらっしゃる。難病と聞いていますがどんな病気なのでしょうか?  潰瘍性大腸炎の特徴的な症状としては、下血を伴う下痢が起きたり、急に腹痛が起きることで、トイレに駆け込まなければならないことも少なくありません。と言っても私はそんなに重症なほうではなく、手術もしないで済んでいます。潰瘍がひどい場合は大腸を手術で切除しなければならないこともあります。 ———どんなきっかけで病気に気づいたのですか。  1990年に旅行会社に就職し、東京駅の支店でカウンター業務を経験後、内勤で国内や海外旅行の手配に従事しました。毎晩22時半くらいまで勤務をし、真夜中に自宅に帰宅する日々を送るうちに、次第にお腹の調子が悪い日が続くようになりました。最初は症状もなく、便をした後にお尻を拭くと小さな血がついているのをみててっきり「痔だ!」と思っていました。  そんなある日、職場の健康診断で便潜血検査をしました。その後レントゲンの検査があったのですが、最初に受診したお医者さんは、レントゲンに特別な異常はないと判断したようです。しかし、母が親戚などに大腸がんの人もいるため遺伝的なことを心配して、私に別の病院で再診断することを勧めてくれたのです。この時の先生がラッキーなことに潰瘍性大腸炎の専門医でした。この先生は最初の検査の時と同じレントゲン写真を見て「これは大変な状態になってしまっています。潰瘍性大腸炎という病気ですね」と告げられました。それでも比較的早期発見だったほうだと思っています。 ———発症当初はどんな症状があったのでしょうか?  当時はいつも疲労感が抜けず、仕事の忙しさから来る睡眠不足もあって生あくびが頻繁に出ていました。それからおならも我慢できなかったです。父には「年頃の女性が人前で、そんなにおならをするんだ。場所を考えろ」と叱られました。後でそれが病気の症状だと知った父は「かわいそうな事を言ってしまった」と言っていたそうです。  いつも気が張り詰めていて、自宅でお風呂に入っている間も仕事でやり忘れたことを思い出すというように、落ち着くことがありませんでした。お腹の調子がどんどん悪くなり、これ以上、旅行業界で働き続けるのは限界だと感じました。転職を決意し、財団法人である現在の職場の就職試験を受けたのです。 🍀誰かの役に立っているという思いが自分の病を受け入れる事につながった 自分だけはすぐ治してみせるなんて思っていました。 ———働く環境を変えたことでどんな変化がありましたか?  仕事を変えて忙しさからは解放されました。しかしいくら身体に負荷がかからないように大人しく生活していても、ストレスや疲れがあるとすぐに下痢や血便になってトイレに走る…「どうしたら元の生活に戻るのだろう」と当時はそればかり考えていました。風邪などの病気は、一定の期間が過ぎれば、治癒して元通りになるのにと、納得できずにいました。「私だけはこの病気を治して元気になってみせる」とさえ、思っていました。 🍀家族の理解と協力と患者会活動を支えに明るく楽しく前向きに ———患者会がスタートして10年になるそうですね。  はい最初のきっかけは、ネットで同じ病気の人の相談に乗り、症状が楽になった人達から「ありがとう」と言われたことでした。その時期に、ある保健師さんが、潰瘍性大腸炎の患者会を設立しようとしていて、「やってみない?」と声を掛けられたのです。患者会では患者さんやそのご家族から「同じ病気の人と話せる機会があって、安心した」「自分1人じゃないと思えた。同じ悩みを共有したり、相談したりできる場があって、本当によかった」と言われることにやり甲斐を感じています。また忙しい先生方はどうしても短時間診療になってしまいます。そんな時、不安を持った患者さんの疑問などに自分や他の患者さんの経験からお話することもしています。  活動を通して講演会に参加して主治医以外の話を聞いたり同じ病気の人の症状の相談にのっているうちに、私自身に変化がありました。「元通りの身体に治そうとするから精神的にもつらいんだ。難病と言われるからには治らないのだから、病気と付き合う方法を考えよう」と思えるようになったのです。 寝る前はパパと一緒に絵本を読むのが楽しみ ———愛情深いご家族に囲まれて幸せですね。  主人とは、患者会で知り合いました。同じ病気を持ち、彼は私より症状が重い状態を経験しています。このため私が食後にトイレに駆け込む姿を見ては、「今は、あまり状態がよくないようだから、無理をしないで」と声を掛けてくれます。また、彼はお料理が趣味で得意なので、休日の昼食と夕食は、彼が手料理をご馳走してくれるんですよ。 🍀頑張っている先輩を見て出産も子育ても大丈夫だと思た ———出産、子育てはなかなか大変なことですよね。  はい。3年前に妊娠が分かった時、一番喜んで応援してくれたのは母でした。病気を持ちながらの出産は不安なことも多かったですが、同じ病気の先輩方が何人も出産していたので、自分も大丈夫だろうと思えました。また、自分の出産で、他の患者さんへ勇気を与えることができたら素敵だと考え、妊娠中もワクワクしていました。  そして無事出産できて、大変ながらも無理をせず順調に子育てをしていたのですが、子供が2歳になって間もなく、たまっていた疲労から熱を出し、病気が悪化し、下痢と血便が止まらなくなりました。 1日20回以上の便意に襲われ、トイレから離れられず、トイレで寝たいと思う状態でした。  最後は水を飲んでもトイレに駆け込むようになり、とうとう入院しました。このため実家の父母に息子を1週間預けることになりました。母と息子が毎日病院へお見舞いに来てくれて、帰りは泣かずに元気に「バイバイ〜」と帰って行くのですが、夜になると「かあさん。かあさん」と泣きじゃくっていると聞いて、こんな小さな子に負担をかけて申し訳ないと涙が出ました。 🍀頑張りすぎず、無理はせず、でもできることをきちんと おばあちゃんの手料理。孫の優志君の大好物の天ぷらとカツ。 ———今一番大切にしているのはどんなことですか?  仕事と家事&育児と患者会活動の両立ですね。どれも自分にとって欠かせないものなので、頑張りすぎずに、無理な時は無理してやらない・・。できることを1つずつやる、というスタンスで楽しむようにしています。職場の方たちは私の状態などからすでに病気のことは知っていると思いますが、あえて病名などを尋ねられたことはありません。私も自然体で無理をせず、でも仕事はきちんとこなすということで周囲には理解してもらえていると感じています。 ———ご家族がとてもさりげなく日常を支援してくださっているのですね。  同じ病気を持つ主人と結婚することを決めた時、父母は「何かあったら、助けてあげるから、やるだけやってみなさい」と背中を押してくれました。後から話を聞くと、父母も同じように不安だったそうです。両親は今も、主人の身体のことも心配し、私たち家族のために家事や育児を手伝ってくれます。  私が実家に帰ると、自宅に戻る日に必ず、母が大量の料理を作ってもたせてくれるんです。私が仕事と育児で疲れて病気が悪化しないようにとあらゆる面で、サポートしてくれています。仕事と育児と患者会運営を両立できているのは、本当に母のおかげです。感謝しています。  これからも負担を掛けてしまうことが多いと思うけど、長生きをして、太陽のような微笑みで周りを照らし続けてください。 郊外に引っ越したことをきっかけに57歳で自動車免許を取得したというお母さん。公園にはお母さんの運転で。 旅行が大好き。笑顔が素敵なお母さん。 インフォメーション:潰瘍性大腸炎とは? 潰瘍性大腸炎は大腸の粘膜の内側の層にびらんや潰瘍ができる病気です。潰瘍性大腸炎の患者数は133,543人(平成23年度特定疾患医療受給者証交付件数より)人口10万人あたり100人程度といわれていますが、食生活の欧米化とともに増加しています。特徴的な症状としては、下痢が頻回になることや下血、そしてよく起こる腹痛です。潰瘍の病変は直腸から連続的に、そして食道側にまで広がる性質があります。基本的には良性の病気で、ほとんどは適切な内科的治療により普通の生活が送れるようになりますが、中には腸管が広がってしまう中毒性巨大結腸症や腸の壁に孔があく穿孔となる場合など、病気が悪化するケースもあります。 千葉のIBD患者会 ちばIBD http://www.chiba-ibd.com難病情報センター http://www.nanbyou.or.jp/entry/62 (撮影)多田裕美子

  • 近所のお店で、支えてくれたお父さんと二人、お茶を飲む石村さん

    【第2回】再就職して8年目、もうすぐ結婚。働き続ける勇気をくれた父へ「ありがとう」

    石村徹さん プロフィール 1965年東京都出身 オンライン情報処理技術者大学院でコンピュータシステム開発の研究をし、卒業後、鉄鋼会社に入社。約20年前に躁うつ病との診断を受け、9年後退社するも、現在の旅行会社に就職。 🍀激務から発症するも、精神疾患への偏見から、受診を避けた日々 「発症するまでは、体の丈夫さに自信がありましたが……」と石村さん ――躁うつ病が発症した頃、どのように過ごされていましたか。  大学院を卒業した1990年頃、大手鉄鋼会社にSEとして就職しました。社員寮から通勤していましたが、その頃は景気が非常に良く、毎日4時間しか寝ずに一週間仕事をするような激務です。慣れない顧客との関わりも多く、心身共にすり減らして働いていたんだと思います。  入社3年目くらいから、顧客と同僚につじつまの合わないことを言うなど、だんだん周囲から「少しおかしいよ?」と言われるようになりました。そのため、上司に受診を促されました。  最初は体の病気の検査をしましたが、問題は見当たりません。「もしかして心の病気?」と思ったのですが、精神病への偏見もありましたし、認めたくなくて……カウンセリングに半年ほど通いましたが、全く良くなりませんでした。 🍀父の発病にショックを受け、自宅で一人きり昏倒 ――躁うつ病は、状態を自覚して診断されるまでが難しいと言われていますが、石村さんが精神の疾患として受診しようと思ったのは、どのようなことがきっかけですか。  不安を抱えながら、社員寮から実家に引っ越した頃、父が狭心症の手術をすることになりました。頼りにしていた父がまさか病気になるなんてと、自分が背負わねばならないものがとてつもなく大きく感じ、ものすごいストレスがかかったんだと思います。自宅の和室で一人きりになった時、倒れこんでしまったのです。10分ほどでしたが、その時はっきりと「自分は精神の病気なんだ。このことに耐えられないんだ」と自覚し、「もうどうにでもなれ」と開き直って、受診を決意しました。  幸いなことに父の手術は成功して回復し、私が当時の会社の産業医を受診するのに付き添ってくれました。そこでやっと、躁うつ病だと診断されたのです。 🍀人を厳しく批判してします躁状態と、足がすくんで出勤できないうつ状態 ――石村さんが躁の状態、うつの状態の時は、それぞれどうなりますか。  僕が躁の時は、傍目には元気でエネルギッシュに見えるようですが、些細なことで「あいつはここがダメだ」と、きつく人を批判してしまうんです。だから、躁状態がコントロールできなかった頃は、周りの人もビックリしていたと思います。  自分はその時「調子がいいぞ」といい気分なので、周囲の人の声が拾えなくなっています。でもその後、ひどい自己嫌悪に陥ります。躁の時に高揚が高いほど反動は大きく、その後辛く長いうつ状態が続くのです。  うつの時には、スーツに着替えたのに家から出る力が出ない、頭はぐるぐるいいわけで回っていて、足は動かない、という状態がよくおこります。 🍀障がい者枠で再雇用が決定。病気をオープンにして、症状コントロール。 近所の公園の緑を抜けて通勤 休日のうち1日は意識的に休息。自宅で猫とくつろぐことも。 ――精神障がいを抱えることになった後、お仕事や環境はどう変化しましたか。  発病9年後に最初の会社を退職しました。しかしちょうど障がい者の法定雇用率に精神障がい者が組み入れられるタイミングでした。今度は精神障がい者として再スタートする覚悟を決めた私は、ハローワークをたずね、退職から約1年後、現在の旅行会社に再就職できたのです。  今は障がいをオープンにしているので、休息の時間など、ハローワークが僕の立場から上司と話し合い、配慮してくれます。同僚も、私との協働について話し合ってくれたらしく、今でも年に1回くらいは躁状態が出てしまうのですが、「しかたないよね」と理解してもらえます。  躁を早い段階で止めれば、反動のうつも食い止めることができますから、今は、躁状態が出かかった時に「ちょっとおかしいよ!」と率直に言ってくれる人を大切にしています。 でももっと大切なのは、躁にならないようにコントロールすること。薬の進歩もありますが、意識的に休息をとったり、上司が私に仕事を振りすぎないよう配慮してくれるなど、自分の努力も周囲のサポートもあり、今は以前より全般的に症状が軽くなっているように思います。 🍀男二人、晩ご飯を食べるときに交わされる、父との対話 ――精神障がいを抱えながら仕事を続ける中、支えになったのはどんなことですか。  病気との闘いを、父はずっと支えてくれました。特に仕事について、発病してすぐ、父に「サラリーマンは座っているだけでも仕事なんだ」と言われました。当時はよくわかりませんでしたが、現在の会社に入ると上司もそう言うのです。上司は、仕事を調整しながら、私の手が空いていればちゃんと仕事を回してくれます。その状況になってやっと、父の言葉の本当の意味がわかってきたのです。  昔はあまり相談することはなかったんですが、発病後は父といろいろ話すようになりました。母が趣味の旅行に出かけ、自宅で男二人きり、晩ご飯を食べている時、父がぼそっと「最近、先生(かかりつけ医師)はなんて言っている?」と聞いてきます。そんなところから、将来的なお金の設計のことや、最近は彼女との結婚に関することなど、暮らしに関わるさまざまなことを話します。 「父がそっと応援し続けてくれたことが、精神的な支えになりました。」 🍀ともに障がいを抱えるカップルだからこそ、お互いを把握し支え合う 川津桜を見に、婚約者とふたり伊豆旅行へ ――現在、ご結婚を控えていらっしゃるんですね。  ええ。患者会で知り合った彼女も統合失調症の疾患を持っています。仕事の帰り道に、婚約者が毎日メールをくれます。お互い支え合うために、自分の情報や状態をなるべく彼女に知ってもらうようにしているんです。私が調子が悪くて「今ダメなんだ。ごめん」とデートをキャンセルしたときも「ウン、わかった」と、とても優しく言ってくれました。  私も彼女の調子はできるだけ把握したいと、顔色をうかがっています(笑)例えば、彼女の調子が悪いときは、声が細く弱くなります。気遣い合うことで、自分が支えられていることを強く感じます。 🍀失敗しながら一緒に働いていける社会を 「最近、私の会社にさらに少しいい条件で精神障がい者が入職しました。私が働いた8年、無駄ではなかったかな。」 ――精神障がいを抱えながら再就職ができたのは、素晴らしいですね。  法律改正のタイミングもよく、自分でも思いきって障がい者としてアプローチして、再就職が果たせました。その時、精神障がい者が社会の中で働いていくことを広く認めてもらうために、自分がいるのかな、と思えたんです。  こんなふうに働き続けてこられたのは、自分が失敗から学んでこられたからです。そして、調子の悪いときには父をはじめとする家族や婚約者、周囲の方々がそれを気づかせてくれ、良いときにはさりげなく気遣い見守ってくれて、失敗しても大丈夫な雰囲気にしてくれた周囲の優しさのおかげだと感謝しています。  このようなほどよい距離感で精神障がい者をサポートし、失敗しながらも一緒に働いていける社会になるといいなと思っています。 カードを受け取るお父さん。「息子の結婚が決まって、私もホッとしました。」 インフォメーション:躁うつ病とは? 躁うつ病は双極性障害と呼ばれ、「ハイ」になる躁状態と、気分が沈むうつ状態が出現する病気です。心身に受ける大きなストレスによって発症、再発することも多くあります。躁状態の時は気分が爽快で楽しくて仕方がなく、夜は寝なくても平気で、疲れを知らずに活動します。多弁で早口になり、豊かなアイデアがわき、浪費が始まることも。自分を有能で素晴らしい人間だと感じ、最初のうちは、仕事がむしろはかどります。しかし、さまざまな考えが次々浮かぶため、気が散り集中できなくなります。短期間のうちに悪化し、感情が高ぶって怒りやすくなります。この躁状態のあとには大抵、うつ状態が続き、今度は活動ができない時期がやってきます。双極性障害の治療で最も大切なのは、再発予防です。再発をくり返すことで社会的な信頼を損ねるなどのハンディを負うことがあります。治療法は少し前までは薬物療法が中心でしたが、認知行動療法などリハビリテーションの方法も進歩し、薬なしで生活できるようになる方もいます。 (撮影)宍戸友美  (撮影協力)三軒茶屋 ミシン

  • お客さんとコミュニケーションしながら、焼きそばを鮮やかに調理する神田さん

    【第1回】30年ぶりのお客様を見送り、涙。支えてくれる全ての人へ「ありがとう」

    神田菊子さん プロフィール 1945年 千葉県出身1965年より浅草寺横でお好み焼き店「つくし」を開業。旦那様を早くになくし、息子さんを3人育て上げ、現在は一人暮らし。14年ほど前に糖尿病との診断を受ける。  「おいしいんだから!待っててね!」鉄板に立ち上る湯気の向こうで、焼きそばを勢いよくさばく神田さんは、創業49年、浅草の老舗お好み焼き店のおかみさん。明るい人柄に惹かれたお客さんで、お店はいつも満員!  元気な神田さんですが、実は慢性の糖尿病を抱えています。 🍀二坪から始めたお店を切り盛り……あるきっかけで暴飲暴食の生活に 「昔はビール4~5本くいくい飲みました……」と菊子さん ――浅草でお店を始めたのはいつですか?  昭和41年の20歳の時、今年で49年目です。当時、会社を興したばかりの主人を経済的に助けようと、自分でできるお好み焼き屋を始めたんです。三人の息子の子育てしながら、商売していました。  少し余裕もでてきた10年目ころ、主人が病気で亡くなりました。そのころから夜飲みに行ったり、外食したりが増えていったんです。仕事があがった夜12時から2~3時まで、スナックで飲んだりゴーゴーを踊りにいったりね。楽しかったです。でも、50歳まで20年もそんな生活を続ければ、具合も悪くなるわよねえ。 🍀だるくて風邪を引きやすい……「えっ!あたし糖尿になるの?」 ――糖尿病に気づいたきっかけは何だったのでしょう?  55歳くらいの頃、なんだかちょっとだるいなとか、疲れがとれず風邪を引きやすい感じがあったんです。それで区の定期健診に行ったら、「糖尿病です」って。「え?あたし糖尿になるの?」ってショックでしたけど、「飲み過ぎ、食べ過ぎですよ」ってお医者さんが言うのに納得してしまいました。  実際には痛くもかゆくもないから、始めは血糖値に気をつけなかったんです。でも、足がだるかったり、頻繁にトイレに行きたくなったりしているうちに、だんだん血糖値が下がらなくなり……ついに慢性で薬が必要と言われ観念しました。 3週間に一度もらう薬は、きちんと管理し欠かさず服用します 🍀「食べたい自分」との葛藤の日々…受け入れられたのは年齢のおかげ  始めは自分だけ美味しいものを食べられないとか、お酒が飲めないとか、空腹を我慢しなければならないことを全然受け入れられなかった。数値は上がるし、もう「食べたい自分」との葛藤! すごく落ち込んで…。 ――どうやって受け入れる事ができたのですか?  年齢のせいもあるかなと思います。体が暴飲暴食を求めなくなってきた感じ。おいしい物をちょっとでいい。70歳の声を聞いて腹五分目が平気になって、やっとこれでいい子になりました(笑) それから一緒に遊んでいたお友達が倒れたり亡くなったりということもあります。長生きしているのはお酒のまない人ばかり。飲む相手がいなければいかないよ。 🍀野菜たっぷり&手作りで、忙しくても毎食定時に食べるコツ ごぼう・レンコンetc…たっぷり温野菜サラダのモーニング 手近な野菜でジュース きな粉がおいしさのポイント ――いま食生活はどんな風になりましたか?  朝7時に喫茶店で、野菜がたっぷり入ったサラダつきモーニングを食べています。昼は1時ころ。  夕飯は7時と決めています。この時間に仕事が忙しく座って食べられない時には、調理場で豆腐などカロリーの低そうなものを少しずつバランスよく選び一口ずつゆっくり噛んで食べて夕食にします。それ以外は間食しません。お菓子をもらっても食事の時までしまっておき、お菓子+ご飯で腹七分目を考えて食べます。  カロリー計算は苦手なので自分の感覚でバランス良く考えて、1食に20品目くらいは採れるようにします。味付けはだしをうまく使って薄味に。砂糖の替わりにみりんやはちみつを使い工夫します。 🍀息子の犬を借りて散歩&フィットネスで、「体を動かす」を毎日の習慣に  朝5時には目がさめて、6時半からは息子の家の犬と40分間散歩です。深呼吸をしたり、足をもちあげたり、股関節をひろげたり。  毎日午後3時になると、近所のフィットネスに行きます。ヨガなどの運動に参加したり、無理ならお風呂だけ行って戻り、昼寝したり家事をしたり。7時までは、二階でくつろいでいます。  夜はお店が忙しそうなら手伝い、暇なら外食に出ます。夜9時には夜の部、2回目の犬の散歩に行きます! 雷門が毎日のコース 犬と一緒に浅草寺界隈を散歩&軽く運動が日課に 🍀自分の体を守っていると、全てのひとに「ありがとう」と言いたくなる 「病気があっても元気。自然とありがとうって優しい気持ちになります」  自分の体のことをちゃんとやっていると、家族やスタッフ、友達、お店のお客様、すべての人に支えられているって感じます。  10年ぶり、30年ぶりに尋ねてきてくれるお客さんもいて、涙が出ちゃいますよ。元気に店を続けていたから会いに来ていただけたのよ。そんな時、外まで見送って「ありがとう」っていいます。  一緒にご飯を食べる、お友達になってもらう、旅行にいってもらう。これもね、相手が嫌だったら行ってくれないです。だからね、自分もみんなが大好き。愛しているから愛されるのね。息子たち、お嫁さん、孫、スタッフ、お客さん、浅草の友人、すべての方にありがとう。そういう気持ちでいると優しくなれるものなんですよね。 管理栄養士のワンポイントアドバイス 神田さんは糖尿病という病気をきちんと受け入れて、自分の体を愛し大切に管理し、とてもよい食生活を送っていますね。実は糖尿病食というのは、一般の方にとっても理想の食生活なのです。神田さんは食事の時間も7時、13時、7時と6時間ずつあけ規則正しくしていますね。多品目の食材を薄味で調理していること、よく噛んで食べている点もいいですね。ただ少し気になるのは、必要なエネルギーがきちんと摂れているかどうかです。機会があれば一度病院の管理栄養士に食事量を確認してもらうとよいでしょう。また、運動は食後が理想です。朝食前の散歩の時には空腹による低血糖状態になってしまうことを避けるために、昼の野菜ジュースを散歩の前に飲んだり、ビスケットや小さなおにぎりなどを少し食べてから散歩に出ることをお勧めします。 【(公社)東京都栄養士会 管理栄養士 長田史恵】